26 カミングアウト

 大樹は手のひらにじっとりと汗をかいていた。

 彼女の言うことは間違っていない。大樹もそれでいいと思っている――思っていた。


 (いっそ、何もできなければ良かったのに)


 源三のレシピが、死人の告げるレシピが、確かに誰かの心に響くと理解してしまうと、どうしても自分の作るものと比べてしまう。いや。どれも大樹の作る物なのに、どうして違いが出るのかと、道に迷った子供のように立ち尽くしてしまうのだ。

 一口大に切られたケーキが彼女の口に運ばれる瞬間、大樹は視線を伏せた。ラタトゥイユで心の準備は出来たと思ったのに、まかないにしたことで分からなくなった。これでデザートだけバッサリと切り捨てられるのは、怖かった。

 ふふ、と小さく笑う息づかいに大樹はようやく顔を上げる。苦笑するかのように眉尻を下げる表情に、背筋の冷える思いがした。


「なんだろう。不思議。見た目の印象は前回食べたチョコケーキと変わらないんだけど……」


 ためらうように大樹を上目づかいでちらりと見る彼女に、彼の握られたこぶしに力が入り、口は一文字に結ばれる。


「ショートケーキだからかな? なんだか、誕生日に買ってもらったケーキを思い出しちゃった。もちろん、昔食べたケーキと同じ味なわけではないんですけど」


 にこにこと笑顔で次の一口を頬張る律夏りつかを見て、大樹は肩の力を抜いていいのかわからなくなる。


「……どういう?」

「あ。ごめんなさい! しっとりしてるのに軽いスポンジも、クリームの甘さも、私好みです。ここで出すなら、上の飾りはもっとシンプルでもいいかも」

「そう、か。あ、いや、今のところ、商品にするつもりはないんだが……」


 ほっと、こぶしを緩めた大樹だったが、律夏はケーキにフォークを落としながら遠慮がちに続けた。


「ダイキさん、何か迷ってます? こんなに綺麗なケーキを作れるのだから……居酒屋は続けたくないですか?」

「居酒屋、というか……」


 適切な言葉を思いつかないでいるうちに、彼女は一旦フォークを置いた。


「前回食べたものより、今日食べたケーキの方が好きです。でも、口に入れたイメージが変わっているのが良いことかどうか判りません。もしも、ダイキさんがホテルやそれなりのところで働きたいなら、前回のケーキで問題はないのかも……下手なことを言って惑わせる方が悪い、かも」

「あ。違う。そうじゃない。その……そういうところを辞めて、全部投げ出そうとしたのに、何がダメだったのか解るかもしれないと思ったら、また未練たらしく手を出してしまったと、そんな、感じで」

「え。ホテルで、働いてたんですか?」

「ホテルにもいたし……そのあと独立もして……洋食屋じゃなくて、ケーキ屋だけど」


 顔を引きつらせて思わずのけぞり、バランスを崩しかけた律夏の腕を大樹は素早く掴んだ。


「ご、ごめんなさい! 私……」


 反対の手が思わずスマホを掴んでいるのを横目に見て、大樹は小さく息をつく。


「謝らなくていいから。どうせ電波は来てないけど、あんまり調べるのはやめてくれないか。恥ずかしすぎる」

「は、恥ずかしいのはっ、私っ……知らなかったこととはいえ、勝手なことを……!」


 すっかり下を向いてしまった律夏は耳まで赤い。そっと手を離すと、大樹は苦笑した。


「みんな「美味しい」って言ってくれたんだ。技術は自信があったし、小さな店で独立して、接客まで気が回らなそうだったから、バイトに人当たりのいいヤツを選んだ。慣れてきて、バイト任せにしてたのを反省する頃には、何人か入れ替わった後で。そこでようやくリピーターの少なさに気付いたんだ」


 律夏はそろそろと顔を上げる。まだ赤い顔に心配そうな表情が浮かんでいた。大樹はできるだけ優しく微笑んでみる。


「新規の客はそれなりに入ってたし、初めは知人の知人とかも来てくれて忙しくしてたから。ふと、気になって口コミを調べてみた。思ったほど酷いものはなくてホッとしたけど、固定客が少ないのは変わらなかった。新規の客の数も減ってきて、理由だけが分からず悩んでた時に、見つけた一文が「見た目は綺麗だけど、彼女の作ったケーキの方が旨い」だった」

「……それは!」


 大樹はうんと頷く。


「俺も、最初に見た時はそれほど気にしてなかったんだ。惚気だなって。でも、一度気になったら、同じような言い回しの評価がどんどん目に入って。美味しいけど、あっちの店の方が好き、とか記憶に残らない味、とか。不可ではないけど、言及するほどの良もない、みたいな。しばらくはあれこれやってみたんだが……うちでバイトしてたことのある奴が、ある時、近所の店でうちのケーキに似せたものを安く売りだして。親戚の店だったらしいんだが、あれよという間に評判になって」


 肩をすくめる様子に、律夏は眉をひそめた。


「抗議は?」

「ネットの一部で話題になって、うちの客も少し増えたから、なんだかうやむやに。デザインが似るのはよくあること。似たものなら美味い方を買うだろうと堂々と言われたら……理不尽な気持ちももちろんあったけど、客の数が違うのは明らかだったし……少ししてから店を閉めたんだ。興味本位の客も客だと割り切れなかった。しばらく腐ってたら、昔からの友人が厄落としも兼ねてバイトしないかって誘ってくれて」

「それで、神社で。昔からって、同級生とかですか? いいご友人ですね」

「ああ……歳は、五つくらい上だから、学校とかはかぶってないんだが……」


 店の中をぐるりと見渡すと、大樹は少々困り顔でその場を締めた。


「そういう訳だから、簡単にまた店を、という気持ちではないんだ。ここをやることになったのも、本当に少しのつもりで。ただ、律夏さんが、俺の味をいいと言って通ってくれるから、スイーツもあの頃よりよくできるかもしれないと……できれば、いいなと。やっぱり、どこかでは美味しいって食べてほしいんだと思う。……今日は、ありがとう。参考になった……気がする」

「うっ……あ、あんまりお役に立ててなくて……」


 引いていた赤さがまたその頬に戻ってくる。

 大樹はゆっくりとかぶりを振った。


「先入観の無い、素直な意見が聞きたかったんだ。だから、本当に感謝してる」


 そのまま彼はカウンターの向こうから出てきて、引き戸を開けた。


「ちょっと、コンビニまで行くから、一緒に出ませんか」

「あっ、ハイ」


 律夏が後に続くと、大樹は誰もいなくなった店内にもう一度視線を向けてから、その戸を閉めた。




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