第三話 夜明かし

夜明かし 1


 雨はすぐ上がった。遭難は続く。

 雨雲が消えても、闇は薄れることなく、むしろ徐々に暗さが増していった。

「もう五時だよ」

 腕時計をしていたノクトくんが呟く。消沈した声だ。そして、焦燥が強く滲んでいた。それは、他の誰もが、あるいは、ケンシくんと照花てるかちゃんを除いた私たちが感じていたことだった。ケンシくんはいまだに呑気に「とにかく南に進めば帰れるって」というようなことを、意気沈む私たちを元気付けようとでもしているのか、やけに大声で言っていた。いや、もしかしたらそれも、強がりの裏返しだったのかもしれないが。照花ちゃんはやはり相変わらずのにやけ顔で、その内心はどうにも推し量れないにしても、外見上はまだまだ余裕があるように見えた。まるでここまでもここからも、まだ自分の思惑通りだとでも言いたげに。

 視程はだいぶ狭くなっていた。あの森はある意味、私たちの庭だった。あの森に関しては、私たちは幼くとも十分に慣れていたし、いくら奥地へ進もうがそこは、私たちの友人のように安心できる場所であったはずだった。しかし、これほどまでに日が暮れた森を、私たちはいまだ知らなかった。夜になると豹変する、夜行性の動物のように、膨大な闇を孕んだあの森は、じわじわと嬲るように私たちに、物理的実害のない牙を突き立てていた。

 鬱蒼と茂る木々の枝葉は、空を隠し、現実以上に私たちの道程を惑わせる。午後五時といえば、いい加減に私たちは、それぞれの家庭へ帰るころだ。それが、いまだ村にすら帰り着けていない。その焦燥が、私たちの思考も、視界も歪ませる。まだ、季節が夏だったことは救いだったろう。日暮れが遅く、そのために私たちは、少しでも長く、自我を保つことができていたのだから。

 ぴとり、と、私の手に、なにかがぶつかった。どこか吸着力のある感触だったけれど、それは、定子さだこちゃんの腕だった。幼さゆえのもちもち肌に湿度が宿った結果だったのだろう。定子ちゃんとしても思わずの接触だったようで、私たちは目が合った。今度は『ちゃんと』、目が合った。

「ごめんね」

 謝られた。少しだけ、ぞくりとする。しかし、手が触れたことへの謝辞だと理解して、無意識に上がった肩を、意識して落とした。

「あの、定子ちゃん?」

「なに?」

 いまは、だいじょうぶだ。そう感じた。定子ちゃんはいつも通りで、さっきのあれはなにかの間違いだ。そのように思ったのだと思う。

「あの、死ぬって、なに?」

 私は聞いた。あまり深くは考えていなかったと思う。というより、定子ちゃんの先の言を、さほど深刻には受け止めていなかったのだ。彼女が冗談を言った。とすら思えていない。そもそも私は『死』というものについて、まだ曖昧な認識しか持ち合わせていなかったのだ。たぶん、死んだらお星様になるんだよ、程度の認識だったのだろう。

「やだっ!」

 だから、この状況における彼女の正しい反応として、定子ちゃんは両耳を押さえてうずくまった。

「変なこと言わないでよ! よりちゃん!」

 先に断っておくが、これが本来の彼女であり、彼女があんなふうに、言ってみれば、なにかに取り憑かれたような言動をしたのは、私の見た限りでは三回がせいぜいである。決して普段から頻繁に、なにかに憑依されたりだとか、二重人格であったりだとか、そういう不思議を発揮している子ではなかったのだ。それに、そんな低頻度の変貌であるなら、やはり私の勘違いでそのように見えたり、聞こえてしまったりしていた可能性も、けっこう現実的にありそうである。

「ごめん! なんでもないから!」

 私は大声で釈明した。また、暗くなってきている。そう思った。肌が触れるほど近くにいれば、ちゃんと見えていた彼女の姿も、ただ少しうずくまるだけで、闇に飲まれたように見えなくなったから。だから、私は必要以上に声を上げたのだろう。

「おい頼子よりこ、泣かせんなよ〜」

 まだ呑気そうに、ケンシくんが言った。

「うっさい黙れガラ!」

 彼の呑気さになのか、この状況を生んだことへの感情なのか、はたまた闇が深いから声も、気も大きくなってしまったのか、つい強い言葉で、大声で叫んでしまった。あの暗がりでも印象的な、彼の虚を突かれたような顔は、いまだに覚えている。そのそばに、照花ちゃんも立っていて、ニケケ、と、笑っていたのも。


        *


 日は、とっぷりと暮れた。時刻も午後七時を過ぎていた。もう疲れて動けない、という定子ちゃんの言により、私たちは歩みを止め、座り込んでしまっていた。ことここに至るとさすがのケンシくんも遭難していることに気付き、誰よりも落ち込んでいた。遭難して帰れない事実よりも、自らの浅はかな行動が私たちを巻き込んだことを憂慮しているような、そんな落ち込み方だった。

