34 化かし合い

 大樹の傍を掠めた炎は、浴衣の袖を焦がして白い煙を上げる。火こそつかなかったものの、大樹は慌てて袖をはたいていた。

 気休めのつもりだったお守りが存外の効果を発揮してくれて、現代まで残る古からの宗教も捨てたもんじゃないと、友人への思いを改める。

 消えゆく炎の向こうに律夏りつかの姿がなく、空気を裂いたような切れ目が薄くぼやけていくのを見て、大樹はほっと息をついた。

 律夏が戻れたなら、それでよかった。


「忌々しい……」


 低い呟きに、大樹は吉出に向き直った。


「関係ない奴を巻き込むな。そういうところだぞ」

「うるさいっ!」


 吉出の輪郭が揺らぎ、犬のようなものが大樹に体当たりする。不意を突かれて、大樹は吹き飛ばされた。背中から落ち、呻きながらも倒れ込んだ頭上を仰げば、扉が見える。周囲を囲む門の一つの前まで飛ばされた形だ。

 お守りは律夏に持たせた。初めのような炎の攻撃は、おそらくもう防げない。あれを効かないと勘違いしてくれているのなら幸運なことだと、大樹は口の端を持ち上げる。


「何を笑う。己の非力さをか? 俺の浅ましさをか?」


 丸い耳に細長い躰。黄色っぽい体毛に白い顔。可愛らしい顔に似合わず、鋭い歯。イタチのような、オコジョのような、しかしそれにしては大きさがおかしい。大型犬と同じくらいはある。その前脚を大樹の胸に押し当てて、その生き物は喉の奥を鳴らした。

 前脚は人の手に変わり、腕、肩、頭と人の形を戻していく。胸ぐらを掴んだ腕は、軽々と大樹を引き起こした。


「人間は、エサらしく、小さなことで悦びつけあがり、疑い恐怖して震えればいい」

「生憎、爺さんにも神主にも、それが一番よろしくないと教わったんでな。見越し入道のような輩は見越してやれと」

「口の減らない……俺が見かけだけだと? ――まあいい。一度この門に生きた人間を突っ込んでみたかったんだ。どうなるかな。何の門か、知ってるか?」


 黒目だけの瞳を細めて、吉出は楽しそうに笑う。

 ギギ、と音を立てて門が開き始めた。


「碌でもないことを考えてるのは、なんとなく」


 胸元を掴んでいる手に自分の手を重ねて引き剥がそうと試みながら、大樹は肩をすくめる。

 周囲に見える門は六つ。その先にそれぞれの世界があると仮定するのなら、仏教の六道りくどうをなぞらえているのかな、というのは判る。ただ、この場が本当にその場なのか、吉出が作り出した場なのか、大樹には判断がつかなかった。

 作り物だったとしても、それに抵抗できる強靭な精神を持ち合わせていなければ、それなりのダメージは受けてしまう。催眠下でボールペンを焼けた火箸だと言って押し付ければ、そこに火傷ができるように。人間の精神は繊細で、強くももろくも姿を変える。

 微妙な不安を嗅ぎつけて、吉出は舌なめずりをした。


「そうそう。もっと怯えて命乞いでもしてみろよ。気が変わるかも」

「そうして、梯子を外すのか。なるほどな。さぞや甘美な味がするのだろうな」


 ピクリと額に青筋を立てた吉出は、その手をこじ開けようとしている大樹をものともせずに持ち上げた。つま先さえも完全に地面から浮いてしまっている。


「ジジイの後を追わせてやるよ。もっとも、ジジイがどの門をくぐるかは、判らないがな」


 わざわざ開いていく門を大樹に見えるように立ち位置を変えてから、吉出はそれが半分以上開くのを待つ。

 それを黙って見ているにもかかわらず表情の変わらない大樹に、吉出の方が渋い顔をした。


「諦めか? 足掻く気はないのか? 俺と手を組むと、言う気は――」

「あの向こうは俺も気になる。早く放ればいい。もったいないと思ってるのは、あんたの方じゃないのか」


 挑発を挑発とわかっても、吉出はカッと突き上げる衝動を抑えきれなかった。大樹を掴んだ腕を振り上げ、ボールでも投げるように軽々と開きゆく門に向かって投げつける。

 境界を越えるのは、すぐだろう。ゆっくりと瞳を閉じた大樹だったが、何かが胴に巻き付く気配に驚いて再び目を開いた。身体は急激に進む角度を変え、内臓が口から飛び出しそうな圧迫を感じる。


