第二章 誠忠のホムンクルス

第56話 卒業式

 演台の端に飾られた花器の中で、龍樹の枝の小さなつぼみが、今にも咲き出しそうに膨らんでいる。


 六年前の入学式の日、アルフェが立ったものと同じ踏み台に上り、僕はアルフェとアナイス先生とともに書き上げた答辞の紙を広げた。


 壇上の僕に、人々の視線が集まっている。セント・サライアス小学校の卒業式を迎えた僕たちの門出を祝いに講堂を訪れた保護者や来賓、在校生たちを見渡し、僕は静かに一礼した。


(リーフ、頑張って……か)


 ゆっくりと顔を上げながらアルフェの視線に応える。アルフェは今にも泣き出しそうに目を潤ませながら、そう唇を動かしていた。


 特待生として六年間の学びを全うした僕とアルフェは、優秀な成績を修め、次のセント・サライアス中学校でも特待生での入学が決まっている。僕たちの在学中に完成した新しい中学校では、つい先日初めての卒業生が巣立ったばかりだと聞いた。


「……春――。若芽の眠るこの季節、僕たちは巣立ちのときを迎えました」


 アルフェが熱心に考えた文言を、出来るだけ情感を込めて読み上げる。アルフェのように色鮮やかな景色が見えるような読み方にはならなかったが、それでも僕たちの考えた言葉に人々が良好な反応を示したのがわかった。


「本日は、僕たちのために卒業式を開いていただき、ありがとうございます。来賓のみなさま、お父さま、お母さま、そしていつも僕たちを温かく見守り、時に厳しく指導してくださった諸先生方、本当にありがとうございます」


 既に暗記している文章ではあるが、大勢の人間を前にして話すことは前世から苦手としている。念のため、一語一句間違えないように紙面の文字を目でなぞりながら、子供らしさを意識して丁寧に読み上げていく。二回目のありがとうございます、に合わせて頭を垂れると小さな拍手が起こった。


「……僕たちは、このセント・サライアス小学校で学んだことを胸に、更なる成長を誓い、セント・サライアス中学校へと進んでまいります」


 拍手の音が止むのを待ち、続きを読み進めていく。ここまで読んだところで、微かなすすり泣きのような声が響き始めた。アルフェは、涙を溜めた目にハンカチを押し当てて僕を見上げている。僕はアルフェに微笑みかけると、結びの言葉を声でなぞった。


「引き続き、ご指導ご鞭撻のほど何卒よろしくお願いいたします。改めて、皆さまに心からの感謝を申し上げ、この先の未来に黒竜神の祝福のあらんことを祈ります」


 あらかじめ仕込んでおいた簡易術式を発動させて答辞の紙を畳み、半歩後ろに下がる。


「卒業生代表、リーフ・ナーガ・リュージュナ」

「リーフ!」


 僕が名前を述べ、深くお辞儀すると同時に、アルフェの声が響いた。感極まったアルフェが、大きな拍手を送りながら泣いている。アルフェにつられたように、生徒や先生方だけでなく、保護者や来賓から惜しみない拍手が送られる。


 こんな子供の挨拶に大袈裟だなとは思ったが、悪い気はしなかった。僕はもう一度頭を垂れ、事前にアナイス先生と練習したとおりに壇上を降りた。卒業生の席に戻る間も、万雷の拍手は鳴り止まなかった。


   * * *


 アルフェと共に講堂を出て正門へと進むと、こちらに向かって手を振る父母の姿が見えた。


「また後でね、リーフ!」


 アルフェも両親の姿を見つけたようで、手を振って駆けて行く。首席証明の賞状を早く見せたいのだろうな、と微笑ましくその背を見つめながら、僕も二枚の賞状が入った筒を胸に抱き直した。


「リーフ、お疲れさま」


 母の労いの言葉に、父も頷いている。どう答えるべきか迷ったが、ひとまず子供らしく笑みを作ることにした。


「……ありがとうございます」


 アルフェの力とアナイス先生の指導を仰ぎ、この年齢なりの最善を尽くしたつもりだったが、果たしてあれで講堂に集まった人々を納得させることが出来たのかと問われれば自信がない。


「父上と母上に、僕たちの感謝の気持ちが伝わっていると良いのですが……」

「もちろんだ。立派な答辞だったな、リーフ」


 不安を口にする僕の言葉を遮るように、父が深く頷く。


「本当に、素晴らしかったわ。あなたは私たちの自慢の娘よ」


 目に浮かんだ涙を隠そうともせず、母が僕を抱き締める。


「ありがとうございます、母上。……父上」


 母の背に腕を回しながら見上げた僕の頭に、父がそっと手を翳す。その手は柔らかにお気に入りの帽子を撫でた。母から贈られた頃はかなり大きかった帽子も、今では僕の身体の一部のようにぴったりと頭の上に収まっている。


