夜明かし 4


『熊喰い』の話がひと段落した、ちょうどそのとき、すーっと、ノイズのようなぼやけ・・・が森の奥に見え隠れした。

「あっ!」

 私は声を上げる。それに反応して照花ちゃんも、お兄ちゃんもその方向を見るけれど、そのときにはもう、そこはただの暗闇だった。

「どしたの、頼子」

 照花ちゃんが問う。しかし、変なものを見た、そんなことを言うのもはばかられて、私は口籠もっていた。照花ちゃんは不思議そうに、再度森へ目を向ける。

「あっ!」

 そう、私と同じような反応をした。

「頼子も見た? 『白紋灯はくもんとう』、かな?」

 少し嬉しそうに、楽しそうに照花ちゃんは私に言った。私にはそんなポジティブな感情などない。

「違うよ、見てない! 『白紋灯』なんていないもん!」

『熊喰い』のお話で少し背筋が凍ってたときだ、引きずられるように『白紋灯』にも恐怖が芽生え始めていたのだ。なんだろう。探検しているときは『恐怖』という点に関してはなんとも感じていなかったのに、いろんな話を聞いて、あるいは実物を見て、私はけっこう真剣に恐怖していたのだ。

「あっはは。大丈夫や、頼子」

 お兄ちゃんは遭難した私たちをあやすときと同じように快活に笑い、森の方へ歩いて行く。

「危ないよ! お兄ちゃん!」

 声を上げるが、お兄ちゃんは笑うのみだ。しばらくしてお兄ちゃんは森と村の境界あたりで立ち止まり、なにか声を上げているようだった。すると森からも、なんらかの声が返ってくる。二、三言葉を交わしたのか、その後、お兄ちゃんは何事もなかったようにこちらへ戻ってきた。

「マツさんやったわ」

「マツさんて、マツじい?」

 照花ちゃんが問いただす。マツじい? 村の端っこに住んでる、あの変なおじいちゃん? 私は想起した。

「違う違う。末芝まつしばの家のご主人や」

 端的に言う。このときすぐには思い起こせなかったけれど、話を聞く限りどうやら、猟師をしている村人だったらしい。

「まあ、これが『白紋灯』の正体やな。烏瓜村も、もうずっとここにあるから、だいたいの動物は解ってて、あんまり近付かんようになっとるけど、それでもたまに、やっぱ熊とかが迷い込んでくるんやて。それを予防するために、たまに猟師の方が交代で、近くの森を夜な夜な歩くんや。その持ってる松明が、火の玉みたいに見えて、『白紋灯』と呼ばれるようになったんやな」

 お兄ちゃんはあっけらかんと説明した。

「でもな、だいたいはその、松明の光の見間違いやけど、たまに本物もおるから、興味本位で近付いたらあかんよ?」

 ついでのように付け足す。やはり当時の幼心には恐怖もあったのだが、いま思えば、猟師さんの邪魔をしないように、子どもを近付けさせないための方便だったのだろう。それに、熊などを警戒して歩いている猟師さんは銃なども持っていただろうし、万が一にでも驚かせて撃たれでもしたら大変だ。そういう、現実的な危険性ももちろんあったのだろうし。

 ともあれ、この日、私たちが種明かしをしてらったのはこのふたつだった。後日――といっても、十年以上のちには『手合いの鳥居』も私は見ているけれど、結局残りみっつに関してはなにも知らずじまいである。惜しいことをした、とは、全然思わない。どうせ危険から子どもを遠ざけようというだけの作り話なのだろうし。正直私は、怖い話が苦手なのだ。


        *


 お風呂から上がったらもう午後十時を回っていたので、私たちは眠ることとした。私はちょっとドキドキしていて、かなり疲れていたはずなのにあまり眠気もなかったのだが、照花ちゃんは眠そうだったし、私の部屋に一緒に連れ立って行った。もうすでに、ふたり分のお布団は敷いてあった。

