33 源三

「お嬢さん、その門はあんたが潜っちゃだめだ」


 ドン、とおじさんの背中を突き飛ばして、代わりに誰かが私の手を取った。

 門から引き離され、その人はやれやれとため息をつく。

 おじさんが潜った門は、開く時とは対照的にあっという間に閉じてしまった。

 呆気に取られて、手を引いた主を見る。


「……あの……ダメって? 私有地、とかですか?」


 でも、あのおじさんは連れて行ってくれそうだったのに。

 私の手を引いた人は、作務衣姿の目力の強いお爺さんだった。


「生きてる人間の行くとこじゃねぇよ。広場へけぇんな。大樹が迎えに来る」

「大樹さん? 大樹さんの、お知り合いですか? 彼は、どこに?」

「初めてのことだから、ちぃっと時間かかっとるんだろうな。そんでも、珍しく結構怒ってるみたいだから、そろそろ着くだろう」

「怒ってる? 勝手に……はぐれたから?」


 お爺さんはケタケタと笑った。


「お嬢さんにじゃねぇよ。俺もまた捕まらんうちに行かなきゃなんねぇ。悪ぃが、お使いを頼まれてくれねぇか」


 そう言って、お爺さんはメモ用紙を三枚ポケットから取り出した。


「大樹に渡してくれ。あとは好きにしろって」

「わかり……ました。あの、あなたは……」

「渡しゃあわかる。広場の屋台の食いもんは食うなよ? グレーゾーンだが、念のためだ」


 背中を押され、門とは反対方向にまっすぐ指をさされる。


「缶詰のさくらんぼ」

「……え?」

「あいつの好物だ」


 ニッと笑ったお爺さんは、あとは黙って手を振るだけだった。



 * * *



 広場に戻ると、熱気と喧騒が戻ってきた。

 屋台のお兄さんが「試食はどうだい?」なんて、爪楊枝に刺さったお好み焼きの欠片を差し出してくる。ソースの香りは美味しそうだけれど、お爺さんの忠告を守ってきちんと断った。

 人の流れを横切って、櫓の下まで辿り着く。太鼓の音がお腹に響いて、私は上を見上げた。


「ダメだったでしょう?」


 ほら見ろと言わんばかりの吉出さんの声。人混みの中、よくすぐに見つけられるものだ。


「少し、休憩です」


 自分でも、少し意地になっているみたいに聞こえる声に、吉出さんは含み笑いを漏らす。


「じゃあさ、協力はしてくれなくてもいいよ。その代わり、僕をその店に連れて行ってよ。少年じゃダメだったけど、今の君なら僕を連れても辿り着けるでしょ」

「……どういう意味ですか?」


 眉を顰めても、彼は笑うだけ。


「日野原さんに僕を招待すると言わせるだけでもいいよ。あとの交渉は自分でするから。ね。それだけ約束してくれれば、今すぐにでも――」

「話があるなら、今聞くが」


 割って入った声を振り向く前に腕を引かれ、縦縞しじらの浴衣が目の前に滑り込んできた。その肩が少し上下している。


「……芸が増えた?」

「自分でも驚いてるよ」


 大樹さんの背中で隠れて、吉出さんの顔は見えない。それでも、声の感じからは吉出さんの方が余裕のある感じがした。


「じゃあ、一杯やりながら話す?」

「あっ。だ、だめ!」


 思わず袖を引いた私を、大樹さんは不思議そうに振り返った。


「飲み食いするなって……」


 説明不足の私の言葉を、彼はちゃんと解ったようだった。大樹さんが何か言う前に、吉出さんの呆れた声がする。


「いやいや。日野原さんが帰れなくなるのは、こっちが困るから。って、誰の入れ知恵かな?」


 少し冷ややかになった声が怖くて、大樹さんの袖を握ったまま、その背に隠れるように身を寄せる。


「いいから、律夏りつかさんを帰せ。話はそれからだ」

「冗談じゃない」


 吐き捨てるような言葉と共に、お囃子が止んだ。周囲の喧騒も聞こえなくなって、あれだけいた人の気配がまるで消えてしまう。そろりと振り返れば、屋台の売り子さんまで人っ子一人いなくなっていた。手の震えが伝わってしまったのか、大樹さんが振り返って私に手を伸ばす。その手が私をしっかりと抱え込んだ瞬間、今度は灯りという灯りが消えてしまった。

 口から飛び出した小さな悲鳴に、大樹さんは自らの体温を寄せて大丈夫だと伝えてくれる。


「こうでもしないと、まともに話も聞かないじゃないか。そもそも、あの女のことをどうして信用してるんだ。あんたの祖父を縛り付けているのは、アイツだろう?」

「なんだって?」


 大樹さんの声が強張った。あの女、とは、誰のことだろう? お爺さんを縛り付ける?


