第4話
DMの受信ボックスにリリシアの名前を見た時、最初はその意味を上手く理解できなかった。リリシアからの返信だと分かったら、急に全身の細胞が鋭くなったような、今まで感じたことの無い緊張感を覚えた。
『お返事遅くなってしまいすみません。大変申し訳ないのですが、今のところコラボは考えておりません』
淡白な返信だと思った。でも返信が来たことが嬉しすぎて、落胆することはなかった。これはリリシアの言葉なのだろうか、それともリリシアの主の言葉なのだろうか。どちらとも取れた。コラボはあっさり断られてしまったのだが、何故か私の中では諦めるという選択肢が少しも浮かばなかった。
『リリシアさん。ご返信ありがとうございます! コラボ、どうしても無理でしょうか?? 日付や条件はもちろん合わせます! もう一度ご検討いただけませんでしょうか?』
次の返信は早かった。
『すみません。やはりコラボはできません』
撃沈だった。理由は分からないが、リリシアはどうしてもマリカとコラボはしたくないのだろう。マリカとというよりも、誰ともなのか? 少なくともそう思いたい。とりあえずこれ以上押しても了承を得られるとは思えなかった。
『では、お会いすることはできませんか?』
勝負に出たな、と自分でも思った。心臓の音が異常なくらい早い。死ぬんじゃないかと思うくらい早い。それに喉が砂漠のようにカラカラになっていた。
返信はなかなか返って来なかった。疑っているのだろうな、と思った。そりゃそうである。逆に今にして思うと、自分はよくあっさりとユリコと会ったなと思うくらいだ。部屋の中をうろうろと歩きながら返信を待ったが、けっきょくたまらなくなってもう一通メッセージを送ってしまった。
『私は高校一年生の女子です。安心してください。決して怪しい者ではないです。変なこととかする気は一切ありません』
送った後、これは逆に怪しくないか? と思った。何が安心なのかまったく分からない。分からないだけ不気味さが増した。しかしその五分後に返信が返ってきた。
『会ってどうするんですか?』
もっともな質問である。そしてこれはリリシアではなくリリシアの主の声だ。だから私も畠田美由紀の声で話す。
『私は、マリカは、リリシアさんのことが好きになりました。それは恋愛で、という意味です。私はこの恋を叶えたいと思っています。それはマリカのためかもしれませんし、自分のためかもしれません。そもそもそれらは同じことなのかもしれません。とにかく好きなんです。どうしようもないくらいに好きなんです。恋ですから。だから、正式にリリシアさんとお付き合いしたいと思っています。正直、私もアバター同士の交際というものがどういうものなのかピンと来ていない部分もあります。デートとか、やっぱり配信上になるのかなと、多少はイメージできるところはありますが。お付き合いをして、いずれは結婚したいです。いきなりで差し出がましいですが、まずはマリカのことをリリシアさんに知っていただきたいです。まずはそこからだと思っています。マリカは私です。そしてリリシアさんはあなたです。だからリリシアさんとお付き合いするには、必ずあなたに会わなくてはならない。だからお会いしたいのです』
少しの間返信が空いたが、ちゃんと返ってきた。
『あの、気持ちは嬉しいんですけど、よく分からなくて、その交際に何か意味があるんですか? けっきょくはコラボってことですか?』
『いや、すみません。最初コラボって言ったのはあくまで取っ掛かりの話で、コラボがしたいからこんなことを言っているわけではありません。好きだから会いたいだけです』
そこで返信が途絶えた。二時間くらいの間、二、三分に一回メールボックスを確認するもリリシアからの返信はなかった。
無音の部屋の中で痛いくらい一人になる。時計を見ると二十三時半だった。「好き」という言葉を誰かに対してはっきりと言った。思えばこれが私の人生初めての告白だった。
今になってとんでもないことをしてしまったような気持ちになる。でも何か動かなければまた桜井君の時の二の舞になるだけで、それは嫌だった。そう考えるとこれで良かった、気がする。しかしいくら何でもいきなり告白することはなかったのではないか。でもじゃあどうすれば良かったのかと言われると、これしか手段がなかったのではないかとも思う。そんな今更考えてもどうしようもないことをベッドの上で積み重ねていたら、気づいたら深夜二時を回っていた。時計を見て自然と溜息が漏れた。
