巡りの樹海 6


 山の天気は移ろいやすい。そんなことは知っていたはずだけれど、『運が悪い』と感じたと思う。雨が降り始めたのだ。

 鬱蒼と木々が茂る森の中。ゆえに、あまり多く雨に濡れることはなかった。まだまだ幼い七歳の体だ、順当に未発達で、小さかったし、大樹のうろ・・に隠れるのも容易かった。そういうふうにして私たちは雨を凌いでいたのだけれど、それでも、濡れるものは濡れる。私はお気に入りの、いま思い返せばやけにダサいジャンパーを着ていたのでまだマシだったが、他のみんなは初夏ということもあって、だいぶ薄着だったし、けっこう凍えていたように見えた。というか、私ですら寒かった。照花ちゃんはいつも通り、そんな非常事態ですら楽しむようにへらへら笑っていたけれど、そんな彼女や定子ちゃんと身を寄せ合って、私たち女子は暖をとっていた。男子ふたりは、よく覚えていない。寒さで膝を抱えて、うずくまっていたから。たぶん近くにはいたはずだが、きっと女子のように身を寄せ合ってはいなかったのだろうと想像している。

 で、その受難がトリガーだった。突然の雨という災難。全身が濡れ、寒くて身を寄せ合って、樹洞に閉じ籠り、空は、日が傾いてきたことに加えて曇ってもいたから一気に暗くなるし、足を止めて冷静に、頭だけを働かせるしかなかったその時間が、みんなを正気にさせたのだ。

「ねえ、私たち帰れるの?」

 端を発したのは、私だった。まあ、女子の中では順当な流れである。定子ちゃんはそういうこと、思っても率先して言う子じゃなかったし、たぶん照花ちゃんに関しては思ってすらいない。いつもニタニタ笑って、どんな逆境も楽しんでいるような子だったから。

「帰れるんじゃん? 知らんけど」

 照花ちゃんがまったくあてにならない相槌を打った。見ると、やはり彼女はニケケと笑っている。やけにまんまるの、大きな瞳だ。普段はどうとも感じないけれど、なぜだか精神的に参っているときに見ると、不安を増長させるような目付きだった。

 ずず、と、鼻を啜る音。寒さで鼻水が垂れたのだろう、そう思った。しかし、音の方を気遣ってみると、鼻水が滴ったのとは確実に違うと、なぜだか解ってしまう様子で、定子ちゃんが泣いていた。木々の梢を介して、やけに人ごとのように消音された雨音よりも、よほど静かなのに、よほど現実的な湿度で。

「帰りたいよ。おかあさん」

 不覚にも、瞬間、『おかあさん』と呼んでいるのだな、ということが気になった。というのも、定子ちゃんのお母さん――つまり黄常家の当時の巫女様は、目付きが鋭く尖った、怖い顔の女性だという認識が、私の中にあったから。ちなみに『巫女様』というのは、ノイギィ派の上位のお家の女性のことで、祭祀の際にまさしく巫女服で祈祷や舞踊などを行なっていた方々だ。先述したと思うけれど、定子ちゃんのおうち――つまり黄常家はノイギィ派の祭祀を執り行う、まさしく上位のお宅だったのだ。

 まあ、それはさておき、こんな切羽詰まった状況で考えるべきことではないことを瞬間考えて、そのせいで少し遅れたけれど、私は彼女を気遣った。どう思ったかは解らないけれど、やはりどちらかというと下に見るように、妹をあやすように、彼女の頭を撫で、慰めたのだ。……そういえば、かなり年が離れているという要因もあるのだろうけれど、お兄ちゃんが私にもよくそうしてくれていた。それを無意識に想起して、真似をしたのだろう。私自身がそうしてもらうことでだいぶ心が落ち着いていた、という経験を、何度も経ていたから。

「……雨、弱まったね」

 照花ちゃんがおもむろにそう言った。

「ちょっと男子、せっついてくるよ。たしかにそろそろ帰らないと、暗くなっちゃう」

 そう言って、照花ちゃんは外へ出た。木のうりには、私たちふたりだけが残される。

 少しの、静寂。雨音と、すすり泣く声。衣擦れや、私が定子ちゃんを撫でる音。あまり人間味を感じないというほどに静かな、それでいて確実に存在はしている、照花ちゃんの、小さな足音。歩くようで、小走りにも近い、でも決して急がない、彼女の動作。追い風に吹かれるように両腕を後ろに引きずりながら進む、彼女の姿が、私には鮮明に、イメージできた。その足音も、いつからか雨音に掻き消されて――そして、静寂。……静寂。静寂――。

「よりちゃん」

 定子ちゃんは私をそう呼ぶ。頼子ちゃん、と、ちゃんとした名前で呼ぶこともあるけれど、こんなふうに短縮して呼ばれることもあった。

「うん?」

 やけに力強い、いままで泣いていたとは思えないほどのはっきりした声に、私は疑問を向ける。まだ見下すような、視線とともに。

 す、っと、その視線に、彼女も同じものを、被せた。


「おまえはここにいたら死ぬよ」


 いいや、視線など、合ってはいない。彼女の目は、どこか虚ろを揺蕩うように、焦点の定まらない左右非対称で、そこにくっついていただけだった。


        ※


 幼いころの記憶だ、曖昧な部分も多いだろう。聞き間違いも、記憶違いも多分にあるはずだ。だが、きっとそれが、私の本当の意味での彼女への、あるいは自らが生まれ育った村への、ファーストインプレッション。……いまさらだけれどこれは、私が『烏瓜村』から逃れるまでの物語。……じゃなくて、お話だ。

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