狐の嫁の謠 2


 ころあいなので、マツじいの話はいったん区切ろうかと思う。あの日、マツじいは倒れた。敵対派閥の多く密集する区画で。そのせいか診療所に運ばれるのが遅れ、あやうく生命の危機だったという話なのだが、幸いにも一命は取り留めた。そんな流れである。

 それで、ちょうどマヅラに並べてノイギィの名を出したのであるから、ここいらで私が知っている限りの、つまるところが、私が烏瓜村を出た十八歳の段階までに、私が知ったあの村の信仰対象について、話しておこうと思う。少なくとも、どちらかというと、我が家はノイギィ側の派閥であり、逆サイドのマヅラ派とは交流がほとんどなかったと言っていい。ゆえに、そのほとんどの情報はノイギィ側に都合よく脚色されている可能性もあるが、まあ、その前提で聞いていただければ幸いだ。

 ノイギィとマヅラ。特段にこの神たちはそれぞれに互いを憎しみ合うような関係ではなかったという。というより、無関係だ。元来烏瓜村を治める神はノイギィであり、マヅラは外から持ち込まれた神だと聞いている。まあ、だがそれは、私のおばあちゃんの、そのまたおばあちゃんの、さらにおばあちゃんくらいの世代の話だ。私の世代においてはもはや、マヅラもずっしりと腰を据えて、烏瓜村に根付いた神だと理解している。

 出自はどうあれ、あのころ烏瓜村には二柱の神が存在していた。そしてそれぞれを信仰するものたちは、別の神を信仰するものたちを憎んでいた。そういう構図は、もう百年以上続いていると聞いたものだ。

 両親や祖母曰く、ノイギィは善神、マヅラは悪神だという。元来閉鎖的な烏瓜村の人々は、自然と善人であった。いまだに伝わる派閥間の相互互助関係が、村全体に及んでいたのだ。外界から外れた、閉鎖的な環境だったからだろう。私に言わせればそんなもの、その環境であればそうせざるを得なかったのではないかとしか思わない。そこに、善も悪もない、と。

 まあともあれ、そんな善人ばかりの中に、一雫の悪が混じってしまった。もとより特別に移入者を拒否していたわけではない当時の烏瓜の村人は、むしろ快く、新たな村人を受け入れた。それがことの発端だと、ノイギィ派の人々はいう。

 その者は、特別に宗教に染まった者ではなかった。信仰心もない、やや頭のネジがズレた、自由人であったと聞き及んでいる。他の村人との交流を好まず、己が手で建築した屋敷に閉じ籠り、夜な夜な外と内を仕切る障子戸に、おどろおどろしい影を作っていたとか。話に聞く限りではただの夜行性の変人である。当然とノイギィを祀る祭儀にも参加せず、村人の顰蹙を募らせていった。だが、それだけを理由に追い出すこともできず、もはや村人は彼を無視することに決めた。ノイギィ派の勝手な言い分だが、このとき初めて、善人ばかりの烏瓜村の住人に、若干の悪意の芽が生まれたのだという。


        *


 さて、このあたりから彼、烏瓜村の悪の発端、諸悪の根源、あるいは、マヅラの開祖ともいえる彼を『ウマモノ』と呼ぶことにしよう。実のところ彼こそがマヅラそのものと言ってしまって間違いないのだが、そう呼んでしまうとややこしくなるので、ここでは『ウマモノ』と。ウマモノ、馬者だ。つまるところマヅラとは馬面のことであり、かの御仁、ウマモノの容姿に由来するのだという。おそらく長面であったのだろう。

 しかし、ウマモノ自身がこのマヅラ信仰を広めたわけではない。ウマモノには信仰心がなかったし、そんなものには興味もなかっただろう。彼はただただ、自らの世界に没頭し、内に引き籠るタイプの人間であったようだし、そんなアクティブに新たな宗教を広めるような者ではなかったのだ。むしろ、ウマモノもマヅラ信仰の被害者とも言える。彼は、担ぎ上げられたのだ。しかも、自身の預かり知らぬところで。

 ウマモノが烏瓜村に移住してきてから三十年ほどは、村にとって急激な人口増加期であったらしい。その間に、村の人口は倍増。とはいえ、もとより小さな村だ。倍化したと聞けば驚きもあろうが、実人数としては数十人程度のことである。まあもちろん、村にとっては極端に大きな変化であったことは、想像に難くないが。

 そしてなにより問題だったのは、新たに村民となった者たちの大多数にとって、元来伝わる風習、ノイギィ信仰が相いれなかったということ。この人口増加期に村に流入してきた多くの住人が、ノイギィに対する祭祀を拒んだ。特段に他に信仰している神様がいたというわけではない。ただ、祭祀の面倒なしきたりや、人によっては屈辱的とも取れる儀式に参加することに、並々ならぬ嫌悪を抱いてしまったのだろう。