明日もまた学校だ。ダンスの練習が無いと、学校はただ行って帰るだけの場所になっていた。選考会が終わってから、私はまだ一度も部活に顔を出していなかった。普通の部活ならば、それは怒られることなのかもしれないが、うちの部活は少し特殊なので特に何も言われることはない。水町先輩を含め、校外試合に出るメンバーは今頃必死で練習しているのだろう。私達落選組は本番の試合の時にしっかり応援をしていればそれで問題ないのだ。そう思うと私達って何なんだろう? と思う。
部活を辞めるタイミングを完全に見失っていた。そういえば、優子ちゃんはもう退部届を出したのだろうか? あれから数週間が経つが、特に何も連絡は無い。と、いうより今後果たして優子ちゃんと連絡を取ることなどあるのだろうか。優子ちゃんとはクラスも違う。私は文系で優子ちゃんは理系だ。ダンスという共通点が無くなったら私達を繋ぐものなどもう何も無いような気がした。少し寂しくもあるがそれが現実だった。
もう一度溜息をついて起き上がる。いろいろなことを考えたので頭は疲れていたのだが、眠くはなかった。しかしこれ以上夜更かしをすると明日の朝が辛いので、無理にでも寝ようと思い電気を消した。真っ暗な部屋の中、未練がましくパソコンの画面だけが光っていた。『リリシア』とマリカの声で言ってみる。それは完全に恋する女の子の声だった。いやらしさといじらしさを、憎らしさと愛らしさを、強さと弱さを兼ねそろえた声だった。呼応するようにDMが届く。驚いた。
『今週末、梅田に十四時でどうですか?』
前と同じ喫茶店、偶然にも同じ席だった。今日は佐目田さんの方が早くて、私が店に入ったのに気付いて手を挙げる。
「また会うことになるなんて思わなかった」
佐目田さんはそう言って私に向かいの席を勧めた。今日は私から佐目田さんを誘ったのだ。
「なんでそう思ったんですか?」
「いや、何となく君は僕のことを良くは思わなかったんじゃないかなと思ってたから。実際会ってガッカリしたのだろうなと思ってたよ」
「本音を言うと、ガッカリはしましたよ」
私はそう言って笑った。
「あ、でもそれはおじさんだからとか、そういう理由でじゃないですよ」
「分かってるよ。スタンスの問題だろ?」
私は小さく頷く。
「でも、どっちが正しいとかじゃないんです」
「それも分かってる」
そう言い切った佐目田さんは本当に私の気持ちを理解しているようだった。さすがは大人だ。なのでそれ以上余計な説明はしなかった。お互い今日はケーキは食べずにコーヒーのみだった。夕暮れ時の平日、何かと慌ただしい時間のはずなのに喫茶店の中ではゆっくりとした時間が流れていた。
私は佐目田さんにリリシアとのことを全て話した。好きになってしまったこと、交際をしたいこと、そしてリリシアの主と会う約束をしたこと。佐目田さんは時折相槌を打ちつつ、私の話を最後まで真剣に聞いてくれた。リリシアのことは佐目田さんも知っていた。配信でマリカがその名を口にしたことも知っていた。でもそこに特別な感情があることまではさすがに分からなかったようだった。
私は佐目田さんに何かを言ってもらいたくて話をしに来たのではない。ただ、聞いてほしかっただけだった。私のこと、マリカのこと、そしてリリシアのこと。私の周りでバ美肉に理解があるのは佐目田さんしかいなかった。理解が得られるかも分からない中、今更他の人になんて到底話す気になれない。でも誰かに聞いてもらいたかった。誰にも何も相談せずにリリシアの主に会いに行けるほど私は強くなかった。
「本気で受肉してるんだから、その上で本気で誰かを好きになることもある」
私の話を聞いて佐目田さんは静かに言った。
「まぁ、でもあくまで理論上そういうこともあるだろうという話で、僕自身は正直言ってピンと来ていない部分もあるよ」
「ユリコは佐目田さんの恋愛感情部分を持っていないですもんね」
「そうだね。だからそんな気持ちになったことは一度も無い。僕は男で、ユリコは女だというのもあるかもしれないけど」
「性別が関係あるのかは、正直私にも分かりません。自分の理想が異性で、その理想に受肉をするのならば、性別なんてものはもはや関係がないような気もします」
「それはまさに神の領域だね。誰にだって、何にだってなれる」
私は佐目田さんの言葉に頷いた。そうだ。バ美肉とは神の領域に足を踏み入れる行為なのだ。
「今週末にリリシアに会います」
「君が思うようになるかは分からないよ」
「それでも会います」
私はもう覚悟を決めていた。いや覚悟は、佐目田さんに話して決まったのだ。
「もちろん反対はしないよ。ただ、これが普通の恋愛じゃないことは君も分かってるよね?」
「はい」