「この帽子も、中学校に入ったら新しくしないとね」


 目の高さに合わせて屈んだ母が、僕と帽子を見比べながら微笑んだが、僕は首を横に振った。


「とても気に入っているので、このままがいいです。まだまだ充分綺麗でしょう?」

「……そうね」


 母は少し訝しげな顔をして帽子を検めたが、状態の良さに納得した様子で頷いた。


「リーフは本当に、この帽子を大事にしてくれているものね」

「母上が僕のために作ってくださったものですから、当然です。宝物なんですよ?」


 子供らしく少しはにかむように伝えると、母は目許を綻ばせて何度も頷いてくれた。おそらく、僕が帽子を保存するために色々と手を施していることにはまだ気づいていなさそうだ。


「卒業式を終えてどうだ、リーフ。次は中学生になる実感が湧いてきているか?」

「どうでしょう? 同じ敷地ではありますし、今の延長のように感じていますが……」


 父の問いかけに答えながら、僕は広い中庭を挟んだ向こう側にある、まだ新しい校舎を見上げた。二週間後に入学するセント・サライアス中学校だ。


「多分、アルフェの入学式の挨拶を聞いたら、改めてなにかを感じるのかもしれません」


 思えば、小学校の入学式もそうだった。人生の節目に、アルフェがまた関わってくれるのは覚えやすいな。


 そんなことを考えていると、アルフェが大きく手を振りながらこちらに向かって走ってきた。


「……リーフ! ワタシ、リーフと一緒にお写真撮ってもらいたい」

「いいよ。どこで撮ろうか?」


 二つ返事で承諾し、アルフェに訊ねる。


「卒業式の看板のところがいい!」


 アルフェが指差した正門には、卒業式の文字が書かれた看板が飾り付けられている。花を模した紙で彩られた看板の前にアルフェが立ち、僕に隣に並ぶように促した。


「これじゃあ、看板の文字が見えないよ。いいの?」

「リーフと離れちゃう方が嫌」


 アルフェが僕の腕に自分の腕を絡ませ、頬を擦り寄せてくる。すっかり背が伸びたアルフェの頬が、帽子と髪に触れた。


 ささやかな卒業祝いの食事の後、母が卒業式の写真整理を始めた。ダイニングのテーブルの上には、たくさんの写真が並べられている。いつの間に撮られたのか全く気づかなかったが、一通り目を通してみると、どれも今日一日で撮った写真のようだった。


「母上、これをどうするのですか……?」

「もちろん、アルバムに入れてとっておくのよ」

「リーフの写真は少ないからな、今日は張り切ったぞ」


 傍らでカメラの手入れをしていた父が、僕のアルバムを差し出した。捲ってみると、入学式の写真の他は、幼い頃の写真が数えられる程度しか残っていない。


「我が子の成長は早いものね。もっと撮っておけばよかったわ」


 物心ついてからの写真が少ないのは、写真があまり得意ではない僕に配慮した結果なのかもしれない。そう思うと、今更ながら申し訳ないことをしたという気持ちが湧いてきた。


「……そうですね。母上が望むなら努力しましょう」

「ありがとう、嬉しいわ。……それにしても、リーフも大きくなって……」


 写真の整理を終えた母が、アルバムを引き取ってページを捲り始める。懐かしそうに目を細めていた母だったが、途中でその手が止まった。


「…………」


 母の表情から笑みが消えている。アルバムを覗き込み、そこに写る自分の姿を一瞥いちべつした瞬間、その理由が僕にはわかってしまった。


「……どうした、ナタル?」


 沈黙を破ったのは、父だった。母はアルバムから顔を上げ、青ざめた表情で入学式の僕とアルフェの写真の隣に、卒業式の写真を並べた。


「リーフが……。リーフが……、ほとんど成長していないみたいなの」


 入学時に比べると三十センチは伸びたアルフェに比べ、僕の成長はその半分以下だった。明らかな成長の差に気づいた両親は、視線を僕へと移した。


「……ごめんね、リーフ。気づいてあげられなくて」


 異物を見るような視線を向けられる覚悟をしていたが、向けられたのは慈愛と憐憫れんびんの入り混じった視線だった。思いがけない謝罪の言葉を向けられて、僕は首を横に振った。


「……どうして謝るのですか? 僕はどこも悪くないですよ」

「だが、アルフェちゃんと比べて、随分成長が遅いようだ。リーフは小食でもあるし、個性ではないかと思ったが……」

「……そうね。中学に入る前に、黒竜灯火診療院で一度詳しく調べてもらいましょう」


 なにかを決意したような母の提案に、父が深く頷く。僕はその言葉に従わざるを得なかった。

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