2 うちの味 (お題:おうち時間)
「いやっ、悪いね。手間かけさせちゃって!」
「いいってことよ。また『ていくあうと』してくれんだろう?」
にやにやと、源三は英単語を一語一語明瞭な日本語の発音でそう言った。
感染力の強い新しい感染症が流行ったせいで、店内の客は皆無に等しい。
それでも、気にかけた常連たちが、おでんを家で食べたいと寄ってくれて、なんだかんだと同じくらいの売り上げをキープできていた。
ちょっとだけ上気した男の頬は、一杯だけ頼んだビールのせいではないらしい。
源三の差し出す風呂敷包みを視線で撫でて、そわそわとメニューの書かれた木札と行き来する。
「気ぃ使わんでいいから、
へへっと笑うと、男は勢いよく腰を上げた。
「わりぃな。ホント、またくっから!」
おうおう、と鷹揚に返事をして、源三は男の姿が引き戸の向こうに消えて行くのを見送った。戸がきちんと閉まってから、一口残ったままのビールジョッキを片付けようと手を伸ばすと、一瞬先に子供の手がそれを持ち上げる。にこっと笑った少年のその後ろ、引き戸の前で丁寧に頭を下げる年配女性の姿が、すぅっと消えた。
* * *
風呂敷なんて、今時注目を浴びるのでは? と、少し心配していた男だったが、それなりに混み合う地下鉄内で、男の手元に興味をはらうものはいなかった。黒地に黄土色の縁取りのシックな色合いも、小袋風に持ち手があるのも良かったのかもしれない。コンビニでもただではビニール袋をくれない時代だ。派手な袋を持っている人も珍しくない。
家に帰り着き、手早くシャワーを浴びて、男は冷蔵庫からとっときの缶ビールを取り出した。タッパに入ったおでんはそのままレンジに突っ込もうとして、慌ててたまごだけ別皿に移す。
出汁がしみてあめ色になった大根。結ばれた昆布と白滝。はんぺんはまだ白々としているが、色が変わって端が崩れるほど煮込まれた物は売り物に出てこない。日を空けずに通っていた頃ならば、男のためにわざとそういうのを残しておいてくれたものだが。
おでんが温まるまでに、男はもうひとつ、プラスチックの折に入った茶色い食べ物を取り出した。少々いびつな小判型で、表面に四角い網目のでこぼこがついている。
記憶の中の物と寸分違わないようで、男の顔に笑みがこぼれた。
「手元にある材料じゃ、そっくり同じにはできねぇが、それでもよけりゃぁ」
源さんはそう言ったが、どうして。詳しいことは何一つ伝えていないのに。
後でゆっくり、なんて思っていたのに、つい、三つ入っているうちのひとつをつまみ上げていた。
一口齧りついたとたん、男の目の前に実家の食卓テーブルが見えた。「こら! 手を洗ってから!」そう、怒る母の声も。
ピーピーとレンジの音に我に返って、男はしばらく口の中の物をゆっくりと咀嚼した。
弾力のある餅状の生地の中に胡桃の歯ざわり。香ばしい甘さ。確かに少し違う気もする。でも、よく似ている、と思う。
単身赴任三年目。何より、両親はそれより前に儚くなっている。本物の味など、覚えていないかもしれないのだ。家の数だけレシピのあるような郷土のおやつを、これだけの精度で再現してくれるなんて……
「すげぇ……」
なんだかわからないが、男の目じりに涙が滲んだ。
おでんとビールを手元に、男は上機嫌で画面の中の妻と子供に話しかける。移動も制限されているので、息子に忘れられないためには必要な日課だった。もちろん、タイミングが合わずに、スマホのアプリで会話するだけの日々が続くこともあるのだが……
画面いっぱいの息子の顔も、今日はいやに可愛く見える。妻は相変わらず時々画面の外に消えたりするけれど。
『ヨシくん、もしかして酔っぱらってる?』
少し棘のある声が子供の陰から聞こえてくる。
「ちょっと? 旨いおでんの店があってさ。テイクアウトしてきた」
『前はよく行ってたとこ? いいなぁ。私もおでん食べたいな。こっちもね、美味しいケーキの店見つけたんだけど、雲行きが怪しくて。無くならないといいなぁ』
ほら、ほら、とスマホで撮った写真を画面に向ける。
綺麗にカットされ、盛り付けられた見た目も美しいケーキの数々。きっと味も値段も高級に違いない。妻はそういうものを見つけるのが上手い。
(でも、あの店には連れていけないな。食べさせるなら、テイクアウトの方が良さそうだ。)
店のボロボロの外観を思い出して、男は苦笑する。
先輩に誘われて行った居酒屋は、廃墟かと思うくらい古くて驚いたけど、そこで食べる料理はどれもほっとする味がした。常連になれば、もう食べられなくなった想い出の味にありつける、なんて噂があって、だからという訳じゃないけれど、ついつい足が向いたのだ。
付き合っていた頃から、妻はスタイリッシュで映えるものに敏感で、そういうところに惹かれたし、影響も受けてきた。
だけど、一人で暮らしを始めて出来合いの物ばかり食べるようになると、なんだか無性に母の作ってくれた「きりせんしょ」が食べたくなった。こちらでは、「くるみゆべし」は売っていても、「きりせんしょ」は見かけたことがない。
別に特別に旨いという訳ではない。見かけだって地味で素朴。ただ、自分に染みついた味だったのだとようやく自覚した。
子供の頃も、高校生になっても、食卓テーブルの上に置いてあれば必ずつまんで口に入れた味。サッカーの試合を見ながらビールを飲む父親のつまみの横に添えてあれば、こっそり奪って食べた。「お前、おやつに食べたんだろう?」なんて苦笑いする父親に、ただ笑って自分の部屋に戻る。そういう、団らんっぽい何かの象徴だったのかもしれない。
だから、なんだろうか。今、家族と(画面越しにではあるが)向き合いながらビールの横にそれがあるということが、男には無性に嬉しかった。話題なんて何でもいいし、何なら黙っていてもいい。
画面の向こうで「喉が渇いた」と騒ぎ出す息子に、男の妻は「はいはい」とまた画面から消える。にこにこと見送って、男は風呂敷包みの中にまだ何か入っていることに気が付いた。
――紙?