「君が望むリリシアなんてものは、本当は最初からいないかもしれない。その主がどんな想いでリリシアに受肉しているかどうか、それによってはもしかしたら」
佐目田さんは一呼吸間を置いてコーヒーを飲み、「君はもう今までのように受肉できなくなるかもしれない」と言った。
佐目田さんの真っ直ぐな目を、同じくらい真っ直ぐな目で見返す。私だってそれは分かっていた。リリシアは本当に私の思うようなリリシアなのかは分からない。もちろん主のことも知らない。今私が見ているのはあくまでリリシアの表面でしかない。でも私はマリカから拡大して、リリシアにも理想を見ている。リリシアと一緒にいるマリカを理想としてしまっている。だからもし理想のリリシアと一緒にいられないのであれば、マリカ自身も私の理想から外れてしまうことになる。理想でいられないのであれば、私とマリカのバランスは崩れてしまう。理想ではないマリカを私は受け入れられるのか? 佐目田さんはそう言いたいのだ。
私はまずは、本当のリリシアを知る必要があるのだ。それが例えどんな結果になろうとも。
それからしばらく二人とも黙ってコーヒーを飲んだ。親子ほど歳の離れた私達は、周りから見たらいったいどのような関係に見えているのだろうか? 援助交際? にしては二人とも随分と真剣な目をしている。お姉ちゃんは、今日は私達のことを見てはいないのだろうか。今の私達を見たら、少しは誤解が解けるのではないかと思う。私は、私達は真剣なのだ。みんな自分だけでは何かが足りないから受肉をしているのだ。
気がついたら眠っていたようで、カーテンの隙間からは薄く白けた朝が見えた。夜行バスの中は静かで、スマホを見ると午前五時半だった。予定ではあと一時間ほどで大阪梅田に着く。
池袋サンシャインシティを出たのが昨夜の二十二時だったので、もう七時間半もバスの中にいることになる。私は夜行バスに乗るのはこれが初めてだった。服の下に若干嫌な汗をかいてはいたものの、予想していたよりも身体は痛くなかった。それに何だかんだ思ったよりも眠れた。
高速道路の防音壁の向こうを知らない街並みがスローモーションで流れていく。そこは私の住んでいる街と地続きにある場所ではあるが、まったく別の世界なのだ。人々は違うイントネーションで語り合い、聞いたことも無い名前の電鉄が大地を駆ける。私のことを知る人なんて一人もいないのだ。本当にリリシアに会えるのだろうか? と、少し不安になった。
今夜は友達の家に泊まるから帰らないね、と池袋に着いた時にお母さんにメッセージを入れると、すぐに電話がかかってきた。
「友達って誰?」
「えっと、沢田茜ちゃん。ダンス部で一緒の」
お母さんは一瞬の間の後、「そんなまた急に」と言った。だって、急にってことにしないと変に詮索されるから、と心の中で思いながら、「明日には帰るから安心して」と明るく言ってみた。声が聞けたからとりあえず安心したのか、お母さんはそれ以上は何も言わなかった。でもいずれ嘘はバレるだろう。その時、何となくそう思った。
おおよそ予定通りの時間にバスは大阪梅田に着いた。吐き出されるようにバスから降りると、そこは未来都市のように大きなバスロータリーで、私はその迫力に圧倒された。大阪に来たのはこれが初めてなのだが、漠然と通天閣とかたこ焼きとか、そんなもっと下町的なところを想像していた。何を入れてきたわけでもないのに背中のリュックサックが重い。もうぼちぼち春になろうという時期ではあるのだが、早朝はやはりまだ寒かった。
バスから降りると急にどうしようもないくらいの尿意を感じた。思えば昨晩バスに乗る前から今まで一度もトイレに行っていなかった。もちろん大阪に着くまでにトイレ休憩で何度かパーキングエリアには止まったのだが、間違ってここに置いていかれたらどうしようという恐怖心からバスを降りることができなかったのだ。
バスロータリーの側には大きなショッピングモールと家電量販店があったのだが、当然こんな時間には開いていない。けっきょく駅のトイレを借りるしかなく、私は改札で駅員さんに断ってトイレを使わせてもらった。用を足して外に出ると、約束の時間までもう何もやることがなかった。
リリシアの主から指定されたのは梅田の地下街にある喫茶店だった。迷ったらいけないと思い、先に場所を確認しに行くと、目当ての喫茶店は意外にもあっさりと見つかった。まだ開店前だったが、アンティーク調の可愛らしいお店だった。それで今度こそ本当にやることがなくなった。
