5 隣の青い芝 (お題:走る)

 どうしてか、運動会の日は暑い日が多かった。

 この辺りでは梅雨がないから、運動会は五月の終わりか、六月の頭にやってしまう。まだまだ肌寒い日もある季節なのに、記憶にある運動会はどれも夏の日差しのイメージだ。


 勉強も運動も中の上くらいで、目立つこともなかった自分だけど、ただ走ることは速かった。何も考えずに足を交互に出すだけ、だからかもしれない。

 おかげでと言うのか、六年間リレーの選手に選ばれた。

 リレーは最終種目。当時は昼食を挟んで午後からも競技をやっていた。周囲の家族がスーパーで売っているような、見栄えの良いオードブルを真ん中に、お寿司やピザをつまんだりしているのに、うちはシンプルなタッパーに詰まった五目いなり。朝早くから揚げてくれた唐揚げは美味しくて好きだったけど、肉巻きやそのままのゆで卵の見栄えはどうしても見劣りした。


「どうせそんなに食べないじゃない」


 合理的な母の言葉ももっともだし、チーズと枝豆の入った肉巻きは好物だったから、昼食としては文句はなかったのだけど、見栄を張りたい年頃の少年は、華やかな食事風景が羨ましかったのだ。



 * * *



「そんで、デザートはバナナなんですよ。周りのうちのイチゴやサクランボが羨ましくて!」

「そりゃ……まぁ、今の子は、そうだよなぁ」


 くっくと笑う店の主人は、深い皺の刻まれたちょっと強面の爺さんだ。見た目よりはずいぶん穏やかで、料理の腕もいい。ビルに囲まれた立地と、ボロボロの外装じゃなければ、もっと繁盛しているに違いない居酒屋なのに。

 まぁ、客も少ないから、外食を控えましょう、なんてご時世にも気軽に足を運んでこられるのだが。今日の客は自分と奥の席の作業服のオヤジだけ。次に来た時、看板が無くなってやしないかと、いつもヒヤヒヤする。


「俺んときゃあ、バナナなんて飛び上がって喜んだもんだが。今じゃあ南の果物も簡単に手に入るもんなぁ」

「源さんがマンゴープリン作ってるかと思うと、感慨深いっすね」


 壁に貼ってある、新しい短冊に書かれた達筆なマンゴープリンの文字は少々異彩を放っている。指差せば、店主は苦笑した。


「最初は土産に持って帰りたいっていう奴がいてな……余ったのそいつに食わせてたら、意外と甘いの好きなジジイも多くてよ」


 くぃと顎で指されたのは、小学生くらいの少年。なにやら訳ありで源さんに預けられたらしい。俺は初めて顔を見る。にこにこと明るくて、店が面白いのか、あれこれ手伝おうと奮闘している。今はマンゴープリンを与えられて、座ってろと窘められたところだった。


「お前さんも食べるかい?」

「ああ……いや、今日はやめとく。それよりさ、源さん。俺、今度リレーマラソンに参加することになってさ……」


 「へぇ……」と返事をしつつ、源さんは俺の背後に視線を向けた。誰か客でも来るのかと思ったが、ガタガタいう引き戸の開く音はしない。すぐに視線は戻ってきた。


「マラソンってぇことは結構距離あるのかい?」

「そう。市民大会なんだけど、二十キロを四人で。成り行きっつーか、家にいる時間増えたら太ってきて。やべぇってランニング始めてみたんだよ。金かかんないし? ひとりでできるし? したら、同じ時間帯に走る人と話す機会があって……なんか、そういうことになってた。リレーなんて高校の時以来だし、距離もあるし不安もあるんだけど……ちょっと、ゲン担ぎに食いたいものがあってさ。源さん、そういうのも聞いてくれるって?」


 もう食べられない、懐かしい味を再現してくれる。常連になれば、そういう注文も聞いてくれる。この店にはそういう噂もあった。そのために常連になったわけじゃないし、同じ味を望むわけではないけど、と、少しドキドキしながら源さんを窺った。

 ふむ、と腕を組んだ源さんは、少々目を細めて軽く微笑んだ。


「何でも、は出来ねえんだが……まぁ、お前さんの注文なら大丈夫そうだ」


 まだ何を作ってほしいか言ってないのに、と少し不思議に思いながらも、常連の好みくらい彼なら把握してるのかもしれない。


「マジか。え。俺、作り方とかは知らねーんだけど」

「まぁ、言ってみろ」

「あ……うん。五目いなりと、肉巻き。肉巻きは中にチーズと枝豆が入ってて……」


 源さんは何故か笑いをかみ殺しているような顔をしている。別に、変な注文じゃないよな?


