9 ふるさとは遠くにありて

 大根、キャベツに人参、生姜と共にご飯と麹で漬け込んで。

 主役のハタハタの前処理は時間がかかるけれど手を抜けない。生臭さが残ったら台無しだ。

 鮭やホッケもいいけれど、婆さんの味はやっぱりハタハタなんだよなぁ。

 定年して非正規雇用で数年働いていた男は、小皿に取り分けたハタハタに少しだけ醤油を垂らしながら笑顔でそう呟いた。


「近所のスーパーでも手に入るし、うちでも挑戦してみたけど、婆さんの味には遠くてさ。酢が効きすぎてなくて、醤油が欲しくなるくらいのいい塩梅。酒の肴にもってこいだ」


 源三はしみじみとハタハタの飯寿司を噛みしめる男に、ゆるりと頷いた。


「それで? どこに行くって?」


 男は目を細めて熱燗をすぼめた口で迎えに行く。


「四国だぁ。みかんとうどんのイメージしかないんだが」


 笑って、肩をすくめる。

 長く入院していた奥さんを亡くして、一息ついたところでタチの悪い風邪で寝込んだ。年のせいか、風邪のせいか、体力がなかなか戻らなくて家が荒れていくのを、嫁に行った娘が心配して声をかけてきた。同居となるとお互い気を遣う。おかずの冷めない距離で、近くに来ないかと。


「心残りもなくなったし、何より雪かきが無くなんのは大歓迎だからな」


 カラカラと笑ってはいるが、不安が無いわけではあるまい。

 歳を取ってから知らない土地に移るのは、気力を絞られる。それでも娘の意を酌んで、自分の体力と相談して、あとは持ち前の好奇心を総動員して決めたことだった。


「地元って呼べるとこにゃあ、もう十年単位で帰ってねえし、帰る家もねえ。でも、こうやって飯寿司をつつきながら風の音を聴いてっと、なんだか昔を思い出すなぁ」


 男は目をつぶって、しばし思い出に耽る。




 春にニシン漁が盛んになる男の故郷は、冬には吹雪でちょくちょく陸の孤島になるような街だった。

 眠っているうちに腰まで積もって、玄関から出るのも大変なこともある。朝昼晩と雪かき三昧で、親父は一杯やりながらよく舟をこいでいた。

 身欠きにしんを使ったニシン漬けも、ハタハタやホッケの飯寿司も、冬場の欠かせない一品だ。

 子供の頃は魚臭さが苦手だったり、日が経って酸味が強くなると文句を言ったものだが、成人して大きな都市に出て酒を覚えると、居酒屋で出るそれらに首を傾げてしまう自分がいた。

 うちのは、もっと旨かったよなぁ、と。

 時々帰って食べるのが楽しみになり、親父と深酒して怒られて。婆さんから受け継いだお袋に、レシピを聞いたりもしたけれど、やっぱり同じようには出来なかった。


 そうこうしているうちに親父が倒れ、あれよという間にお袋も後を追う。

 住むわけにいかない家は処分して、ふるさとの味は二度と味わえないものになってしまった。

 そういうものだと諦めて、今度は嫁の味に楽しみを見つけていく。順風満帆とはいかなかったけれど、それなりに頑張ってきた。

 子供たちが独立して、嫁が倒れ、日々を必死に生きるのみ。

 マンションに住み、大雪の駐車場以外の雪かきも無くなって、隙間風もなく暖かいはずなのに、一人の家で聴く風の音は、閉ざされた冬のあの日より、ずいぶん寒々しく聞こえたものだ。

 ぽっかり時間が余って、昔足しげく通った居酒屋に足を向けてみる。それは変わらずそこにあって、変わらず迎え入れてくれた。

 耳にしていた噂話を酒の勢いで口にする。

 源さんは「大きな期待はするな」と言ったけど……




 男は固まった米粒や野菜ごとハタハタを持ち上げる。そのまま口に入れて、思い出ごと噛み締めた。この土地での最後の晩餐になんともふさわしい。


「源さん、ありがとよ。もしも、娘と旅行することでもあったら、また寄らせてもらうよ」


 源さんはいつものように頷いた。


「おう。よろしくな。なんなら、それ、持ってくかい?」


 空になった皿を指差されて、男は瞬間だけ迷う。


「欲しいとこだがなぁ。手荷物ではちょっと……」

「ああ。そうだな。じゃあ、落ち着いたら連絡してくれ。送ってやるよ。今は輸送も優秀だ。気に入ってくれたんなら、来年も作ろうか?」


 ニッと笑って、源さんはカウンター台の上の電話の子機にポンと手を乗せた。

 この店では携帯の電波がほとんど届かない。一人暮らしで見ることもなくなったその機械を、男は何度か目をしばたかせて見ていた。



 * * *



「お魚の漬物なの?」


 ぴこぴこと尻尾を揺らしながら狐の少年が待っている。目の前に皿を置いてやれば、たちまち瞳がキラキラと輝きだした。

 今日は少年はカウンターの中にいる。珍しく、何人かのグループが同じ時間に重なったのだ。とはいえ、満員という訳でもないが。

 源三は手際よくハタハタの飯寿司を小皿に分けていく。


「お。坊主、食ったことないのか? うまいぞー」


 客の一人にそう言われて、少年は大きく頷いた。

 醤油は垂らすのか垂らさないのかで、ひと賑わいする。


「お通しが飯寿司なら、熱燗にしようかな」

「こっちは番茶割 *で!」


 おうおうと伝票にメモして、ジョッキやグラスを並べていく。

 源三がビールを注いでいる間に、出された分をぺろりと平らげてしまった少年は、満足そうな顔で首を傾げた。


「源さん、これ、みんなに出しちゃっていいの?」


 誰かの『想い出の味』だ。送ると約束しているはずのものでもある。

 一通り酒類を出してしまって、源三は一息ついてから少年に苦笑を見せた。


「十キロ単位で漬けろって。ちまちま漬けてちゃあの味にならないんだとよ。冷凍もできるが、うちの店じゃ注文待ってたら捌けねえだろ」


 そうかぁ、と呟いて、少年はそわそわとしだす。

 料理の注文も一段落させてから、源三は冷蔵庫からタッパーに取り分けた飯寿司を取り出した。


「ほら。あねさんとこに持ってってやれ。食いたい奴は都合つけて来いって伝えていいぞ」


 ぱぁっと顔を輝かせて椅子から飛び降りた少年を笑って見送って、どこからか聞こえる消防車のサイレンの音を聞きながら、源三は妖怪の客たちの好みの酒の在庫を確認するのだった。




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*番茶割り……焼酎のほうじ茶割り。北海道ではほうじ茶のことを番茶と呼びます。方言、になるのかな?


作中参考食品:ハタハタの飯寿司

我が家でも飯寿司と言えばハタハタだったのですが、全国的には一般的じゃなさそう?同時期にニシン漬けもよく出ているのですが、そちらより魚臭くも酸味も少なくて食べやすい気がします。作者は醤油を垂らしたい派。

最初はニシン漬けで書こうかなと思って調べ始めたのに、いつのまにか飯寿司にとって代わってしまいました。ニシン漬けのレシピは留萌の田中青果さんのレシピが美味しそうでした!お好きな方は参考になさってみては。

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