行くあてもなく辺りを歩き回っていると、大きな駅の改札の前に出た。「阪急電鉄」と書いてある。聞いたことのある名前だった。私はしばらくの間その大きな改札の前に立って、流れていく人々を見ていた。時間が経つにつれて少しずつ人の出入りが多くなる。でも今日は土曜日なので、平日はもっと人が多いのだろうな、なんて思った。何となくあの騒がしい池袋の街を懐かしく感じた。ここから池袋まで電車を乗り継いで行くとすると、いったいどれくらいの時間がかかるのだろうか。でも決して行けない場所ではないのだ。地面はちゃんと繋がっている。
一時間ほどそこに立っていると、さすがに足が疲れてきた。スマホを見ると八時前だった。約束の時間まではまだ六時間もある。とりあえずどこかで座りたいと思った。それにできれば何か食べたいと思った。
こんな朝から開いていて、午後まで時間を潰せて且つ何か食べられる場所など、マック以外思いつかなかった。そうだ、こちらではマックではなくマクドというのだ。それだけでもう異国に来てしまったかのような気持ちになる。いかに自分の世界が狭かったのかが分かる。
少し歩くと無事マックを見つけた。当たり前なのかもしれないが、私の地元のマックとメニューは同じだった。変わらない安定感とはなんと素晴らしいものなのだろう、と少し感動した。マックと呼ばれようとマクドと呼ばれようとそれは同じ存在なのだ。ハンバーガーとコーヒーを買って、二階の隅の席に座った。店内にはあまり人がいなかった。みんな、土曜日の朝からわざわざマックになど来ないのだろう。私だってこんな特別な時でなければまず来ない。
あと数時間で私はいよいよリリシアの主と会うのだ。なんだかまだ信じられなかった。多分これはもう会うまで信じられないだろう。
本当に来るのだろうか? 今更ながらそんな考えが頭をよぎった。冷静に考えたら、別に来なくてもおかしくはない。何せ顔の見えない相手との約束なのだ。反故しようと思えばいくらでもできる。それに、怖いという気持ちも分からなくはない。私だってそうだ。恋をしてはいるが、知らない人と会うことに対してまったく怖くないわけではない。
食べ終わったハンバーガーの包みを綺麗に折って、空になったコーヒーのカップに入れる。不安な思いは消えない。スマホで配信サイトのアプリを開き、マリカちゃんネルのアーカイブ動画を見た。ここ最近の連続配信もあり、いつの間にか動画数もかなりの数になっていた。過去の動画から順番に見返してみると、やはり最近の動画は少し雑な印象を受けた。やっぱり以前のようにもう少し時間をかけて作り込んだ方が良いのだろう。しかしマリカは、一貫して可愛い。そこだけは本当にブレない。
続けてリリシアチャンネルも見てみる。リリシアの動画数は増えておらず、相変わらず三のままだった。もう一カ月以上新しい配信が無かった。
『ねぇ、僕ってさ、朝は絶対ハムエッグにコーヒーなんだよね』
何度見てもこの『ねぇ、僕ってさ……』にやられる。かっこいい。この人と今日会うのだ。
今までの人生で、ヒカリちゃんのような女性アイドルに惹かれることはあっても、男性アイドルに惹かれることは一度も無かった。学校の友達がきゃあきゃあ言っていても、私には何がいいのかあまり理解ができなかった。しかしリリシアには惹かれた。イケメンではあるが、3Dのアバターなのに。改めて考えてみると不思議な話である。でもさらに考え進めると、それは私のマリカへの受肉がいよいよ魂レベルにまで到達しつつあるからだと思った。マリカとリリシアならば同じ次元にいる存在なので並列である。恋に落ちる可能性だって大いにある。そして私はもう「恋をする」という感覚までマリカに預けているのだ。逆に私に、畠田美由紀にあと何が残っているのだろうと思うくらいだ。
少し離れた席に私と同じ歳くらいの女の子達がやって来た。彼女達は皆同じ部活のジャージを着ていた。背中には知らない学校名、そしてバスケットボールクラブと書いてある。どこかに試合に行く前なのだろうか? ボールをびっしり詰めた大きな袋を足元に置いて、ハンバーガーを食べていた。時折笑い合ったりもしていたが、全体的にはどこか眠そうな感じが出ていた。
私はそれを見て、部活の校外試合がもう来週に迫っていることを思い出した。バタバタしていたのですっかり忘れていた。そして相変わらず部活にも顔を出していなかった。
もう、応援に行くのもやめようかなぁ、と思った。部員はたくさんいるのだ。私一人応援に行かなくても多分何も変わらない。そもそも今はもう「応援をしたい」という気持ちもあまり無かった。うちの学校が全国大会に行こうと例えそこで優勝しようと、私にはどうでもいい話に思えてきた。だって、別に私が踊るわけではないのだから。私の学校ではあるが、それは私ではない。そして水町先輩。私は水町先輩が踊る姿を見たくなかった。別に選考会前に言われたことで逆恨みして嫌いになったわけではない。ただ、現実世界で真っ直ぐと理想を見つめ、それに向かってちゃんと進んでいる人の姿を見るのは私としては辛い。
