6 居酒場『源』
どーんと落ち込んで、同期の
ミスっていうのはどうして重なるんだろう。
挨拶の時に自分の名前を噛むことから始まって、お茶は零すし、数字は間違えてるし……最終的にクライアントの名前を間違って呼んで、先輩が真っ青になっていた。先方がおおらかな方だったのでその場は事無きを得たのだけれど、次は無いかもしれないと後でこってり絞られた。
食欲は無いような気もするけど、食べないと体が持たない。午後からも仕事は詰まってる。
「……帰りたい……」
お洒落なカフェではないが、この辺りではそこそこ人気のあるカレーに溜息を落とす。
「よしよし。
「うぅ……午後はおとなしく提出プランを煮詰めることにする。これ以上先輩に角を増やしたくない……」
ふと、通りかかった人物が足を止めた。視線を感じて顔を上げると、カレーを乗せたトレーを持った男の人が苦笑して私を見下ろしている。午前中、さんざん顔を突き合わせていた、その人だ。
「――――――!!」
思わず立ち上がって、勢いよく頭を下げる。
「先程は失礼いたしました……!」
「ああ、いいって。落ち着いて。座って」
辺りに視線を投げる様子に、悪目立ちしていると察する。ああ、なんか、もう、ホント、帰りたい……
しおしおと座り直すと、彼はトレーを置いて私の隣に腰を落ち着けた。
「ねえ、君。えっと、
一見優しそうな瞳が私を値踏みするように見つめている。
何に付き合わされるのかと強張る私の顔を見て、彼は少しだけ笑った。
「ちょっと別件なんだけどね。最近噂の店を見つけたくて」
「噂、ですか?」
「そう。店主が亡くなって閉まってるはずの店の、ぼろぼろの赤ちょうちんが点いてたとか、鍵がかかってない引き戸を開けたら若返った店主が凄い顔で睨んでいたとか……」
「お化け居酒屋!」
指をさして声を上げたのは向かいに座っている芳枝だった。
「そう、それ。知ってる?」
彼はテーブルの上へと身をのり出す。
「私は……」
聞いたことがない。首を振りながら芳枝に視線を流すと、彼女は得意気に鼻を膨らませた。
「〈すすき原〉のどこかにある、とは聞きましたよ。ビルの隙間にある平屋は迷い込んだ人間に言わせると化物屋敷だ! ってネットでも……律夏知らない?」
「初めて聞いた。なに、怪談系の話?」
「噂は色々だけど……元々見つけ難い店だし、誰かが不定期で店を開けてるんじゃないかって。木造の古い外観とぼろぼろの赤ちょうちんが廃屋みたいに見えるから、常連さんがふざけて『お化け居酒屋』って呼び始めたみたい」
彼――クライアントの
あ、なんか、自分がとことん駄目な人間な気がしてきた……
「んー。と。ほら、ここ! 住所は分かってるんだよね」
差し出された画面には〈すすき原〉の地図に赤いピンが留まっていた。それ程遠くない。
「特定されてるのに、微妙な話しかないの?」
「それがちょっと不思議なのよね。枝番が分からないからか、行き着けない人も多いみたい。路地が入り組んでるのかも」
「あなたは行ったことないんだ」
「私は、居酒屋よりイタリアンが好きです!」
ちゃっかり、何のアピールなんだか芳枝がにこにこと笑って言った。
まあ、確かに吉出さんは目立ちはしないけど悪い顔ではない。歳も少し上、くらいだろうし、芳枝のチェックゾーンに入ってるのかも。
「あ、は。覚えておくよ。人見さんは?」
「……え? 私は何でも……」
うっかり素で答えて、苦笑する吉出さんにはっとする。あれ? そういうこと聞いたんじゃなかった?