「ごめん、ほんとごめんよ……」

 体育座りに抱えた膝に頭を埋めて、懺悔している。ちなみに少し前まで大声で助けを呼んでいた。それから、私たちを休ませておいて、自分ひとりで周囲を探索してくるようなことを提案していたけれど、それはさすがに全員で止めた。仮に彼がなにか帰るためのヒントを見つけ出したとて、きっと今度は私たちのもとへ戻れなくなるだろうことはみんなが予見していたから。

 寒かった。たぶんあの日、一番厚着をしていただろう私が寒かったのだから、他のみんなはもっと寒かったろう。雨に濡れた服は半乾きで、そのうえ歩きづめで汗もかいた。もはや真夜中とそう変わらないほどに暗く、気温もそれに付随して急激に落ち込んでいたのだろう。私たちは身を寄せ合って、ただただうずくまっていた。もはや女子も男子もないまぜに。というより、七歳の幼い時分だ、男子だとか女子だとかいう垣根も、まだ認識が曖昧だった。少なくとも私にとっては。

「頼子」

 ふと隣から、名前を呼ばれた。耳元へ囁くように。そこにいたのは、大きすぎる甚平ですっぽり全身を覆って座る、照花ちゃんだった。

「お腹空かない?」

 私が少しそちらへ顔を向けただけで、彼女はすぐ次の言葉を紡いだ。そのときの私は、疲労と寒さで空腹など気にもしていなかったのだが、確かに、言われてみるとだいぶなにも食べていない、と気付く。朝から集まり、ずっと森の探検隊をやっていたのだ。つまり、朝食以降食べていなかったことになる。当時の私たちは遊びに夢中で、朝から晩まで遊び尽くしていた。お昼を食べに一旦解散することもあったけれど、それも半々といったところか。遅めの朝食を食べて、遊んで、早めの夕食を食べる。そんな、一日二食という食生活が主軸だったとも言える。

 そもそも、米や野菜はたくさんあったけれども、肉や魚は少なかった。猟師もいれば、近くに魚の釣れる渓流もあり、趣味で釣りをする村人もいたようだけれど、やはり量は少なかった。し、少なくとも肉に関しては、熊肉、鹿肉、猪肉あたりしか獲れないので、まあ、私個人としては苦手な味だった。調味料もさほど多数揃っているわけもなく、獣肉特有の臭みへ対する処理が不十分だった可能性もある。いや、ともすれば、猟師のおじさんの解体の腕自体も悪かったのかも。まあ、それはいい。そのせいでいまだに私は肉全般があまり好きではない。うん、それもどうでもいいね。とにかくそんな食環境だったから、食事自体に、少なくとも都会の現代っ子ほど楽しみを見出だせていなかった。となると必然、食事への積極性も失われて、その結果が、基本一日二食生活、だったのである。

 ともあれ、そういう食生活だったから、午後七時となればとうに夕食を食べ終えている時間だった。さきほど夕食は早めとさらっと言ったけれども、午後五時とか、それくらいだ。遅くとも午後六時を過ぎることはない。ゆえに、やはりそのときはお腹が空いていてしかるべきタイミングだった。

「まあ、空いてるかな」

 確かに空いている。だが、それどころではない状況が頭をよぎって、私は微妙な返答をした。

「これ、食べる?」

 そう言って照花ちゃんが差し出してきたのは、小さな、ひとつのチョコレートだった。

「い、いいの!?」

 驚愕した。当時はまだ、照花ちゃんのお父さんが、定期的に村の外へ出かけていることを知らなかったから。というのも、チョコレートどころか、お菓子というものが基本的に、烏瓜村にはなかったのだ。あるとしたらあれだ、砂糖を溶かして作るべっこう飴くらいだ。少なくとも自家製であり、そんな、スーパーやコンビニで売っている既製品のお菓子など、お目にかかることすら稀だった。

 照花ちゃんは私の反応を楽しむように、ニケケ、と、笑った。「食べなよ」と、受け取るのを躊躇っている私に強引に、そのチョコレートを握らせてくれた。どうやら他の子達には配っていないようなので、私は、暗闇に紛れ、みんなが俯いているうちに、こっそりとそれを頬張った。あの多幸感は、いまだに忘れない。疲労と寒さが吹っ飛ぶようだった。なにより、あの照花ちゃんが、他の誰にも内緒で私にだけ、そんな貴重なものをくれたことに感激していた。そうだ、私は、照花ちゃんに気に入られるのが嬉しかったのだ。どこか謎めいていて、いつも浮ついていて、へらへらしていられる豪胆な性格に、ずっと憧れていたのだ。だから私は、彼女が私を嫌っていると――ずっとずっと嫌っていたと知っても、彼女のことがずっと、好きなままだったのだろう。

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