やがてバスケ部の女の子達は去って行った。試合頑張れ、と心の中で応援して見送ると、急に眠くなってきた。約束の時間まではまだ時間があるのを確認して、私は俯き、そっと目閉じた。
鏡に映る自分の姿がマリカだった。やった、私は本当にマリカになれたんだ、と思って喜んだのだが、少し落ち着いて考えたら、そんな上手い話があるはずがないと気付く。もう一度鏡を覗き込むと、見慣れた冴えない丸眼鏡の少女が映っていた。なんだ、やっぱ私は私じゃん、と思って溜息をつく。そんな何とも歯切れの悪い夢を見た。
薄目を開けるとテーブルの上でスマホが音を立てて震えていた。お母さんからの電話だった。
「あなた今どこにいるの?」
「だから、茜ちゃんの家だって」
「嘘、沢田さんのお宅にお礼の電話したら来てないって言われたわよ」
やっぱり嘘はバレたかと思った。お母さんならそういうことをするかもしれないということは少し思っていたのだ。茜ちゃんと口裏を合わせておこうかとも考えたのだが、今回のリリシアとの件に他の誰かを巻き込むのは嫌でやらなかった。
「ねぇ、今どこにいるの?」
「……大阪」
「大阪? ちょっとどういうこと? ちゃんと説明して」
お母さんは基本的には温和な人で、普段はあんまり怒ったりしないのだが、怒っているのが受話器口からでも伝わるくらいには怒っていた。
しかし、ちゃんと説明って、いったいどこから話せばいいのだろう? リリシアのこと? マリカのこと? それともそもそもバ美肉のこと? どこから話すにせよ、お母さんを納得させられるような説明ができる気がしなかった。
「黙ってないで何とか言いなさいよ」
お母さんは今にも怒鳴り出しそうな声で言った。とりあえず何か言わないといけないと思いつつも、何故か全然頭が回らなかった。おかしい、こんなはずではないのに、上手く言葉が出てこない。「いや」とか「あの」しか言えず話を前に進めることができなかった。
「ねぇ、美由紀」
「お母さん、ごめん」
何とか言葉を絞り出した。
「何がごめんよ。ちゃんと説明して」
「ごめん。今ちょっと無理だわ」
「無理って何よ。いい加減にしなさいよ」
私は電話を切った。本当に思うように喋れなくて、私は戸惑っていた。すぐにお母さんから電話がかけ直されてきたが、もちろん出なかった。出てもどうせ話せないのだ。三度目の着信を見届けて、私はスマホの電源を切った。
その時、店員さんが来て「空いているトレーをお下げしましょうか」と私に声をかけた。私は「お願いします」と言いたかったのだが、またしても「あの、その」と空振りのような言葉しか出てこなかった。けっきょく頭を下げて、それで意思は伝わったのだが、最後まで言葉は出なかった。何だこれは。いったいどうしたというのだろうか。もしかしたら、畠田美由紀はもう話すこともできなくなってしまったのだろうか。身体の機能さえ、もう畠田美由紀を離れようとしているのか。
いつの間にかマックにはたくさんの人がいた。人々はみんな笑い合っているように見えた。きらきらと輝いて見えた。それは私のことを笑っているようにも見えた。空になった真っ白のテーブルの上に真っ暗な画面のスマホだけが置いてある。スマホは完全に機能を停止している。どうしようも無いほどに機能を停止している。これが私の、畠田美由紀の、近い将来なのだと思った。本能で、早くここを出なければいけないと思い席を立った。
喫茶店の入り口に彼女が見えた時、自然に「あっ」と声が漏れた。
彼女は黒のシャツの上に使い古した感のある青色のアディダスのウインドブレーカーを羽織っていた。下は色の濃いジーパンで、足元は白が灰色になりつつあるスニーカー。ショートカットの茶髪は少し癖っ毛だった。見た感じ、私と同じくらいの歳頃ではないか。何の合図も決めていなかったにもかかわらず、私はその人がリリシアの主だと一目でわかった。
しかしやはり言葉が出てこない。「あっ、あっ」と言って雰囲気半分の合図を送ると、向こうも私に気付いた。
「マリカさんですか?」
私は何度も頷いた。
向かいの席に彼女が座ると、すぐに店員さんが来てメニューをわたした。彼女はそれを開くこともなく「ホットコーヒーを」と言った。