「じゃあ、付き合ってよ」
「え……えぇ!?」
驚きすぎて顔を紅潮させてのけ反った私に、吉出さんはにやにやと笑った。
「挽回したいんでしょ? その店、常連にしか出さない裏メニューがあるらしいんだ。上手くやれば人気店にできるかもしれない。店主が変わったんなら、うちでプロデュースできないかと思ってさ。そうしたら広告はまたそちらに頼んでもいい。行ってみる価値はあると思わない?」
あ、そうでした。そういう話でした。微妙に勘違いしたことにますます顔が赤くなる。狼狽えているうちに連絡アプリの交換もさせられて、私の今夜の予定は埋められてしまった。
* * *
待ち合わせ場所で先に待っていた吉出さんは、足早に近づく私に気付いて片手を上げた。
「意外と早かったね。彼女は来なかったんだ」
「先約があったみたいです。見つかったら連れてって、って」
「そうかー。上手い感じに逃げられたかな」
「え?」
「ま、いいや。人見さんはよろしく。さっそく行こうか」
引っ掛かりを感じたものの、踵を返して先に行ってしまう吉出さんを私は慌てて追いかけた。
碁盤の目になっているこの都市の中心部は、住所が分かればその一角はすぐに見つけられる。信号ひとつ分ずつしかない区画なのだから、見つからないということはないだろうと思っていた。
……んだけど。細い路地までくまなく探しても件の店は見つからない。歩き疲れて痛む足をさりげなくさする。
「……やっぱり見つからないか」
「やっぱり、ですか?」
「うん。実は何度か探してるんだ。自分とは違う目線で見たら見つかるかもと思ったんだけど……ほら、人見さんのお友達詳しそうだったし、見つけてくれるかなぁって」
「……すみません。お役に立てなくて」
「あ、人見さんが謝ることはないよ。見つからないと踏んで断られたのかなって思ってさ。彼女、世渡り上手そうだ」
頷きだけで肯定しておく。芳枝は要領もいいし、流行にも敏感だ。
「遅くまで付き合ってくれてありがとう。お腹空かない? 何か――」
言いかけた彼の手元でスマホが震える。そこへ視線を落とした彼は少し眉間に皺を寄せて「ちょっと、ごめん」と背中を向けてそれを耳に当てた。低い相槌の合間に小さな舌打ち。何となくトラブルを感じさせる。
通話を切って振り向いた吉出さんは残念そうに溜息をついた。
「ご飯食べたかったけど、戻らなきゃ。悪いけど、ここで失礼するね。次の打ち合わせはスムーズに行くことを期待してる」
「あ、はい。すみませんでした。お疲れ様です」
「気を付けて帰ってね。じゃ」
軽く手を上げて駆け出していく姿に頭を下げる。お腹は空いたけど、正直ほっとしていた。ちょっとだけ、関係を迫られたりしないかと不安だったのだ。仕事上のミスが無ければ、これも縁だと思ったかもしれないけど。
ほっとしたからか、夜気で冷えたのか、急にトイレに行きたくなって近くのビルに入り込んだ。なんてことない雑居ビルで、居酒屋からスナックまでいろんなお店が入っている。
スッキリしてトイレから出ると、どこからかお出汁と醤油のいい匂いが漂ってきた。くぅとお腹が催促する。入りやすそうなお店だったら食べて帰ろうか。
匂いに釣られるように奥へと足を進めるが、それらしいお店が見当たらない。廊下の突き当たりの少し開いたドアが、外気と一緒に香りも運んでくるのかもしれない。迷っている私の目の端に、ドアの隙間を横切るふわりとした尻尾が写り込んだ。
猫か犬だろうか。こんな場所に。私はそのドアを押し開けた。
ネオンでキラキラした表とは違って、薄暗くくすんでる。ぽつりぽつりと灯っているのは裸電球で、周囲は背の高いビルに囲まれているようだった。裏口だったかとドアを閉めかけて、またお出汁の匂いが鼻を掠める。換気扇でもあるのかとドアの影の方にも首を巡らせてみると、暗闇の中、ぼんやりと灯る赤い光に気付いてしまった。
あちこちが破けて中の電球が見えたりもしてるけど、確かにそれは赤ちょうちん。完全にビルに囲まれた小さなスペースに窮屈そうに収まっている、少し傾いた木造の平屋。暖簾に書かれているはずの文字もかすれたり、穴が開いていたりして、かろうじて読めるのは『酒』の字と『源』の字くらいだ。普段なら、絶対に回れ右しているシチュエーション。
それでも窓からは明かりが漏れていて、辺りにはいい匂いが充満してる。私はふらふらと吸い寄せられるようにその『お化け屋敷』へと近づいていった。
数秒だけ躊躇って、えいやっと引き戸を開ける。ガラガラと音を立てて開いた扉に、カウンターの向こうから店主らしき男の人が迷惑そうにこちらを見やった。
「……あの、やって……ますか?」
迷惑顔に、入るのを躊躇ってそう聞いた。店主はぶっきら棒に「ああ」とだけ答えて背を向ける。噂の通りまだ若い。といっても三十半ばくらいか。おそるおそるカウンターに座った私の前に、使いこまれたごつい湯呑とおしぼりが置かれた。手際はいいが、愛想のひとつもない。
きっとここだ。吉出さんに報告を、と思って取り出したスマホは圏外だった。一瞬目を疑う。高く掲げてぐるりと回してみても変わらない。カウンターの向こうから鼻で笑う声がした。
「通りに出ないと使えない」
「そう、なんですか」
「それに、アイツは出禁だとよ」
「え?」
電話の相手を知っているかのような発言に眉を寄せて首を傾げる。問い質す前に、奥のテーブル席からくすくすと忍び笑う声が聞こえてきてタイミングを失った。
お客、いたの?!
「
店主が嫌そうに目を向けた先には、赤い着物の艶めいた和風美人がお猪口を持って座っていた。
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