35 往くもの、還るもの

「姐さんっっ!!」


 大樹が叫んだ時には、姐さんの足袋と草履が辛うじてまだ門のこちらに見えていた。

 転びそうな体勢から、浴衣の裾をはだけさせて彼女を追う。嬉しそうでも、楽しそうでもない、ただただ音としての高笑いが、辺りに響き渡っていた。

 その足先を掴んで引き戻せば、間に合うんじゃないか。

 追いつかない、追いつけないと頭の中で判っているはずなのに、そう大樹が必死で手を伸ばすのをテンの姿の吉出はに見ている。

 大樹の手が境界に近づいた時、まだ宙にいる姐さんの顔が鬼のように変化した。目は充血してつりあがり、口元からは尖った歯を覗かせて、髪を振り乱しながら、その首は身体から離れてまっすぐに飛んできた。

 思わず引っ込めた大樹の指先を掠って、その首は貂の首根っこを狙いすまして噛みついた。

 高笑いが、叫び声に変わる。

 大樹が呆気に取られているうちに、貂は見る間に小さくなっていった。


「……くそっ……この、離れ、ろ!」


 ぶんぶんと躰を捩ったり転がったりしてみるものの、姐さんの首は一向に離れる気配がない。

 そうこうしているうちに貂は猫くらいの大きさになって、姐さんの首も地に着いた。


「相打ちのつもりか? いくら俺から力を奪ったところで、身体がにあるんじゃ、もうお前はどうしようもない。そうだろう? 俺はまたゆっくり力を貯めればいい」


 忌々し気に口元を歪ませながら、貂はそれでも勝ち誇っていた。

 大樹は転がる首に駆け寄り、警戒して距離を取る貂を睨みつけながら、そっと拾い上げた。


「大丈夫だよ。ぼん、放しておくれ」


 大樹の手からふわりと浮かび上がると、姐さんの首は乱れていた髪をするすると結い戻していく。

 貂が喉の奥で笑った。


「大丈夫なものか。身体へ戻れなければ、首はだんだん衰弱して消えちまう」

「うるさいね。戻れば問題ないだろ」


 ふわふわと門に向かおうとする首を、大樹は慌てて抱え込んだ。


「ちょ、ちょっと待て。戻って、大丈夫なのか?」


 門の向こうは「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」のいずれかに該当するはずで。死んだ者が次に生きる世界なのだとしたら、そのどれからも外れて存在する彼女達が足を踏み入れるとどうなるのか。

 大樹の背に冷たいものが滑り落ちた。


「大丈夫だろ。ほら、まだあたしは元気だ。門も閉まってない。死人じゃないものは認知されないんだろ」


 腕の中でもがく首を、それでも大樹は離さない。


「そうなら、生きたものがちょっと入っても問題ないな」

「はっ? 何言ってんだい、この、トーヘンボク! そんなわけないだろう!?」


 首を背後に投げつけ、大樹は門に向かってずかずかと歩き出す。もう一歩、のところで姐さんが浴衣の襟首に噛みついて引っ張った。


「あんたらはあたしらとは違うだろう?! あたしらは磨り潰されたって、またどこかから湧いて出るんだよ! 勝手なことをしないでおくれ!」

六道ここが本当にそうなら、人間おれたちは輪廻の輪の中だ。生きてたって死んでたって、その輪からはそうそう外れない」

「坊、そうだけど、そうじゃないよ。ここは死んだ者が通る道だ。その先へ行くのはルールを違えることになる。輪の外にいるもののために、坊がすることじゃない」

「じゃあ、姐さんはどうして俺を助けたんだ。どうして爺さんを捕まえておくんだ。中のものに干渉するのは、外のものの特権なのか? 俺たちは何かしちゃいけないのか?」


 一瞬だけひるんだ姐さんを振り切り、大樹はまた門へと踏みだす。その肩越しに大樹の前へと回り込むと、姐さんは大樹をひと睨みする。


「勘違いをするんじゃないよ。あんたがいなけりゃ『想い出の味』は引き継がれない。そのためなんだから、あんたが門を越えるのは許さない」

「……どのみち、あっちにいってしまえば、あんたは『想い出の味』を食べられないだろ。磨り潰された後に湧くものが、あんたと同じものだという保証もないんだろ? 俺がいようがいまいが、関係ないじゃないか」