「味方の振りをして自分だけ利益をむさぼる。一番たちが悪いと思わないか? あの女はあんたたちを骨の髄までしゃぶりつくす気かもしれない。『想い出の味』は、もっと広く知れ渡るべきだ」

「もっと、広く?」


 固いままの大樹さんの声に、吉出さんは気をよくしたようだった。ようやく話が通じたというように、テンポが少し早くなる。


「大方、あの店の護りと引き換えに『想い出の味』を食わせろとでも約束を取り付けているんだろうが、そうやって客を限定されるより、きちんと宣伝して、ひとりでも多く客を入れた方が商売としても安定するだろう? 金があれば、人も雇える。手が増えれば、店を大きくすることだって。そうやって広げた手を、僕ならサポートしてやれる。ちゃんと、人間こちらのやり方で」


 吉出さんは気づかなかったかもしれない。でも、しっかりと彼に抱き留められている私には、その微かな笑いの息遣いが聞こえてきた。少し強張っていた身体も、心臓の音も、もう少しの乱れもない。


「なるほど。爺さんが断り続けた理由が解った」


 続く言葉を見失ったかのように、吉出さんは少しの息だけを吐き出して動きを止める。暗くて何も見えないけれど、そう、感じられた。


「俺は爺さんとは違う。だから、断る理由も違う。けど、あんたが店に来られない理由は、きっと同じだ」

「なんだって?」


 先ほどは大樹さんが言ったセリフを、今度は吉出さんが口にする。


「どういう意味だ。あの女は、俺が用意する以上の利益をお前らに差し出していると、そういうことか? それは、ジジイを無理やり留めていることを差し引いても、有り余ると――」


 ぎちぎちと歯噛みするかのような音が響き、吉出さんの言葉が荒くなる。


「その件は、あとで問い正しておく。だが、多分、爺さんは了承済みなんだろう」

「何故。何故だ。何故そんなにも信じられる! 何故、揺らがない!」


 ゴォ、とオレンジの明かりが周りを囲む。「持ってて」と囁いて、大樹さんは私の手に何かを押し付けた。手のひらに収まるくらいの、布の手触り。お守りのようだった。

 オレンジの明かりはゆらゆらと揺れ、熱を発している。

 私たちをぐるりと囲む炎の向こう、彷徨っている時に辿り着いた門と同じようなものが見える。一つじゃない。全部は見渡せないが、おそらくいくつかの門に囲まれている。


「あんたは勘違いしている。俺がよく知っていて信じているのは、爺さんだ。そして、爺さんも彼女たちを信じていたわけじゃない」

「訳の、わからないことを……! もういい。もういい、もういい!! 手に入らないのならば、消えて無くなれ! これ以上あの女にうまい汁を吸わせるものか!」

「結局私怨かよ」


 ぼそりと落とされる呆れかえった一言がなんだか可笑しくて、少しだけ笑ってしまう。それどころではないのは解っていたし、私たちを囲む炎が大きくなって狭まってきているのも見えていた。怪訝そうな顔をした大樹さんは、その顔のまま私を包み込むように力強く抱きしめてくれる。


「怖がらせて……ごめん」

「大丈夫」


 大樹さんが持たせてくれたお守りを握りしめて、不思議と落ち着いてそう言えた。大樹さんが焦る様子はない。だから、大樹さんを信じられた。目を瞑り、大樹さんの胸に全てを預けていれば、熱も光も感じなかった。

 小さな舌打ちは、吉出さんのものだろうか。


「……律夏さん、俺が隙間を作ったら、芳枝さんのことだけ考えて走って」

「隙? 芳枝?」


 何のことかわからず問い返しても、彼は小さく何か呟いていて、もうこちらには答えてくれない。


「――在・前!」


 大きく振られた左手と同時に、私を抱き留めていた手が私を押し出した。押し出された先には、布をカッターで切り裂いたような亀裂がひとつ。


「走って!」


 叫んだ大樹さんの声と姿は、炎の壁でかき消されてしまった。身体が戻りかける。でも、一人で見る炎はとても熱くて怖くて。ここで動けなくなったら、きっと大樹さんに迷惑をかける。まだ足が動いてくれるうちに。

 私はお守りを握りしめたまま、芳枝に助けを請えばいいのだろうかと、隙間に飛び込んだ。




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