「駄々っ子みたいなことはお止めよ」


 すぐ傍で声がして、大樹はぎょっとする。大きな舌打ちをした吉出からは先ほどまでよりも鋭い視線が飛んできていた。


「壊してしまえば、二度と手に入らないんだよ」

「俺は困らん」

「そうかもね。でも、きっと後悔するよ?」


 大樹を締め付けていた肌色の太い縄はするするとほどけて、短くなっていく。


「姐、さん」

ぼんもお嬢さんを助けただけで満足するんじゃないよ! まだまだこれからなんだから!」


 戻り切っていない首を揺らしながら、姐さんはいつもの調子で怒ってみせる。


「調子のいいことを……前の店主を店に閉じ込めたり、親切面してやりたい放題じゃないか。そいつは知らなかったようだぞ? どう言い訳するのかな?」


 悪意に満ちた笑顔に、はぁ、とため息をこぼして、姐さんはパタパタと手を振った。


「何を言い訳するんだい? あたしゃ、自分のやりたいことをやりたいようにしてるだけさね。源さんも坊もそんなことは承知の上だよ」

「は?」

「おや? 違うのかい? なら、もう少しつけ込んでおくんだったねぇ」


 にたりと笑う姿に、大樹は眉をひそめた。

 信用ならないのは判っている。それと源三のことは別問題だろうにと。


「白々しい。茶番はたくさんだ。そいつを助けに来たのは間違いないだろう?」

「坊には悪いけど、違うよ。あたしは源さんを探しに来たんだ。坊は運がよかったねぇ。神さんにも気に入られてるのかね?」

「何?」

「爺さんを? あそこから、出られないんじゃ……」

「場所が場所だからねぇ。えにしの深い坊が道を繋げば、そっちに引っ張られるさ。そういう意味でも余計なことをしてくれて……ちょっと、お灸を据えないと、ねぇ?」


 あでやかに笑う口元は朱く、ただ視線を吉出に向けただけなのに、大樹まで総毛立った。吉出は反射的に飛びのいて、片手を大きく振りぬいている。

 眼前に炎が迫る。

 思わず両腕を顔の前で交差させた大樹だったけれど、勢いよく向かってきた炎は、姐さんの前で時間を止められたかのようにぴたりと止まった。揺らぎひとつない。

 姐さんはどこからか煙管を取り出して、のんびりと告げた。


「あたしらってのはさ、ほら、化かすのが仕事だろ? だから、モン同士でやり合うとさ、より上手く化かしたモノが勝つわけ。狐やテンは面倒だからね。あんまりやらないんだけど」


 手にした煙管で止まった炎をひと撫でする。炎は触れた場所からするすると煙管の中に吸い込まれていった。全てを吸い込むと姐さんはそれを口に咥え、ふぅっと一息、煙を吐き出した。

 煙は細くたなびいて、拡散することもなく、するすると吉出に向かっていく。彼は手で払おうとして、逆に絡みつかれそうになり、口を尖らせてそれらを吹き飛ばす。乱れる煙を見て、姐さんはもうひと吹き煙を吐き出した。今度は塊のまま先の煙と混ざって、見る間に大きな蜘蛛の形を取っていく。

 蜘蛛から吐き出された細い煙は、吉出をぐるぐる巻きにして動きを封じた。


「しばらくそうしておいで。源さんを見つけないとね。坊、あんたはお帰り」


 姐さんが指差すと、『居酒場 源』の戸口が現れた。


「待て。爺さんを見つけたら、どうするつもりだ?」

「そりゃ、引き止めるよ」

「やめろ。爺さんが未練がないというなら、引き止めるべきじゃない」

「そっちの都合は知らないねぇ」


 にべもなく言って、姐さんはすっかり開ききった門の前へと歩を進めた。


「先にこれを閉めないと。危なっかしくて仕方がない」

「姐さん! もう、休ませてやってくれ」

「やだね。こっちへの誘いは断られたんだ。当初の予定くらいは、居てもらうよ。ちょっと、邪魔しないでおくれ。開けるのは簡単だけど、閉めるのは面倒なんだよ。本来、誰かが通る時しか開かないものなんだから、わかるだろう?」


 しっし、と追い払う仕草の手に追いすがろうとして、大樹は目の端にオレンジ色を捉えた。大蛇のような炎の向こうに、勝ち誇った吉出の顔。その顔が白い動物のものとなり、炎の向こうに見えなくなる。


「姐さ……」


 反射的に彼女を庇おうとして、逆に大樹は姐さんの手に突き飛ばされた。

 撫でるような手つきで、間一髪消えた炎の奥から突っ込んでくる貂。もろに胸で受け止めた姐さんが門の境界の向こうに弾き飛ばされていくのを、大樹は成す術もなく見ているだけだった。




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