寒傷に浸りながら
紫鳥コウ
寒傷に浸りながら
あの枯れ木のようにいりくんでいた憂鬱は、マフラーの隙間にはいりこんでくる冷え切った風を受けて凍ってしまっていた。ここ数日のぼくの気持ちは、小石を川面に落としたときのように、一瞬だけ飛沫が飛び散ったあとはただ静まりかえって気ままに沈んでいく一方だった。煙草の吸いさしを用水路に
式場の二階の広間はあらゆる汚濁から逃れたかのように清潔ながら、決して快い気分を与えるものではなかった。残りわずかになった弁当とペットボトルのお茶を手に取り、空いている席を探した。もうだれも死んだ祖父の話などしていなかった。
一夜のうちに作られたこの休憩所は、彼の死に対する抵抗であふれていた。だれひとり平静を装うことを隠そうとしていなかった。青い沈黙の月夜のたもとの街灯のように、不意に暗に侵されないよう警戒しながら陽が昇るのを待っていた。
対してぼくの心情は、杭が外れてすっかり縄がたゆんでしまっていた。空腹は虚勢をはらずとも感じていたし、隣の席の人物を選ぶための余裕すらあった。よってぼくは陽の外れにあるテーブルの角から二番目のパイプ椅子に腰を下ろし、輪ゴムを解いて弁当のふたをはずした。
焼き鮭を割り箸で圧すと、なまなましいぬめりを肌の裏が感じとった気がした。それはおそらく、焼かれる前の鮭の感触だと思われるが、こうした幻覚は、ここのところのぼくを何度も困らせていた。
ぼくの右横には滅多に顔を見ることのない親戚のだれかが、不機嫌そうな眼を遠くにいるぼくの母へと向けていた。しかし左隣の女性には、まったく見覚えがなかった。ゆえにその姿を流し目することは自然なことだった。
まず、その女性のふっくらとした唇に眼が惹かれた。その唇は少し膨らんだ鼻をどこか引き立てていて、磯辺揚げの油を拭う指が押さえつけると、見た目とは裏はらにあまり沈みこまなかった。思いだしたかのようにハンカチを取りだして指の油を取ってしまうと、その面が裏側に来るように畳んだ。下辺の花の
刺繍のほつれが見間違いであってほしいと思ったのか、彼女は顔をハンカチに近づけた。すると肩にまでかかっていたブラウンの髪が前に垂れて、顔よりも繊細な白さのある首がちらりとのぞいた。どのような蟲もそこで翅を休めることはできないであろう神聖さのようなものを、どことなく感じさせる首だった。
火葬場へと向かうバスの前から三列目に座っていると、いまはもう教師を退職した叔父がなにも言わず首だけで指図をして、ぼくを窓際へと退かせた。そして肥満ぎみの腹をつきだした叔父は、音まで凍りかけている道でひとり寒さにたえ忍ぶ信号にひっかかるたびに舌打ちをした。
窓の向こうにある夏の温もりを忘れた日本海は、いつしか鼠色の雲で塞がれてしまった空をうつして、普段の澄み切った藍の面の裏を見せていた。もう少し経てばまた雪が降りだすであろうことは知れたことであったが、これから各所へ喪中をしらせる仕事が残されていることを思うと、積もった雪がもたらす不便さよりむしろ、いまさら送ったところで年始の挨拶と入れ違いになることがほとんど自明であることへの憂いの方が強く、窓の縁にこびりついた砂の汚れがよりいっそう不潔に見える始末だった。
火葬場に着くには、まだ数十分必要だと後ろの席から聞こえてきた。そのせいか、ぼくは隣の叔父から、ぼく自身の文芸における不能を批評される宿命に晒されることとなった。ぼくは反対に、この数日のことを小説にでもして、彼の批評家としての才を世に問おうかと思ったが、あいにく火葬場に着くころには、錆び付いた刃物を振り回しただけの批評の一切れをも覚えていなかった。
先に着いていた祖母と父は、見覚えのないだれかと真剣な面持ちでなにかを話しあっていた。これからの葬儀の段取りは、明日雪が降るということほど彼らのなかではっきりとしていないらしかった。
しかしいまの空は、雪雲の隙間から夕焼けを現そうともがいていた。枯れ枝が重なって虹のようになっているその合間から、入り江に根づいた町とその向こうの日本海を見下ろした。そのうち、あの冷え切った朱は夜の帳に呑まれるだろう。そしてこの町は、星空を夢見ながら凍えに堪えんとするだろう。
寒傷に浸りながら 紫鳥コウ @Smilitary
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