「わかった。やってみる。いつ取りに来る?」

「うん。大会の前日がいいんだけど……五月の末頃。えっと……」


 スマホでスケジュールを確認して日付を伝えると、源さんは大きく頷いた。


「弁当くらいの値段になっかな? それでいいか?」

「え。そんなんでいいの? もっと取んなよ。店無くなってないかといつもヒヤヒヤすんだよ」

「ボロで悪かったなぁ。大丈夫だ。その代わり、また贔屓にしてくんな」

「そりゃ、そうするけどさぁ。んじゃ、もう一杯!」

「うるせぇ。今日はもう仕舞いだよ。帰った帰った」


 奥のおっさんはまだちびちび盃を傾けてるっていうのに。走る話をしたから、体を気遣われたようだ。落ち込んで酔いたいときは黙ってそうさせてくれる。そういうところが、この店がまだある理由なんだろう。

 渋々と席を立つと、少年の涼やかな声が「ありがとうございましたー!」と追いかけてきた。手を振る少年に、手を振り返す。今度、彼にも甘いものをご馳走しよう。

 店を出て大通りを歩いていると、一緒に走る彼女から通知が入った。

 ……まだ、そういう意味の“彼女”ではないんだけどさ。いつか……近いうちに、源さんの店に一緒に行けるといいと思ってる。



 * * *



 しみっしみのお揚げに、酢は控えめの五目御飯。椎茸、人参、蓮根、鶏もも肉も少し入ってる。仕上げに白ごまを。

 肉巻きの方は豚ロースに塩胡椒、ゆでた枝豆と角切りにしたモッツァレラチーズを巻いていく。仕上げはギュッと握るようにして、巻き終わりを下に焼けばいい。

 チーズは好みでプロセスでもとろけるチーズでも。

 うちではモッツァレラが一番評判良かったわ。


 割烹着を着て、腕まくりをした中年女性は、快活に笑った。

 源三の隣で細々と指示を出す彼女は、本当は自分が料理したくてうずうずしているらしい。自分の息子がリレーに出ると聞いた時、彼女は嬉しそうに彼の後ろに立った。注文を受けた時にはもう割烹着を着込んで、気が早いったらありゃしない。


『高校最後のリレーを見損ねたのよ。それからはまともに走らなかったし……あの子、自分で思うより走ること好きなの。ゴールした時、いい顔するのよー』

「いちごやさくらんぼも入れてあげればよかったじゃない」


 ふさふさの耳に先の白い太めの尻尾をつけた少年(源三にはそう見える)が、カウンターの向こうから覗き込んでいる。今にもよだれが垂れそうで、源三はその頭を押しやった。


『それ入れちゃうと、バナナなんて食べてくれないじゃない。どうせ走るなら、勝たせてあげたいでしょ? 前を走るライバルをごぼう抜きにすると、観客総立ちでね。でもきっと、あの子にはその声援も聞こえてなかったんだろうなぁ』

「バナナで勝てるの?」

「消化が良くて、力になりやすいんだよ。唐揚げも胸肉だったろ?」


 女性は微笑んで頷いた。

 揚げ物ばかりで胃もたれしそうなオードブルは、分かっていても食べさせたくなかった。できるだけいいコンディションで走らせてあげたい。

 あれは、そういうメニューだ。


「長距離になると、普段のメニューも変わってくるんだろうが……それは新しいが教えてくれるんだろ」


 今回は本当にゲン担ぎの意味合いしかないかもしれない。

 それでも息子への応援がたっぷりこもったお弁当は、きっとどこかで力になるはず。


「うぇぇ……すごいんだよ、源さん。キラキラで、眩しいくらい」

「こら。よだれ!」


 ちぎれそうなほど尻尾を振っている少年に喝を入れて、源三はため息をつく。

 源三の作る食べ物に込められた『想い』を、彼らは糧にするらしい。そういう特別な品は金色に輝くというのだが、人ならざるものを視る源三にもそれは見えない。

 この店を潰さないようにと、時々客を連れてくる彼らの思惑はそこにあるというのに、どうにも憎めないでいるのは、自分もに近づいているからなのか。それとも、料理というもの自体に魅せられているのか。

 出来上がったいなりを一つ皿に乗せて、飛び上がるように椅子の上に正座した少年の前に置く。食べる前から笑顔で、一口含めば震えるほど幸せそうだ。そんな顔を拝んでしまえば、他のことなどまあいいかと思ってしまう。


 源三は使い捨てパックに詰めたいなりと肉巻きの横に、バナナを一本置くのだった。




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作中参考食品:五目稲荷、枝豆とチーズの肉巻き、鶏胸肉のから揚げ、ゆで卵、バナナ

運動会の昼食。今では寿司やピザやオードブルを届けてもらうこともできますね。ある地域ではそうめんが定番とか。現在は午前中で終わらせる学校も多いので、延期にハラハラしなくてよくなったのかもしれませんねぇ。

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