「疲れたね、頼子」

 ニケケ。と、別段疲れてもいなさそうな様子で、照花ちゃんは笑った。普段の大きすぎる甚平を纏わない、珍しい照花ちゃんだった。私の寝巻きを着ている。たぶん数日前に私が着ていた寝巻きを、今日は照花ちゃんが。特段に私はレズビアンではないはずなのだけれど、やはり照花ちゃんに関しては特別な感情を持っていた。といっても、それもやはり、恋愛感情ではない。いま思い返しても、それは確かだ。でも、憧れている相手がそばにいたり、自分の私物を身につけているという事実は、なんだか不思議な幸福感を当時の私にもたらしていた。

「うん。……疲れた、ね」

 あとちょっと緊張していた。さきほども言ったけれど、照花ちゃんがうちに泊まりにくるときは数日前にその情報が知れていたので、私は十分な時間を、心構えに費やすことができていた。しかし、この日は違う。私にとっては唐突に知らされた事実であるし、また、やはり遭難していろいろネガティブな感情をたくさんその日は感じていたという落差も、余計にその状況を如実に浮かび上がらせていたのだ。

 そんな私の、いつもと違う様子に気付いたのか、じっと、照花ちゃんは私を見ていた。舐め回すようだと、そう感じた。頭のてっぺんから爪先まで、じっくりと時間をかけて見られている、そんな気が、した。

 それから、もそっ、と、前屈みに私に擦り寄って、今度は顔を――顔だけを改めて、じっくり吟味するように、見てきた。鼻先が触れるほど近くで。私は、視線を泳がせていた、と思う。

「寝よっか」

 照花ちゃんは言った。

「う、うん」

 私は、答えた。

 そして隠れるように私は、明かりを、消したのだ。


        *


 す、という衣擦れの音がして。

「頼子」

 照花ちゃんが私を呼んだ。

「うん?」

 私は平静に答える。ちょっと不思議な感じがしたけれど、どうやら暗闇の中では少し、緊張も解けるらしかった。

「今日、定子になんか言われたでしょ?」

「なんかって?」

 忘れかけていた。だから気負うこともなく普通に返答ができていた。だが、すぐに想起する。いろいろと話はしたけれど、特別に変なことを言われたのは、あの一言。「おまえはここにいたら死ぬよ」だったか。そもそも定子ちゃんが私を『おまえ』呼ばわりすることからしておかしな言葉だった。そしてあの、どこを見ているか解らない視線。あのときの、遭難しかけているという状況への不安をも相まって、彼女の雰囲気そのものが、どうもおどろおどろしかった。その、事実。

 照花ちゃんは解っているかのように間をためて、私の別の言葉を待っていた。だから私も、真っ暗な部屋で気が大きくなっていたことも起因して、口を滑らしたのだ。

「なんか、私は死ぬ、みたいな、そんなことを……」

 ここで改めて言葉にしてみて、ようやっとぞっとした。死ぬ、ということについて理解が浅かった当時の私が、ともすればそれをしっかりとそのとき、理解したのかも知れない。

「定子は変だからね。気にすることないよ」

 聞いておいて、どこか投げ捨てるように、照花ちゃんは言った。衣擦れ音が、彼女の寝返りを示す。こちらへ向けていたらしい視線を、天井へ。

「変、かあ……」

 その概念も、きっと初めてだった。そして照花ちゃんがそう言うから、私はそうなんだと、無根拠に思い込んでしまっていた。定子ちゃんは変。気にしなくていい。

「まあ、人はいつか死ぬんだから。そういう意味じゃ、間違ってはねーけど」

 ニケケ。そうやって上がる口角が視認できるくらいに、照花ちゃんは楽しそうな雰囲気で、そう言った。それはおにいちゃんが、私たちの不安を取り除くように明るく振る舞う姿と、似ているようでどこか違う、奇妙なニアイコールを感じさせた。

「でも――」

「ごめん、邪魔したね。……寝よ?」

 私がなにかを言う前に、強引に照花ちゃんは話を切り上げ、また、衣擦れ音を起こした。それは、私に背を向けた合図。

「明日は、なにして遊ぼうか」

 照花ちゃんは独り言のように、そう言った。

「明日か……」

 私は特になにかを考えるでもなく、少しだけまどろむように、ただ呟いた。

 でも、特別に答えなんて思い浮かばなかったし、照花ちゃんも黙ってしまったから、私はひとつあくびをして、眠ることにした。

「おやすみ。照花ちゃん」

 私は言ったけれども、照花ちゃんはもう、なにも言わなかった。


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