4 赤い着物の女

 狐っ子がやって来た数日後、源三は奥の席に座った赤い着物の女におしぼりとお茶を出しながら話しかけてみた。

 いつもは形だけのやり取りだけで、天気の話もしたことがない相手だ。


「お前さん、狐っ子にここを紹介したのかい?」


 女は口元に艶めいた笑みを浮かべて目を細めた。


「おや。どうしてあたしだと?」

「うちに通ってる『姐さん』といえばお前さんしか浮かばねえ」

「やだよ。女性客は他にもいるじゃないのさ」

「普通の客はな」


 指摘してしまうことが、いいことなのか悪いことなのか、源三には判らない。

 とにもかくにも、他に客のいない今は好機だと思ったのだ。それに、たまに他の客と話すのを漏れ聞いて、知ったこともある。


「失礼だねぇ」


 女はコロコロと笑って、「ひと肌で」と酒を注文する。

 源三は黙ってカウンターの中に戻り、燗をつけると、お通しと共に再び彼女の前に立った。


「隣のビルの四階。スナックで働いてるんだって?」

「そうだよ。おかしいかい?」


 さらりと肯定されて、源三は少しだけ口ごもった。おかしいかと問われてみれば、何を基準にのかわからない。

 女は酒を注いだ猪口を口元まで持ち上げて、舌先で舐めるように酒を掬った。


「この業界はあたしらには合ってる方さ。中には一般企業でどろどろの人間関係を糧にしてるやつもいる。お金を稼げれば、こうして合法的に美味しいものも食べられるしね」


 お通しの小松菜の白和えを綺麗な所作で口に運ぶと、女はにっこりと笑う。


変化へんげの上手くないやつらの中には、すっかり消えちまったモンもいる。こちらだって案外大変なんだよ? どうにか上手く住民票を手に入れられるのはごくごく一部だ」

「そうやってこちらに潜り込んで、どうしようってんだ」


 やれやれと彼女は肩をすくめた。


「どうもこうも……あんたら風に言えば、『生きていくため』だよ。源さんは店をやめて年金をもらってのんびり暮らさないのはなんでだい? もう働かなくたってよくたって、生きているうちは早く死のうとは思わないだろう?」


 うーん、と源三は腕を組む。


「紛れ込んでいる輩は、だいたいが波風立てないようにうまくやってるよ。ここに通ってるモンは特にね。解ってるから、ここまで見逃してくれてたんじゃないのかい?」


 見逃していたというよりは、関わり合いになりたくなかったからというのが大きかったが、確かに他の客に迷惑をかけられていたなら追い出していただろう。


「あの子は親と大きい公園に住んでたんだけどね。親が、肝試しで騒ぐような若者グループに絡まれて、うっかり噛みついちまったのが運の尽き。駆除の対象になって、子供だけでもと逃げ出して。人が多いからだろうね。繁華街に紛れ込んできては、ふらふらと危なっかしかったから、お節介をね……まぁ、いきなり高級品を食べさせてもらえるとは、思ってなかったけどねぇ」


 女が拗ねたように口を尖らせて、源三に流し目して見せたので、源三は小さく鼻で笑った。


「こっちはあまりもんを出しただけだ。喜ばれることじゃねぇ」

「なら、あたしにも出してほしいねぇ」

「仔細を聞いたら、タダじゃ出せねえな」

「なんだい。ちゃっかりしてるね」

「弱った子供に出すのとは違うだろう?」


 んふふ、と笑って、女はお猪口を傾けた。


「そういうところ、あたしが見込んだ男だねぇ」

「勝手に見込まんでくれ」

「はいはい。じゃあ、まあ、悪さをしそうな輩はこの店に来られないようにするよ。だから、顔を覚えてるくらいの常連には時々サービスしてやっておくれよ」

「あんたは?」

「あたしは店でも上手くやってるからね。たまにしか来ないし、まあいいよ。そもそも、ここに通ってくるようなのは、人に紛れていても不器用でギリギリでやってるやつらなのさ」


 源三が疑い深そうに片眉を上げた時、店の引き戸がガラガラと音を立てた。


「源さーん。ビールと焼き鳥!」

「……おう。毎度」


 馴染みの顔に、身をひるがえしてカウンターの奥へと戻る。女はすっかり気配を消して、ちびちびと手酌で酒を舐めていた。



 * * *



 パタパタと、狐の少年は空いた皿やグラスを下げている。

 おとなしく座っていろと言われたそばからちょろちょろと動くので、客も面白がって注文を増やしていた。


「こういうのが面白い時期だもんなぁ。いいじゃないか。どうせなら、後継ぎとして仕込んじまえばいい。な?」


 うんうんと尻尾を振りながら無邪気に頷く少年に少々呆れて、源三は渋い顔をした。


「俺ぁいつまで仕事をさせられるんだよ? 無理が祟ってくたばっちまわぁ! それに、そいつは預かりもんだ。仕込む気はねえよ」

「そうなのか? いい子なのに、もったいないなぁ。そういえば、息子だか孫だかが料理の道に入ったって言ってなかったか? どうなったのよ」

「料理と言っても畑違いよ。予定通り、俺一代で店は閉めるよ」

「なんだよ……寂しいなあ。おい、坊主! うんとお手伝いして、源さんを長生きさせてくれな!」


 わかったと真剣に頷く少年。

 毎日現れるわけではないが、少年が店に来ると、確かに新しい客が来たり、こうして一品多く注文してくれる客が増える。店に貢献してくれているのは確かなようで、来るなとも言いづらい。

 何より、ふわふわの耳や尻尾に愛着が湧いてきていて、乱れていると直したくなる。他の客に見えていないのはわかっているつもりだが、ホームセンターのペット用品コーナーをうろついては、いやいやと自分を窘める源三だった。


 皿をカウンター台に乗せた少年は、口を結んでいる源三を見てにこにこと笑う。その耳の毛が一束乱れてぴょいと飛び出していた。

 源三は、なんだかもう、しょうがねえなぁ、と苦笑して、やっぱり近いうちにペット用のブラシを買いこもうと、汚れた皿に手を伸ばすのだった。




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