巡りの樹海 4


『ノイギィの盃』。烏瓜村からまっすぐ北方、どれくらいかは解らないが、ずっと先の森の中に、ひときわ大きな木があるという。樹齢数百年だか千年だか、とんでもない老木なのだが、いまだに青々と葉をつけ、意気軒昂に生い茂る、立派な木が。そこは、その木の神聖さから長く、ノイギィの祭祀場のひとつとして利用されてきたが、かの六間屋敷が焼失したとき、放たれた怨念のひとつに冒され、邪気を留めるようになってしまったのだとか。それゆえに、現在ではただ放置され、荒れ果てた一帯となっているが、当時の祭祀に用いられていた大きな盃が、いまだそこに安置されている、らしい。『大きな』としか、聞いていない。それは人間にとって『大きな』サイズなのか、はたまたノイギィにとっての『大きい』なのか。ちなみにノイギィは体長十数メートルにもなる巨大な狐だと言い伝えられている。そのノイギィがなにか――例えば酒などを飲むのに用いる盃なのだとしたら、人間ひとりくらいなら簡単に寝転がれるほどのサイズ感であってもおかしくはない。ともあれ、当時の私たちはそんなサイズ感など考えもせず、ただただ過去の遺物、ノイギィの盃を探しにまっすぐ北へ森の中を進んだのである。

「だあー、もう! どこだよ!」

 前言撤回だ、『まっすぐ』など、進んでいない。進めるはずもない。

 整備されていない獣道だ。鬱蒼と草木の茂る、方向感覚も解らない森の中だ。私たちは七歳ころなら、少しは森の中を探検くらいしていたし、たぶん一般的な七歳児よりよほど、道なき獣道を進むことには慣れていたが、それでも、そのときの調査は私たちにとって未到の遠征だった。そもそも装備が足りていない。前述の通り気温も上がり始めた初夏ごろだったから、私と定子ちゃんを除けば、みんな薄着だった。普通に半袖シャツ一枚だとか、ケンシくんに至ってはタンクトップだった気もする。照花ちゃんはいつも通りの生足だし、そのうえこちらもいつものことなのだが、裸足にサンダルだ。それでも照花ちゃんに限っては、その場の誰よりも余裕そうに、ニケケと薄ら笑っていたけれど。なにより問題なのが、方向が解らないことだった。いまとなっては背筋が凍る思いだが、当時私たちは、方位磁石を持って行っていないのである。というより、そんなアイテムの存在を知ってすらいなかったのだろう。はっきりいって、よく生きて帰ったなと、いまでも思う。幼く、無知であるのはなんと怖いことかと。先にネタバラシしてしまうと、このあと私たちは、順当に遭難した。だが、背筋が凍りつくギリギリで救助されたから、実のところ当時、さほどの危機感は得ていなかった。それこそがもっとも怖い話である。せめてここで恐怖を知っておけば、また同じような危機に簡単に足を踏み入れたりはしなかったろうに。

 ともあれ、先頭のケンシくんだけが不平に声を上げ、後続の私たちは、疲労からただただ黙って、俯いて歩いていた。先頭のケンシくんに対してでは断じてないけれど、このまま歩いていればいつか『ノイギィの盃』に到達できるという信頼が、なぜだか強くあったのだ。

 森を、進む。小一時間くらい進んだころだろうか? 七歳という未成熟な体力で、ある程度慣れているとはいえ、歩きづらい森の獣道を進んだのだ、そのころにはとうにへばってしまって、私たちは比較的綺麗な草むらに腰を落ち着けたのである。そこにあった一本の木の周りを囲むように。

「くっそー、まだつかねえのかよ……」

 道中も不平不満を喚き続けた口だ、もう疲れ果て、声が張れるほどの元気もないようだった。

「というか、道合ってるんだよね。けっこうグネグネ歩いていたけど」

 ノクトくんが確信をつく。ここで危機感を抱けていたならまだ引き返す道は辿れたかもしれない。

「え? まっすぐ進んだだろ?」

 私たちは言い返さなかった。まるで自分の意見は、間違っていようとも発言することで正しくなるのだと、それほどに確信的にケンシくんが言うから。そっか、だいぶ蛇行して、あっち行ったりこっち行ったりしながら進んだけれど、その実、ちゃんとまっすぐ北へ進んでいたのだな。そんなふうに思い込まされたのだ。

 少しの、沈黙。ややあって、

「頼子」

 私の耳元に、その声は突然、小さく囁かれた。

「ちょっとおしっこ」

 ニケケ。と、照れ隠しなのか歯を剥いて笑い、照花ちゃんは言った。私にだけ聞こえるように。それがなんだか嬉しくて、私もちょっと笑い、「うん」と彼女を見送った。私は当時、男子だとか女子だとか、同年代の友達を区別していなかったけれど、照花ちゃんは気にしていたのだろう。私にだけ耳打ちしたことも含めて、男子ふたりにはバレないように、彼らが座っているのとは反対方向の草むらへ静かに分け入って行ったのだった。

 そういう心理を、当時もちゃんと感じ取ったのだろう。私は照花ちゃんが戻ってくるまで、彼女がお花を摘みに行ったことを、男子にはバレないようにしなきゃと謎の責任感に苛まれていた。結果それは杞憂に終わるのだけれど、なんとなくそわそわしていた。そわそわして、男子の会話にだとか、いろいろ気を遣って、気を張って、耳をそばだてていたことを思い出す。そしてだからこそ、気付けたのかもしれない。

「定子ちゃん?」

 私の隣には定子ちゃんが座っていて、ついでに言えば、そのさらに隣にさっきまで、照花ちゃんが座っていた。だから、照花ちゃんは私にではなく、隣に座る定子ちゃんに離席することを伝えても良かったわけで、それに気が回っていたから、わざわざ私に耳打ちしてくれたことが嬉しかったとも言える。まあ、それはいい。とにかく隣には定子ちゃんがいて、彼女はなんだか、遠い目をしていた。後々になれば彼女のそういう仕草が平常であることを理解もしていようが、当時はまだ幼く、彼女との付き合いも短く、そんな彼女の瞳に違和感を覚えてしまったのだ。

「だいじょうぶ? 疲れた?」

 どことなく焦点の合っていない視線に、私は心配になった。定子ちゃんといるときが一番落ち着く、そういうことを彼女に対して思っていたけれど、それはきっと、彼女だけが私より弱いからだ。と、いまならそうも納得できる。庇護すべき対象。やや印象のわるい物言いをしてしまえば、定子ちゃんになら敵対されたとしても容易に返り討ちにできる。そういう感じ。だから多少は失礼なことを言っても反撃を恐れる必要がないし、言いやすかった。つまるところが気さくに話せる相手だった。そういう自己分析もできる。

「…………」

 定子ちゃんは黙ったまま、細い腕を上げた。焦点の合わないまま、見つめる方向へ、指を伸ばし――大袈裟に表現すれば、その指と同じくらいに細い腕を、いまにも折れそうな覚束なさで、向ける。その先は、座り込んだ七歳児の私には、鬱蒼と茂る背の高い草むらがじゃまで、よく識別できなかった。だが、定子ちゃんは根気よく、黙ったまま、指を向け続けていた。やがて、その草むらが、がさりと、揺れる。

「ねえ、あっちになにかあるみたい」

 お花を摘み終えた照花ちゃんが、そこからひょいと顔を出し、みんなへ向けて言った。

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