何か言わなければならない。私が彼女をここに呼んだのだ。話さなければ。気持ちを伝えなければ。私は必死で何かを言おうとしたが、「あの、あの」と言葉が詰まって先へ進めない。情け無い。いったい何をしに大阪まで来たのだ。自分の不甲斐なさに涙が溢れた。
「あの……大丈夫ですか?」
彼女が心配するように私の顔を覗き込んだ。ダメだ。これではダメだ。私はポケットからスマホを取り出して、電源を入れた。配信サイトのアプリを開きマリカちゃんネルの動画を開く。
『やっほー! マリカだよー!』
マリカの透き通った声が喫茶店に響く。何人かが私を見た。でもそれで胸の支えが外れた。大丈夫、私はマリカだ。死んではいない。畠田美由紀はちゃんとこの世界に存在している。
「すみません。私がマリカの主です。はじめまして」
言葉が出た。
「はじめまして」
そう頭を下げる彼女はまだ戸惑っているように見えた。緊張しているようだった。これは、私が頑張ってリードしなくてはならない。
「えっと、畠田美由紀です。高一です。東京に住んでいます」
「えっ、東京? それは……遠いところからわざわざすみません」
「それは別に大丈夫です」
「あの、私は佐藤祥子です。十七歳です。多分……畠田さんと同い年じゃないかと思います」
「次、高二ですか?」
「いえ、高校には行っていないので」
「そうなんですね」
同い年で高校に行っていない人に私は初めて会った。高校なんてみんな当然行くところだと思っていた。彼女、佐藤さんの分のコーヒーが運ばれてくる。
「お昼はもう食べました?」
そんなことを聞いて何になるというわけでもないのだが会話の間を少しでも埋めたくて聞いた。
「一応食べました。コンビニのおにぎりですけど。今日は昼には仕事が終わる予定だったんですけど、何だかんだけっこうぎりぎりになってしまったので」
「お仕事されてるんですか?」
「ええ、まぁ。準社員ですけど」
驚いてしまったのだが、高校に行っていないのであれば普通は仕事をするものなのだろう。リアクションを失礼に思われなかったか、少し心配になる。しかし自分と同じ年でもう社会に出て働いているとはすごい。アルバイトもしたことのない私には想像もつかない世界だ。
「どういったお仕事をされているんですか?」
「別に、普通の事務ですよ」
普通の事務というのがどのような仕事なのか分からなかったが、これ以上そこに触れてほしくないという感じは伝わった。私だってそんな話をするために会いに来たわけではない。
「関西弁ではないんですね」
「小三まで千葉に住んでたんです。だから……」
「あの、好きなんです」
時間が、一瞬止まるのを感じた。佐藤さんの顔にはっきりと驚きの感情が見えた。でも私は続ける。ここで止まってしまったらもう二度と素直になれないような気がした。
「リリシアさんのことが、どうしようもなく好きなんです」
「あなたが、好きなんですか? それとも、あなたのアバター、マリカさんが好きなんですか?」
「マリカです。でもマリカは私です」
「リリシアはアバターですよ」
「分かってます」
私は佐藤さんの目を見てはっきりと言った。
「マリカは私の理想です。そしてその理想にはあなたが、リリシアさんがどうしても必要なんです。一緒にいてほしいんです」
「なんでリリシアなんですか?」
佐藤さんはそう言って私を見返した。確かに、私の言葉は感情が先走っていて、理解をしてもらうためには言葉が足りていない。
「リリシアより、私より、たくさん動画を出しているアバターなんてたくさんいるじゃないですか。私なんて、まだ始めたばかりだし、いろいろ分からないし、配信するのも怖いし、何で私なんですか?」
「理由なんて要ります?」
自分でも思っていた以上の大きな声が出た。またも何人かが私を見たが、構わなかった。
「あなたは素敵です」
「いや、でも……」
本当に素敵です、ともう一度言うと彼女は、顔を手で覆い「ありがとう」と言って俯いた。震えていた。最初は分からなかったが、泣いているようだった。
「私は、私は、性同一性障害だった」
だったというか今も、と彼女は続ける。私はうんうんと頷いた。
「物心ついた時から惹かれるのは男の子が好きなようなものばかりで、それはまぁ、趣味は人それぞれだからそんなこともあるだろうと思ってたんだけど、でも小学校高学年になって、まわりもだんだん好きな子とか、恋的な、そんな話が飛び交うようになってきて、それで私は初めて自分が男の子じゃなくて女の子の方にそういう感情を抱いてるってことに気付いた。趣味とか、もうそういうレベルじゃなくて、心は女の子ではなく男の子なんだということに気付いた」
