第55話 人並みの幸せ
アルフェは僕が最後に目撃した場所、岩の上で気を失ったままだった。
「……アルフェ。アルフェ」
アルフェを抱き起こしながらそっと声をかける。僕の声にアルフェの瞼が反応するのがわかった。
「……ぅ、リーフ……」
微かに呻くアルフェが僕の名を呼ぶ。
「僕だよ。ここにいるよ、アルフェ」
努めて優しく呼びかけながらアルフェの顔にかかった髪を退けると、その瞼が不意に開いた。
「リーフ!」
目を覚ましたアルフェが僕の名を叫び、それと同時に僕に抱きついた。
「わっ!」
アルフェの勢いに負けてその場に尻餅をつく。
「リーフ、リーフ、リーフぅ!」
アルフェは僕をきつく抱き締め、頬を擦り寄せながら何度も何度も僕の名を呼んだ。
「ちょっ……く、苦しいよ、アルフェ」
「……良かった。リーフが無事で……ワタシ、ワタシ……」
「そう簡単には死なないよ。アルフェが悲しむからね」
アウローラに死の宣告をされたとき、真っ先に過ったのはアルフェの悲しむ顔だ。両親のことは百歩譲ってアウローラの言うとおりだったとしても、アルフェが僕のせいで悲しむのは、すごく嫌だと思った。アルフェは何も知らないし、僕が死ぬなんてことを考えたこともないだろう。だから、あのアウロー・ラビットを見て気を失うほどショックだったに違いない。
「……あの兎さんは……?」
「もういないよ。どこかに逃げていったみたい。小さくなっちゃったしね」
「……そっか……」
それでもまだ不安があるのか、アルフェはきょろきょろと辺りを見回している。それとも僕には見えないなにかを探してくれているのかな。
「なにか見える?」
「ううん。あのおっきなエーテルもないなって」
「それは良かった」
アルフェが言うのなら間違いないだろう。女神は僕の睨んだとおり、反物質の結晶であるダークライトにエーテルを吸収されて、『神おろし』自体も維持出来なくなったようだ。
「……これからどうするの?」
「アーケシウスも壊れちゃったし、とりあえず帰るよ」
ようやく落ち着いたアルフェの手を引いて立ち上がらせながら、促す。
「あっ、ちょっと待って」
アルフェはそう言うと僕の肩に手を置いて顔を寄せたかと思うと、頬に口付けた。
「え……っ?」
「ここ、少し切れてる。痛いのとんでけのおまじないだよ」
唇を離したアルフェが、自分の頬を指しながら僕の怪我を教えてくれる。
「あ、ああ……ありがと……」
手の怪我の方が酷いんだけど、これを見たらきっと驚くだろうから、さりげなく背に隠した。
「どういたしまして」
なにも知らないアルフェは得意気に微笑んでいる。それにしても、口付けをおまじないにするなんて、子供は面白いな。女神が現れた時は確かに命の危機を感じたはずなのに、アルフェとこうして触れ合っていると、その恐怖が和らいでいく。
やっぱり僕は、アルフェがすきらしい。
◇◇◇
アーケシウスにアルフェを乗せ、トーチ・タウンの港湾区に入ったところで僕は気を失ってしまったらしい。気がつくと、乳児の頃に健康に関する検査のようなものを受けた病院に運ばれていた。
既に外は真っ暗で、父も母もいない。ただ、二人が来た痕跡として『早く元気になってね』と記された手紙が残されていた。字を構成する線が歪んでいるところを見るに、これは相当な心配をかけたに違いない。母には父に続いての心労をかけてしまったから、当面は大人しくしておいた方が良いだろうな。
僕のベッドがある病室からは、夜の穏やかな湖が見える。この前の嵐の時とは打って変わって、静かで美しい絵画のような景色だった。既に怪我の処置や検査などは終わっているのだろう。僕の身体のあちこちにある打撲や、手のひらの切り傷などには薬草などを塗布した
「それにしても……」
生まれてから初めてこうして一人の夜を迎えたように思う。開け放たれた窓から入ってくる夜風が心地良いな。グラスの頃は一人が当たり前で、なんとも思わなかったはずなのに、こうして知らない部屋で一人でいると心細いと思ってしまう僕は、すっかりリーフとしての人生に馴染んでいるようだ。
月明かりに照らされた湖上では、いつの間にか金色の蝶が舞っている。きらきらとした鱗粉を散らして舞う蝶は、風に乗ってこちらへと近づいてきた。
「……まさか、ね」
蝶が優雅に
「そのまさか。ボクはクロノス、フォルトナの使いでここに来た」
蝶が喋った――そう表現して良いのかわからないが、蝶から女の子の声がした。クロノスという名は、アウローラ、フォルトナと同じ女神の名だ。
「処刑はアウローラの独断。フォルトナもボクも同意してない。女神の総意じゃないことをまず伝える」
「……それはどうも」
女神というのは、どうも苦手だ。だからといって、僕の命が危険に晒されたことには変わりはないというのに。
「アウローラはグラスを過剰に警戒してた。勝手に処刑しようとしたのはそのせい。ボクも脅されてアウロー・ラビットを用意したけど、キミの機転で追い払ってくれて助かった」