 確かに、ノイギィの祭祀における儀式は独特に屈辱的だ。我々はとことんまでに、神であるノイギィにへりくだる。身の潔白を示し、信心を捧げ、首を垂れる。具体的には、例えば、十二歳になった子女は、十一月の終わりごろに、全裸で、祭壇に向かい、体の隅々までをひけらかす。穢れがないことをノイギィに示すのだとか聞いたけれど、あれはなかなかに恥ずかしい。もちろん男女は別室だし、他の村民からも見られることはないが、同性の、同世代の子とは一緒だから。過疎化が進んだ烏瓜村だ。同性同世代の者など例年、さほど多くはないのだけれど、運がいいのか悪いのか、私の代は多くて、男子二人、女子三人の計五人もいて、けっこう恥ずかしかった。あと、少しばかり事件も起きたのだけれど、まあ、それは後で語ろう。

 ともあれ、そんな面倒で屈辱的な儀式がいくつかあったから、新しい村民には受け入れられなかったのも、いまなら理解できる。生まれたときからあの村で、ノイギィ信仰の教育を受けてきた私には、当時の幼さで、外の世界も知らない無垢のままでは、気付けなかったことなのだが。

 それで、話を戻すと。彼ら、新しい村民たちはどうしたかというと、新しい宗教を作ってしまったのだ。住居を変えるのも面倒だし、かといってノイギィ信仰は受け入れられない。そう思っての苦肉の策だったのだろう。いや、きっと彼らには具体的な意思はなかったのではないかと、私は思う。ただ、旧烏瓜村村人も、新村人たちに信仰を強制するつもりはなかったし、新しい信仰が生まれるのも黙認した。ただしそうなると、つまりは信じるものが違ってくると、お互い、相いれないという感情は生まれてしまうのだけれど。

 そのときに、つまりは、新しい宗教を作る段になって、かのウマモノが持ち上げられ始める。彼が移住してきて三十年余り、当初二十台後半か三十台前半だった彼も、六十前後のいい歳である。白髪に白い髭を蓄え、どことなく仙人じみていた、らしい。そのうえ、相もかわらずの引き籠り生活で、彼の姿を見かける者すら多くはなかったという。そんな一風変わった謎多き人物だ。祀り上げるにはちょうど良かったのだろう。なにより、ノイギィの祭祀を拒絶した第一人者という実績もある。彼は祀り上げられ、彼の住む屋敷はどこか壮厳に、うやうやしく装飾されていった。新村人たちにより、勝手に。ほとんど屋敷を出ないウマモノだ。そのことにすら気付いていなかったのかもしれない。ゆえに、彼に悪意などなかったし、彼を恨むのは筋違いだろう。しかし、いまだにノイギィ派の者たちからしてみれば、彼がすべての元凶であり、忌むべきマヅラ信仰者たちが崇める神そのものなのだ。マヅラの信仰が始まり、ほどなくしてウマモノは死んだ。死因は不明だが、その死体は数々の虫や動物に食い荒らされ、無惨な状態だったという。むしろそれゆえに死因が判明しなかったとも言えるが。しかし他にもおかしな点がひとつあった。常に引き籠りっぱなしだった彼の死体が、なぜだか森の中で見つかったという点である。これをノイギィ派の解釈として言及すると、ウマモノを殺すことで、彼を神へと昇華させようと試みたマヅラ派の誰かの仕業、だということらしいが。


        *


 ウマモノは死んだ。これが本当によくなかった。そう、この一連の物語を聞かせてくれたおばあちゃんは、まるでその場面に立ち会っていたかのように苦々しく、言い放った。『死んだ』のではなく、『殺された』――ノイギィ派によって『殺された』なら、話は終わったのだ。そう言った。なまじ理由も解らず死んでしまったから、彼は神になった。芽生え始めていた宗教が、完全に確立されてしまった。

 ここに、マヅラ教が誕生したのだ。

 そう、いままさにここでそれが出来上がったように、おばあちゃんは言った。

 そうして、現代まで続く、決して長いとは言えない程度の、それでいて烏瓜村の人間には極めて重要な神々の闘争が、始まった。そしてそれが、その信仰が、数々の死と、そこに生きる者たちの醜悪さを象っていくのだが、――この話、本当にまだ、聞きたい?

 嫌になるよ? 死にたくなるよ? 死ぬことができるってのは、本当に人間に与えられた、大切な逃げ道なんだと、理解してしまうことになるよ? まあ、この言い回しも受け売りで、大袈裟ではあるけれど。

 おばあちゃんは話の終わりに、やはり、こう言った。

「マヅラを、『マヅラ様』と呼ぶ子とは、遊んではいけないよ」

 続けて、それよりかはよほど聞き取りにくく、まるで普段通りのようにモゴモゴと、言った。

「マヅラの血は、赤いからね」

 聞き違いかと思った。だって、いくら幼い時分の私といえど、人間の血が赤いことくらい知っていたから。でも、そうじゃなかった。そういう意味じゃ、なかったんだ。

 私はもう知っている、思い知っている。マヅラの血は、赤いのだ。赤く、赤く、赤く。連綿と続いてきた、受け継がれてきた。そういう、ことなのである。



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