レシートだろうかと、つまみ上げてひっくり返す。そこには達筆な字で『もち粉○○g、うるち粉○○g』などと書かれていた。くるみに胡麻に黒砂糖に醤油。きりせんしょのレシピだと、男はすぐに気が付いた。
間違って入ったのか……いや、と彼は首を振る。あそこの店主はそんなへまをしそうにない。
男はそれを大事に手帳に挟み込んだ。
そろそろ家に帰れるタイミングもあるだろう。妻が作るなら、凝った花の形なんかになるのかもしれない。同じ味は望んでない。うちの味を食べてみたい。
画面の向こうから聞こえてきた泣き声をBGMに、男はビールをぐいと傾けた。
* * *
「うわぁ……これも、いいお味」
うっとりと、ランドセルが似合いそうな少年が頬染めながら歓声を上げた。源三にはふさふさの耳と尻尾が見えているのだが、一般客には普通の少年に見えるらしい。親戚から預かった子、ということになっている。
「おうちで母さんの膝枕でうとうとしてるような気分」
「たまたま米が手に入りやすい品種だったからな。そこそこは似たはずだ」
「そこそこ? あのお母さんも、作るたび味は違ったって言ってたじゃない。だから、きっとこれで正解だよ」
「目分量でやってたみたいだからなぁ……」
『想い出の味』を作るには、作っていた本人の協力が不可欠だ。
家庭の味は店での作り方と違うことも多い。料理好きだった者は、たいてい喜んであれこれ教えてくれるのだ。話が通じるのが嬉しいらしい。
そんなことが高じて、『想い出の味』はすっかり裏メニューになってしまった。作れるものに制限がある理由をうまく説明できないので、特に宣伝したことはないのだが、いつの間にやら噂は広がっていた。
それをまた、どういう訳か狐狸妖怪の類が聞きつけて、源三の店に代わるがわるやって来るようになった。彼らは人々の『心の動き』を糧にするのだという。『怒り』『哀(悲)しみ』『驚き』『愛情』等々。源三が作ったものには、そういうものが練り込まれるのだと。
「最近、お客が減っちゃって、力も減りかかってたから、ホント良かった!」
「残りもんは食ってただろうが」
「普通の料理で賄えるのは、形を維持するくらいだよ。こうして変化するには足りない足りない!」
「無理に変化しなくとも……」
「ダメダメ! 狐は商売の邪魔になるでしょ! 僕は、手伝いたいの!」
いつの間にか入り浸っている狐の少年は、源三の店を守るのだと張り切っている。狐は病気を媒介するので、こと飲食店では可愛くとも歓迎されない。
今回の依頼は、客より先に母親の方から頼まれた。狐の少年が甘いものを食べたいと口にしたから、たまたま居合わせた彼女がレシピを教えてくれたのだ。
その後、彼から電話でおでんの持ち帰りを打診された際に、「こんなのは出来るだろうか」と、おずおずと注文が入って源三は驚いた。どこかで以心伝心したのか、狐っ子のおかげか。
「……ありがとよ」
それでも、大っぴらに子供を働かせるわけにもいかないのだよなぁ、と、源三は苦笑するのだった。
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作中参考食品:きりせんしょ
岩手県県央部で主に食される餅菓子。お祝い事(桃の節句や結婚式)で家族総出で作られるらしい。気軽なおやつ的感覚は花巻の方がぴたりときそう。
参考にしたレシピは盛岡のもの。
作者はくるみゆべしが好きなので、きっとこれも好き。
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