「ああ、もう! どうしてこう、あんたたちの血筋は頑固なんだろうね! いいから、黙って帰ればいいんだよ!」


 『居酒場 源』の戸口を顎でしゃくって示すと、姐さんは大樹に顔を向けたまま、すぅーっと門へと近づいていく。


「……待っ……!」


 大樹が腕を伸ばすより先に、姐さんの後ろにぼんやりと人影が現れた。節くれだった手が、姐さんの後頭部を掴んで大樹の胸の中へと投げてよこす。


「どいつもこいつも……」


 呆れた声は、けれど笑いを含んでいた。


「源さん!?」

「爺さん……」


 姐さんが振り返った時、源三はもう片足を門の向こうへ踏み出していた。大樹の腕の中から転がるように飛び出して、姐さんは源三の傍へと寄る。


「何やってんだい! 約束したじゃないか!」

「ゴールの話か? 大樹はもう見えてるよ。神さんだか閻魔さんの目こぼしも、ここまでってこった」

「だって、だって源さん、そうだとしても、あんたがくぐるのは、この門じゃないじゃないか」


 源三は貂に視線をやって、ふっと笑った。


「どの門だろうと、いつかはまたくぐる機会も来るんだろうさ。食われる側に回るのも、面白れぇんじゃねえか?」


 ニッカと笑って言う源三に、姐さんはそれ以上の言葉を失くしたようだった。

 源三はためらいもなく門の向こうに入り込み、少し向こうに倒れている姐さんの身体を抱えて境界ギリギリまで戻ってきて、それをしっかりと大樹に預ける。手を離す前に、源三は口を開いた。


「大樹。失くしてもいいものとそうでないものはしっかりと見極めろ。全部が出来ねえなら、ひとつずつやっていくしかねぇ。俺もそうやってきた。迷いはあっても、間違いはねえんだ」


 頷く大樹の、姐さんの身体を抱えた手をポンと叩き、源三は背を向けた。

 門が閉まる。何事もなかったかのように。静寂が訪れても、しばらくは誰も動こうとしなかった。



 * * *



「……いつまで抱えてんだい、下ろしておくれよ」


 洟を啜り、微かに震える声を大樹は指摘しなかった。言われた通りに首のない姐さんの身体をそっと地面に寝かせる。

 首は吸い付くようにその断面を合わせ、少しだけ眉を寄せた。


「姐さん?」


 どこか痛むのかと、大樹が膝をついたのと同時に、姐さんの身体が縮み始めた。驚く大樹とは対照的に貂がケタケタと笑いだす。


「ざまあないな。これで、おあいこだ」


 ちょろちょろと寄ってきて覗き込んだ貂を、幼稚園児くらいになった姐さんがむんずと掴まえて起き上がった。

 髪はおかっぱに。着物は相変わらず赤かったけれど、子供らしく少し短めで、帯は兵児帯になって背中でひらひらと揺れていた。


「焼いて食っちまおうかねぇ。不味そうだけど」


 見た目が幼くなっても口調は変わらない。大樹はなんだかむず痒い気分だった。

 バタバタと暴れる貂は全く反省していないように見える。


「フン! お前はいいよな。いつでもご馳走を食べられるんだから。力が戻るのもすぐだって言うんだろ!」


 ふと、大樹は貂の物言いにずっと引っかかっていたことを口にする。


「姐さんは、自分から『想い出の味』を欲しいと言うことはめったにないぞ。だいたいは、おでんをつまみに酒を飲んでるだけだ」

「……は?」


 幼女が小動物を可愛がる加減がわからずに握りしめているという情景に、やや毒気を抜かれながら言葉にした大樹に、貂は少し間抜けな顔になった。


「他の奴らも、だいたいそうだ。『想い出の味』はいつでもあるものでもないし、タイミングが合った時に分けられれば出すが、余計に作ることもない。あくまでも、余ったものを常連に出す感覚でしかない。推測だが……純粋に食事をするためになら、あんたも辿り着けるんじゃないか?」


 姐さんがひどく顔を顰めたので、大樹は自分の推測が間違ってないと確信する。

 呆けた貂の顔ににやりと笑うと、彼は立ち上がった。


「仕事の話を聞いてほしいなら、一度くらい俺の味を確かめてからにしてくれ。あと、律夏りつかさんをこれ以上巻き込んだら、次は鍋にするから」


 じゃ、と、大樹は答えも聞かずに『居酒場 源』の引き戸を開けた。




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※ろくろ首(首が伸びるもの)と、抜け首、飛頭蛮(首が身体から離れて飛ぶもの)とは、本来、別の妖怪だと言われています。

 ただ、その性質は概ね似通っているため、この作品ではどちらも併せ持つものとして描いています。ご了承ください。

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