第13話 アルフェとの日々
――どこかで『普通』の赤ん坊を参考にできると良いのだが……。
そう思った時期が僕にもあった。それが赤ん坊らしく『普通』に生きるために最善だと思ったからだ。
そして今……。
「あーう、あーう」
僕よりも数ヶ月遅れて生まれたアルフェという名の赤ん坊が、僕の隣に寝転びしきりに顔に手を伸ばしてくる。
「あうあー」
なにかを訴えるように、にこにこと笑いかけられているのがわかる。
「ふふふ、アルフェってばご機嫌ね」
アルフェの母親――ジュディさんがアルフェと僕を見比べながら微笑んでいる。クリフォート家でのアルフェの普段の振る舞いを知らないが、事前に聞いていたジュディさんの苦労話と今のアルフェの状態は大きく異なっている印象だ。
恐らくその影響で、この数日間、アルフェの家に通い詰めることになっているのだが、母親たちの声も楽しそうなので、今の状況を僕も歓迎すべきなのかもしれない。
そう思いながら視線を戻す。ちょうど自分の口に手を突っ込んでおしゃぶりをしていたアルフェが、僕と目を合わせて笑ったように見えた。
「あきゃっ、きゃっ」
うぅ……。涎でべたべたの手を、僕の口に入れようとしないでくれ……。
だが、これを断るとアルフェは泣き出してしまうかもしれない。そうなると、僕は役立たずの烙印を押されたりはしないだろうか。
ふと頭を過った不安に
そういえば、と思い出す。僕がグラスだった頃に読んだ文献に、
そう考えると、アルフェの行動に急に興味が湧いた。同じことをアルフェにすると、彼女はどんな反応を見せるだろうか。
「あうぇ」
赤ん坊らしく呼びかけて、アルフェの柔らかな唇に指を添えてみる。アルフェは目をぱちぱちと瞬かせると、予測通り僕の指に吸い付いた。
生存戦略的には、口になにかを含む本能行動があると良いということなのだろうな。今度スプーンにでも吸い付いておくか。いや、もう遅いか?
アルフェのような赤ん坊がどう考えているかは知る余地もないが、本能的に口になにかを運ぼうとしているのならば、彼女なりに僕を気遣っている可能性もありそうだ。こんな頃から他者への干渉を行うのかと思うと、記憶にないはずのグラスの乳幼児期が脳裏を過った。
――あんな環境でよく生き延びたな……。
自分では知る由もないが、ある程度の成長を迎えるまでは誰かになにかしらの世話をされていたのかもしれない。女神たちの話から推測すると、恐らく、死なない程度には。
そんなことを考えていると、アルフェが僕の指を離し、また口や頬をぺたぺたと触り出した。
「あうあう」
口に手を突っ込んでくるのは、本能的な愛情表現の一環なのかもしれないと仮説を立てたが、そうだとしても涎でべたべたの手を突っ込まれるのはあまり歓迎したくない。
「だーあっ」
伝わらないとは思うが、駄目だという意思表示をして口を閉じると、僕の手よりも一回りくらい小さなアルフェの手は、興味深げに僕の顔の形をなぞりはじめた。
「あうあー」
話しかけられているようだが、なにを言わんとしているのかはわからない。恐らく僕がなにか言おうとしている時も、両親に伝わるのはこの程度の母音なのだなと客観的に聞くことができた。
「本当に、リーフちゃんはとても大人しいのね。おうちでもそうなの?」
「ええ。ほとんど泣いたりもしなくて、手がかからないの」
「それは親孝行な子ね」
ジュディさんの視線がちらりとこちらに向く。アルフェと比べれば僕は親孝行、という分類に入るらしい。母も笑顔を浮かべているようなので、その事実は好意的に受け止めているようだ。母と目が合ったので、愛想程度に小さく声を出して手を振っておく。取りあえず迷惑がられていないことがわかり、安心した。
「……うちのアルフェは、今はご機嫌なんだけど、急にぐずることがあって……」
そこまで言って、ジュディさんの声のトーンが落ちるのがわかった。
一緒に過ごすようになってまだ数日だが、母親たちの話を聞く限りでは、アルフェはどうも僕と一緒の時と家族だけでいる時は様子が違うようだ。
「昨日の夜も夜中に大泣きしちゃって……。気分転換に散歩に行ったりして、大変だったのよ」
「まあ……私たち、長居してしまってご迷惑じゃないかしら? アルフェちゃん、眠くなったり――」
「ううん。きっと、リーフちゃんがいるから大丈夫よ。私もその方が気が紛れるもの」
ジュディさんの声には少し疲れが滲んでいる。なるほど、普通の子の子育てはかなり大変なようだ。生まれて間もない頃に、もっと世話を焼かせて欲しいというようなことを両親にしつこく言われていたことを思い出した。
だからと言って、今更両親にわざと苦労をかけるような気も起きないが……。
「あーあっ、あーうぁー」
母親たちの会話に集中し過ぎていたのか、アルフェが不満そうな声を上げている。
「あうぇ」
はいはい、僕に期待されているのは君の相手だからね。
アルフェの呼びかけに寝返りをうってうつ伏せになり、アルフェの方に身体を近づける。それだけですぐに機嫌よさげな声を上げるアルフェだったが、少し様子が違っているような気がした。
「あー……」
もぞもぞと身体を揺らすように動かしながら、アルフェがしきりに足を動かしている。機嫌が良い時に、ばたばたと動かして感情を身体で表しているようなものとは本質的に異なっているような印象があった。不快そうに顔を歪めているところをみると、おむつだろうか?
「あうう?」
臀部に手を伸ばしてみるが、濡れた感じはしない。そういえば家に来たときに替えたばかりだと話していたから、まだかもしれない。だとすれば、アルフェの不快の理由はなんだろうか? 僕が数ヶ月前に経験した不快な出来事はなんだっただろうか。
「あっ」
今世の記憶を総動員していると、いつか足の付け根や膝の関節がむず痒くて不快なことがあったことを思い出した。それは夕方から夜にかけて多く感じられ、かといって自分でどうにも出来ずに不覚にも何度か声を上げてしまったのだ。
母はそれを聞きつけ、すぐに駆け寄ってくれたが、当然不快な理由を伝える術はなく、足をもぞもぞと動かすぐらいしか反応することができなかった。もしかして、アルフェもそういう時期なのだろうか?
「うう?」
身体をずらして、アルフェの足の付け根に触れてみる。太腿に当てた手に少し力を込めると、アルフェがもぞもぞと身体を動かすことを止めた。
「あっ、あっ」
促すようにアルフェが声を発している。僕の推理はあながち間違っていないのかもしれない。そう考えながら、アルフェの足の付け根や関節に手を押し当て、慎重に圧をかけ続けてみる。
どうやらそれが心地良かったのか、アルフェは次第に消え入りそうな声で母音を伸ばすだけになり、大人しくなったかと思うと目を閉じて寝入ってしまっていた。
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