佐藤さんはぼろぼろと涙をこぼしながら話した。私はリュックに入れていた予備のハンカチをわたした。「使ってないやつなんで綺麗ですよ」と言うと、少しだけ笑ってくれた。でもそうすると今度は私の方が泣きそうになる。佐藤さんの儚げな笑顔が胸に刺さる。
「中学生になってからは、そういう周りとのギャップがさらに広がって、クラスの中でもどんどん孤立していった。それは私の問題なのかもしれないんだけど、私は周りと違うんだって一度思っちゃうとどんどん深みに落ちて行ってしまって、別に大したことじゃなくても友達とも話せなくなっちゃって。性同一障害って言葉を知ったのもその頃だった。そこから三年間、何とか中学は出たけど、高校は無理だった。親は進学してほしかったみたいだけど、私はどうしても無理だった」
私はさらにうんうんと頷く。気付いたら私も泣いていた。
「中学生の頃、全然友達とかはいなかったんだけど、周りのクラスメイト達が男性アイドルに夢中になってるのは何となく知ってて、興味本位で私もそれを見てみた。愕然とした。みんなは彼等を見て、カッコいいカッコいいってきゃあきゃあ騒いでたんだけど、私は違って、彼等を見て、ただただ悔しいって感情しか生まれてこなかった。何で私はこうなれないんだろうって思った。私は身体は女だけど心は男で、本当はその、テレビに映る男性アイドルみたいに男として輝いてみたいのにまったく無理で、そもそもそのスタートラインにも立ててなくて、今後そこに立てる可能性もゼロで、本気で人生に絶望した。中二くらいの時が一番酷くて、あんまり思い出したくないけど、自殺未遂みたいなこともした。バ美肉に出会ったのは中三の時。テレビか何かで特集を見て、受肉って行為を知った。自分が自分じゃない誰かになる。それがどんな感覚なのか、はっきりとは理解できなかったけど、でもそれは私の求めていたものに近くて、このまま私が私のまま生きるのはちょっと厳しいと思ってたし、死んで生まれ変わりを望むくらいなら一度バ美肉で違う誰かになってみようと思った。中学を卒業するまでにネットで必要な機材の当たりを付けておいて、中古だけど、初任給で機材を揃えた。もちろんプログラミングなんてやったことなかったから、仕事の休みの日に頑張って勉強して、それで何とかリリシアを作った。ほんと、簡単な動画をいくつか作って、今でも難しいことは全然できないけど、何とか配信して、少なからず見てくれる人がいて、コメントをくれる人もいて、すごく嬉しかった。本当に嬉しかった。でも同じくらい怖くもあった。受肉をしている私自身は何も変わってなくて、毎日、ドアを開けて一歩外に出たら世界に上手く馴染めない私に戻ってしまうから、理想と現実とが乖離してて、感情がねじ曲がってた。そんな日々が続いて、もうこんなことは止めた方がいいんじゃないかなんてことを考えだしていた頃に、あなたからのDMに気付いたの。ごめんなさい。無視してたわけじゃないんだけど、やっぱりまだ上手く扱いきれてなくて、気付かなくて」
「全然、そんなの気にしないでください」
私の顔はもう涙でべちょべちょだった。
「どうしてあなたがそんなに泣くの?」
「だって、素敵だから。やっぱりリリシアは素敵だったから。すごく素敵だったから。嬉しくて」
ひっくひっくとえずきながら言うと、佐藤さんはもう一度「ありがとう」と言った。
「受肉っていろんな考え方があるけど、私の場合は肉を受けたのは私自身の方で、私は私に無い肉をリリシアから託された。中学を出た後、リリシアがいなければ私はおそらく生きていくことができなかった。私だけでは無理だった。だから今私の本当の肉がこうしてここにあるのはリリシアのおかげだと思ってる。マリカの動画、全部見ました。あなたがどんなにマリカを大事にしているのかが、すごく伝わってきました。マリカも、あなたも、とても素敵です。リリシアは私です、私でない部分の私です。そんなリリシアをマリカが愛してくれたことを心から嬉しく思います」
テーブルの上で、私は佐藤さんの手をぎゅっと握った。彼女も私の手を握り返した。側から見ると、この人達は何をしているのだろうと思うだろう。二人とも涙でべちょべちょな顔で、女同士で喫茶店で手を握り合って。完全に危ない二人だ。でもそんなことは関係ない。私達はやっと出会えたのだ。それを泣いて喜ばない理由は無い。
けっきょく佐藤さんと別れたのは帰りの夜行バスに乗る三十分前だった。来る時にバスを降りたロータリーに私は戻ってきていた。時刻は二十二時半を過ぎていたが、さすがは都会、私の地元の日中くらいは人がいた。