「それで、そのアウローラはどうした?」
「今はフォルトナと大喧嘩してる。だからボクが代わりに来た」
なるほど。力関係が少しわかってきたように思う。
「用件を聞くよ。話して」
「……今後はもうキミに危害を加えるつもりはない。本来、ボクたちは地上界にみだりに降臨してはいけないんだ。そういう取り決めになっている」
「それは、誰との取り決め?」
「精霊だよ。この地上界を管理しているのは精霊たちであってボクたち女神が直接干渉することは禁じられているんだ。直接干渉できないから、
なるほど、だからグラスの処刑にはカシウスが来たというわけか。
「しかも、この国は黒竜神の管轄でしょ? 黒竜神はまずいよ。非常によろしくない」
「なにがどうよろしくないんだい?」
僕の問いかけに、蝶は身震いするように翅を動かした。
「ボクたちは黒竜神にめちゃくちゃ嫌われているんだ。むかし、天界にむりやり連れて行こうとしたことを、未だに根に持っている」
「それは誰だってそうなるよ。どうしてそんなことを?」
「黒竜神の強大すぎる力はこの地上には過ぎたもの――。だから、天界で大人しくしていて欲しかったんだけど、アレは人間が大好きだからね。本気で抵抗されたよ」
クロノスの声に疲れが窺える。恐らく当時のことを思い出しているのだろう。
「……正直、ボクは殺されるかと思った。出来れば黒竜神とは二度と関わりたくない」
なるほど。では、黒竜神は女神も恐れる存在ということになるのか。覚えておこう。
「そういうわけだから、もうボクたちはキミに干渉することを止める。だから、キミもくれぐれも禁忌を犯すことだけはしないでよ」
「待ってくれ、その禁忌というのは――」
僕が言い終わるよりも早く、蝶の姿が金色の光の結晶に変わる。それはそのまま夜風に融けて見えなくなった。
やれやれ、これでは女神の気まぐれでなにが禁忌に触れるかわからないじゃないか。
それにしても、疲れた。慣れないことをして、リーフの身体も随分酷使させてしまったな。心身の回復には睡眠が一番だというようだし、眠気に任せて眠ってしまおう。
明日目が覚めれば、またアルフェや父上、母上に会えるのだから――。
◇◇◇
「……っ、リーフ!」
退院後、挨拶を兼ねてアルフェの家に寄ると、泣き腫らした目をしたアルフェが僕に飛びついてきた。といってもいつもの調子ではなく、そっと優しく気遣うような仕草だったけれど。
「リーフ、リーフ、ごめんね……」
「アルフェが謝ることじゃないよ。それより、アルフェに怪我がなくて本当に良かった」
アルフェの無事を改めて確かめ、安堵が込み上げてくる。あのとき、アルフェになにかあったら、僕はきっと正気ではいられなかったし、今後の一生をその後悔を背負って生きただろう。
――僕はアルフェがすきだ。だから、失うのが怖い。
アルフェへの好意を認めると、自分の中に根付いていた恐怖の正体に気づいた。アルフェは僕にとって最早かけがえのない友だちなのだ。この言葉で表現して良いかどうかさえ、僕にはわからないくらいの家族に対するそれとは違う愛情を、僕はこの胸に抱いている。
グラスにはなく、リーフとしての人生で初めて芽生えた気持ちだった。だからこそ、これを自分の感情として認識するのがすっかり遅くなってしまった。
「リーフ……、すき……。だいすき……」
アルフェが僕を抱き締めて、耳許で囁く。
「僕もだいすきだよ、アルフェ……」
アルフェのすきに、やっと本当の意味で応えることができたような気がした。九年もかかってしまったけれど、僕はリーフだ。生まれ変わって、新しい人生を生きているのだ。
フォルトナが言っていたような幸せというものは、案外こういう日常なのかもしれない。あるいは、それ以上のことがあるのかもしれない。
生まれてから九年、リーフとしての人生では、まだ知らないことがたくさんある。幸せだってその一つなのだろう。だからきっと、これから探していけばいい。
「約束……覚えてる……?」
「もちろん」
アルフェとの初めての約束。今ならアルフェがどんな気持ちで言ったのか、少しわかる。
この約束がある限り――アルフェが望む限り、彼女はずっと僕の傍に居てくれる。
「ずっとずっとそばにいるよ、アルフェ」
――この人生でなら掴めるのかもしれないな。人並みの幸せというものが。
アルフェを抱き締め返しながら、僕はそれを掴んでみたいと心から願った。
―――――――
読了ありがとうございます。
アルスタ第一章これにて完結でございます。
お楽しみ頂けましたら、大変うれしく思います。
第二章からは中学生になったリーフとアルフェの物語をお届け予定です。
もし作品を気に入って頂けましたら☆評価頂けると大変励みになります。
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