結果的にリリシアとマリカは無事に交際をスタートさせた。それがどういうものなのか、未だにお互いに理解していないところはあるが、とりあえず二人は恋人同士になることができた。
佐藤さんと私は夜になるまでお互いの話をたくさんした。私は佐藤さんのドラマのような職場の人間関係の話を聞いて「そんなことが現実であるんだ」と驚き、佐藤さんは私のダンス部の選考会の話を聞いて「それはサバイバル過ぎる」と笑った。別れ際にはちゃんと連絡先を交換した。まずは一度コラボをしてみようという話になったのだが、スキルに自信の無い佐藤さんはまだ不安そうだった(私だって自信があるわけではないが)。「大丈夫、二人ならきっとできるよ」と言うと彼女は恥ずかしそうに頷き、笑った。
今私の本当の肉がこうしてあるのはリリシアのおかげだと思ってる、と彼女は言っていた。それは私も同じだと思う。今私の肉があるのは間違いなくマリカのお陰だ。マリカは私であり、そして私はマリカなのである。二人で一つで、それはマリカであり畠田美由紀でもある。現実の先に理想がある。そして理想の下に現実があるのだ。だから畠田美由紀は、消えていない。ちゃんといる。
夜行バスに乗る前にコンビニでペットボトルのお茶とおにぎりを買う。もう財布にお金はほとんど残っていなかった。私は家出とかそういうのは無理だな、と思った。別に今回も家出する気ではなかったのだが。帰ろう、と自然に思えた。
まだ誰も並んでいないバスロータリーのベンチに座ると少し気持ちが落ち着いた。昼から切りっぱなしにしていたスマホの電源を入れる。ある程度予想はしていたが、夥しいくらいの件数の不在着信がお父さん、お母さん、お姉ちゃんから入っていた。今なら話せると思い、お母さんの番号にかけ直すとすぐに出た。でもそれはお姉ちゃんだった。
「美由紀?」
お姉ちゃんは焦りと怒りを押し殺したような声で言った。いかに自分が心配されていたのかが一瞬で伝わる声だった。
「うん。お姉ちゃん?」
「あんた、何してるの? 今どこなの?」
「今大阪。でももうすぐ夜行バスに乗るよ。朝には池袋に着く」
「あのね。何してるのよ、本当に」
「何でお姉ちゃんがお母さんの電話に出たの?」
「お母さん今お風呂だから私が電話番をしてたの。ねぇ、みんなあんたからの折り返しを待ってたのよ。分かる? お父さんは今もまだ外を探し回ってるんだからね。あんた、本当にみんな心配したんだから」
お姉ちゃんの声からは抑えようとしても怒りが滲み出ていた。うん、それでこそ私のお姉ちゃんだ。申し訳ない気持ちはもちろんあったが、これで家に帰れるという安心感もあった。
「日付が変わっても連絡なかったらマジで警察に届けようと思ってたんだからね。お父さんとお母さんは始発で大阪行くつもりで荷造りもしてたし。自分が何したか分かってんの? あんたまだ高一なんだよ」
「ごめん」
本当に申し訳ない。謝ることしかできなかった。お姉ちゃんが「はぁ」と大きな溜息をつく。私が全面的に悪いと思っていることが伝わったのか、お姉ちゃんもそれ以上私を責めるようなことは言わなかった。
「とにかく、早く帰ってきなさい」
「うん。ごめんね」
お姉ちゃんが電話の向こうで分かったから、と悪態をつく。
「あのさ、お姉ちゃん、一つ聞いていい?」
「何?」
「今でもヒカリちゃんは好き?」
「はぁ? 何よ、こんな時に」
「こんな時だから聞いてるのよ」
お姉ちゃんは電話の向こうでもう一度大きく溜息をついた。
「まぁ、そりゃ好きよ。今でもたまに昔の動画見返すくらいには」
「え、そうなの? なんだ。良かった」
笑ってしまった。お姉ちゃんは変わってしまったわけではなかったのだ。こんな簡単なことを何故ずっと聞けなかったのだろう? もっと早くに聞いておけばよかった。人は皆、どんな形であれきっと理想を捨てない。
その時、池袋行きの夜行バスがロータリーの角を曲がって来るのが見えた。
「バス来たから切るよ」
「分かった。気をつけてね。まっすぐ帰ってきなさいよ」
「うん。おやすみ」
それでお姉ちゃんも「おやすみ」と言って電話を切った。巨大な生物のようなバスが私の前に停まる。プシューっとひれ伏すような音をたてて車高が沈み、ゆっくり扉が開いた。気がつくと後ろには何人か人が並んでいて、私はバスに乗る列の先頭にいた。確かな足取りでバスのステップに足を踏み出す。まだ誰もいない空っぽのバスに乗り込む。一人じゃない私はみんなが待つ私に帰っていく。少し眠い。明日の朝には池袋に着く。
受肉 @hitsuji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます