第3話

 改札をくぐり外に出ると池袋は相変わらず人が多くて、地下街の空気を薄く感じた。最寄駅から電車に乗って二十分ちょっとではあるが、私にとって池袋は永遠に近くて遠い街だ。

 地下街を抜けて地上へ出てもやはり人が多い。私は一人サンシャインの方へ歩き出す。池袋に来るのは中二の時に友達と遊びに来た時以来なので二年ぶりだ。その時は確か映画を観てプリクラを撮った気がする。

 ユリコに指定された喫茶店はすぐに見つかった。何だかお洒落な店で、入り口に置いてある看板のメニューを見るとコーヒーが五百円もした。普段は食堂で百円のパックのコーヒーを飲んでいる私にとっては破格の値段だった。前にユリコが配信で三千円のモンブランを紹介していたことを思い出す。足を踏み入れることが躊躇われたが、待ち合わせの場所はここなので入らないわけにもいかない。

 勇気を出して中に入ると、すぐにウエイターさんが空いている席を案内してくれた。「メニューをどうぞ」と微笑むウエイターのお姉さんは綺麗で、ゆるいパーマをあてた茶髪、手首には細い銀のブレスレットをしていて、大学生のアルバイトなのだろうなと思った。おそらくお姉ちゃんと同じくらいの年頃だろう。メニューを受け取って中を見てみたが、どれも自分の中の相場よりもはるかに高く、何だか怖くなってすぐに閉じてしまった。机の上に定期券とスマホを並べて置いた。これがあらかじめユリコと示し合わせていたお互いを認識するマークだった。

 しかしいくら待ち合わせ中とはいえ何も注文しないでただ喫茶店に座っているのは気まずいと思い、メニューの中で一番安いブレンドコーヒーを注文した。ブレンドコーヒーはさっきのお姉さんがすぐに持ってきてくれた。「ごゆっくり」と微笑みかけられ、反射的に頭を下げる。本当に綺麗な人だ。お姉ちゃん負けてるぞ、なんてここにいないお姉ちゃんを引き合いに出して勝手に残念な人にしていた。

 お姉ちゃんもあの人みたいにどこかでアルバイトをしているのだろうか。大学生なのだから、多分そうなのだろう。思えば私は最近のお姉ちゃんのことを何も知らない。昔は持ち物の一つまで何でも知ってたのになぁ、なんて思いながらブレンドコーヒーを飲む。苦かった。

 約束の時間から十分後、ユリコは唐突に現れた。

「マリカちゃんだよね? ごめん、お待たせ」

 そう言って私の前の椅子を引いたのは黒のコートを羽織ってネクタイを締めたサラリーマン風の男の人だった。白髪混じりの短髪で、さすがにお父さんよりは若いとは思うが、それでも四十歳は超えているのではないか。正直、ユリコからこの人物像は想像していなかった。彼は、ユリコは、私を見て「思っていたより若いね」と言った。お互い様だが、少し驚いているような感じだった。

「今十六です。高校生です」

「高校生なんだ。ヒカリちゃんの影響を受けてるって言ってたから二十代半ばくらいかと思ってた」

「あ、ヒカリちゃんは小学生の頃大好きで……」

「そうなんだ」

 そう言って彼はメニューを私にわたして「何でも好きなものを頼んでいいよ」と言った。私は「大丈夫です」と一度は断ったが、「ここのレモンケーキはすごく美味しいよ」と言われ、この場合断る方が失礼なのかと思い「じゃあそれでお願いします」とお言葉に甘えてしまった。

 レモンケーキも注文してからすぐに出てきた。小皿に乗ったシャープな切り口の薄黄色のケーキを見て、前にユリコチャンネルで紹介されていたものだと気付く。食べてみると確かに美味しかった。何というか、上品な味だった。

「美味しいでしょ?」

「美味しいです」

 私はレモンケーキに視線を落としたまま頷いて答えた。彼は満足そうに「良かった」と笑う。スイーツ好きなところは私の知っているユリコとダブる。しかしその二つの像は私の中でまだ完全に重なりはしなかった。

「自己紹介が遅れたけど、佐目田悟です。四十五歳の会社員で、ユリコの主です」

 そう言って佐目田さんはにっこりと笑った。感じの良い人だなと思った。

「畠田美由紀です。十六歳の高一で、マリカの主です」

「高一って、若いのにすごいね」

「いや、それほどでもないです」

「配信に使う機材は自分で買ったの?」

 私は機材を手に入れた経緯を佐目田さんに話した。佐目田さんは「へぇ、なかなかやるね」と感心していた。あまり考えたことがなかったが、私くらいの歳でバ美肉をやる人は少ないのだろうか。

「正直言ってこんなおじさんが出てくるとは思ってなかった?」

「二十代くらいの女の人かと思ってました」

 そう言うと佐目田さんは吹き出すように笑った。

「それなら上手くいった。いや、ごめん。別に騙すつもりじゃなかったんだけど、君がユリコにちゃんと女性を見てくれたことは僕にとっては喜ばしいことだから」

「はぁ」

「マリカちゃん、マリカって名前は何から付けたの?」

「マリカは……小さな頃に見てたアニメのキャラクターから取りました」

 不思議少女マリカ。幼稚園の頃だろうか、あまり流行ってはいなかったが私は好きだった。

「そっか。ユリコは僕の昔好きだったアイドルの名前から取ったんだよ」

 確かに何とかユリコというアイドルが昔いた気がする。顔ははっきりと思い出せないが、私の親世代のアイドルだ。

 佐目田さんは少し微笑んでブレンドコーヒーに口をつけた。その様子は何だか様になっていて、大人だなと思った。私はそうなんですね、と言ってレモンケーキを切り取り口に運んだ。甘酸っぱい味が口の中に広がる。ほのかに蜂蜜の匂いがした。

「何で私に会ってみようと思ったんですか?」

「同じように活動をしてる人と話してみたいなってずっと思ってたんだよ。ほら、アバター同士でコラボしたりはあっても主同士が繋がることなんてあまり無いでしょ? で、マリカちゃんの配信は僕は本当に好きで、どんな人がやってるのかずっと興味があったんだよ。だから一度会ってみようと思って声を掛けさせてもらったの」

 そうですか、と言いつつ、話せば話すほど佐目田さんはちゃんとした大人の男の人で、この人が本当にあのユリコなのだと、私はどんどん信じられなくなっていた。当たり前なのかもしれないが、話し方もテンションもユリコとはほど遠い。

 何故こんなちゃんとした大人の男の人が女性のフリをして配信をする必要があるのだろうか。実際に会うまでは私(畠田美由紀)みたいなのがマリカの主で幻滅されないかということばかりを気にしていたのだが、今はユリコと佐目田さんに対する疑問の方が大きかった。でもその疑問をストレートにぶつけるのは憚られた。初対面だし、佐目田さんは私よりもずっと歳上の人なのだ。

「畠田さんは何で配信を始めたの?」

「それは……理想になりたかったからです」

「理想ってのは、ヒカリちゃんのこと?」

「えっと、ヒカリちゃんのような存在って意味ですね。ヒカリちゃんそのものではなくてヒカリちゃんのように可愛い新しい存在っていうか」

「なるほど。分かるよ。畠田さんのその想いはマリカちゃんにしっかり出てると思うよ。オマージュしつつ、新しい存在ってのは配信をいつも見てるからすごくよく分かる」

 その言葉は嬉しかった。一方でこの前の水町先輩みたいに「でも」と落とされるのではないかという恐怖もあった。しかし今日はそんなことはなく、佐目田さんはマリカの良いところをたくさん褒めてくれた。私の配信が好きでいつも見てくれているというのは本当のようで、衣装のこととか歌のこととか、マリカのことを本当によく知っていてくれていた。

 私は感謝しっぱなしで、何度も何度もありがとうございますと言った。ユリコは本当に私を評価してくれていたのだ。そう思い目の前を見ると、そこにいるのは佐目田さんだった。それで気付いた。ユリコは佐目田さんだが、やはり佐目田さんはユリコではない。畠田美由紀がマリカではないのと同じだ。私はどんなに考えても佐目田さんをユリコとしては見れなかった。

「佐目田さんにとってユリコって何なんですか?」

 抱えていた疑問がこぼれるように言葉になる。迷ったが、せっかく会っているのだから何かをぶつけ合わなければ意味が無いと思った。

 突然核心を突くような質問をしたからか、佐目田さんは一瞬きょとんとしたような顔をした。踏み込み過ぎたと思ったが、それとほぼ同時に佐目田さんは「憧れだね」と言った。

「うん。一言で言うと憧れだ」

 もう一度確認するように言って頷く。

「えっと、憧れって、つまりはこうなりたいって思いですよね。それは私の言う理想に近いのかなと思うのですが、その、佐目田さんは女の子になりたかったってことですか?」

「うーん。それは、半分合っているとも言えるし半分間違っているとも言えるね。まず、憧れってのは理想と違って決して到達することのできないものなんだよ。僕は若い頃からアイドルが好きで、歌ったり踊ったり喋ったりする姿を見て良いなぁと思ったりしてた。好きって気持ちにもいろいろあって、もちろん異性として『可愛い』と思う気持ちもあるけど、こんなふうになってみたいという『憧れ』の気持ちもあった。でも僕は男だから絶対に女性アイドルにはなれない。いや、手術を受けて性転換をして、と本気を出したらなれなくもないかもしれないけど、そこまでの気持ちはなかった。『可愛い』はいいよ、単純な感情だからどうにでもなる。でもその『憧れ』はぼんやりとどうなるわけでもなく自分の中にずっとあって、処理できずにいたんだ。僕はバ美肉で初めてその『憧れ』を処理する方法を知った。僕は、自分が女の子になってしまいたいわけでは無いよ。でもその感情もゼロじゃない。だからつまりは一つの感情の処理だよ」

「感情の処理」

 私は佐目田さんの言葉を確かめるように復唱した。

「いや、ごめん。こんなおじさんが、キモいはキモいんだけどね」

 と、佐目田さんが冗談っぽく笑うので、「そんなことないですよ」と、つい大きな声を出してしまった。隣に座っていたおばさんがこちらをチラッと見て恥ずかしくなる。

「あの、キモくなんてないです。全然ないです。でも、なんかその、処理するって感覚は正直言って私には無いです」

「マリカちゃんは君の理想なんだね?」

「そうです。で、マリカは私です」

「分かる。ユリコだって俺だ」

「でも完全には佐目田さんじゃないんですね?」

 私がそう言うと佐目田さんは少し考えるような仕草をしたがすぐに「そうだね。やはり完全に僕ではないね」と言った。

「やっぱりどこまでいっても憧れなんだよ。僕はユリコだけど、存在のすべてをユリコに到達させることはできない。そしてユリコには確固たるユリコ像がある。僕はそれを借りているとも言える。もちろんユリコになることは楽しいし、素晴らしいことなんだけどね」

「佐目田さんは完全にユリコになりたいとは思わないんですか?」

「まったく思わなくはないよ。でもそれは難しいかな。僕にはまだ『好き』というような、第三者的な感情もあるから」

 なるほど、と思った。そこが私と佐目田さんの決定的な違いなのだ。

「私は、私のすべてがマリカでありたいと思っています。そこには私の望む全てがあるから。本当の私はマリカなんだと思うくらいです」

「うん。分かる。それも一つの考え方だと思うよ。みんないろいろな想いを持って受肉しているのだと思う」

 大人な返しだなと思った。私は黙って頷く。

「君はまだ若い」

「別に歳を取っても配信は続けるつもりですよ。変わらずマリカであり続けるつもりです」

「でもね、君は、畠田さんは確かに今ここにいる。僕の目の前でコーヒーを飲んでレモンケーキを食べている。これは紛れもない事実だよ」

 佐目田さんは一呼吸置くようにコーヒーを飲んだ。その肩越しの壁に掛かった鏡に私が映っていた。畠田美由紀がはっきりと映っていた。



 選考会まであと一週間を切った。その時は刻一刻と近づいてきていたが、新しい振り付けはどれだけ練習してもいまいち噛み合わなかった。当然茜ちゃんはすごく怒って、その感情を優子ちゃんと私に隠すことなくぶつけた(それはやはり主に優子ちゃんが多かったのだが)。

 優子ちゃんはもはや何が正解か分からなくなっているように見えた。いつもびくびくしていて踊りにもキレがない。けっきょく塾の冬季講習にも行かなかった。それに対して親との折り合いはちゃんとついたのだろうか。何となく最近笑わなくなったような気がする。選考会まで精神が保つのかどうか心配なくらいだった。

 私は私で水町先輩から言われたことを引きずっていた。振り付けを覚えて踊れるようになっても心の面ではどこか二人に対して負い目を感じていた。私はやはり二人とは違う。だから二人の足を引っ張ってしまう。私ではない別の誰かがここで踊った方がずっといい演技ができるだろう、なんてことを思いながらそれでも今はただ踊っていた。

 その根本にはやはり「自分に満足をしている」という感情があった。

 選考会へ向けた練習を始めた当初から私は自分達が上位に入るのは無理だろうと思っていた。でも、それはそもそも私は別に上位に入りたいとも思っていなかったからではないかと今では思う。もし私が本気で選考会で上位に入りたいと思っていたのなら、おそらく水町先輩にあんなことを言われたりしない。

 私は多分茜ちゃんみたいになっていただろう。優子ちゃんのことを怒鳴って、必死で自分のなりたい自分を手に入れようとしただろう。バ美肉を始める時といい、本当の私はそういう手段を選ばないタイプの人間だ。でも選考会に対してはそんなに熱くなれなかった。つまりはそういうことなのだ。

 それに気づいてからの練習は本当に流れ作業だった。ただ言われた通りに踊っているだけ。楽しくもないし、かと言って特別辛くもない。そこには何も無かった。私はこの選考会が終わったらチームを抜けて部活も辞めようと思っていた。二人のためにもそれが一番だと思っていた。

 お風呂に入って部屋に戻るともう二十二時半だった。電気をつけてそのままベッドに倒れ込む。つい二時間前までは学校で踊っていたのだな、と思うと今ベッドの上で止まっている自分の身体の方が逆に不自然に思えた。この二ヶ月でハードな練習がすっかり身体に染み付いてしまったようだった。

 ユリコとのコラボ以来、私は新しい配信ができていなかった。そろそろ次の配信を考えなければならない時期ではあるのだが、今は配信に向かう余裕がどうしてもなかった。

 一方、ユリコはこの間にも変わらず新しい動画を配信していた。内容はお気に入りのアニメの紹介だったのだが、正直言って私は素直に楽しめなかった。一応いつも通り配信後にDMも送ったが、どこか気持ちが入っていないのが自分でも分かった。

 佐目田さんに実際会って話して、キモいとか、そういう否定的な感情はまったく湧かなかった。実際、中年男性が女の子のアバターに受肉して配信をするケースが多いことも知っていた(そもそもバ美肉という言葉自体がそれを指す言葉になりつつあることも知っていた)し、理想になりたいという気持ちに性別も年齢も関係ない。だけど、どこかがっかりした気持ちはあった。

 引っかかっているのは受肉の濃度だ。

 佐目田さんと会った後に見た配信のユリコは、何だかその存在自体をとても薄く感じた。彼女はいつも通り上手に話していた。相変わらず文句の付けようもない軽快な喋りだった。でも何故か私にはユリコの存在自体が希薄に見えたのだ。

 それは私がユリコには佐目田さんの一部分しか受肉されていないことを知ってしまったからだ。

 佐目田さんは私のように自分のすべてをマリカに受肉するのでなく、自分の一部分だけをユリコに受肉して、それで心の足りない部分を埋めていた。もちろんそのやり方が悪いとは言わない。すべてを委ねることは勇気が要ることだというのも分かるし、本当は誰にも自分を委ねず、自分は自分でいる方がいいに決まっている。佐目田さんにはユリコではない佐目田さんがいる。そして多分、その佐目田さんこそが本当に生きている佐目田さんなのだ。

 そんなこともある。そういう人もいる。分かっている。でも私はがっかりしていて、ユリコの配信を冷めた目で見てしまった。

 私はユリコを同士だと思っていた。でも違った。マリカとユリコは傍目から見たら同じようなアバターだと思われるかもしれないが、二人は根本的なところから違っていた。別に裏切られたわけではない。だからユリコに落胆するのもお門違いである。しかし感情なんてものは何をどうやっても自分で止められるものではない。私はユリコに、佐目田さんに、同士になってほしかったのだ。歳の差も性別も関係ない。ただ同士になってほしかった。

 身体は疲れているのだが眠くはなく、かと言って何もやる気が起きないのでごろごろしていたら、唐突にドアがノックされた。起き上がるのが面倒だったので「どうぞ」と言うとドアが開き、お姉ちゃんが立っていた。

「何?」

 てっきりお母さんだと思っていたから少し戸惑った。お姉ちゃんは私を見て少しの間黙っていたが、やがて話し出した。

「この前池袋にいたでしょ」

「……何? それがどうしたの?」

「誰よ、あのオヤジ」

 そう言われて全身がヒヤっとした。佐目田さんと会っていたところをお姉ちゃんに見られていたのだ。

「誰って」

「喫茶店に一緒にいた人、何なのよあれ。あのサラリーマン風の男、あんたまさか変なことしてるんじゃないでしょうね」

「違う!」

 私は怒鳴った。でもお姉ちゃんは冷静だった。

「うん。だよね。ちゃんと喫茶店で別れてたからそこまで変な関係ではないことは分かってたけど」

「は? ずっと見てたの? 最低。信じられない」

「あんたね、高校生の妹が知らないオヤジと二人でいるの見たら普通心配になるでしょ」

「だからってずっと見張ってるなんて、最低だよ」

 と言いつつもお姉ちゃんの言うことも分かった。逆の立場だったら、いくら仲が悪かろうと私はおそらくお姉ちゃんを心配するだろう。ただ、私があまり人に見られたくないところを見られてしまったというのも事実で、怒っている感情と納得している感情が混同して気持ちのコントロールが上手くできなかった。

「で、あの人は誰なのよ」

「お姉ちゃんには関係ないじゃん」

「関係ないけど、別にやましい気持ちが無いなら言えばいいじゃない。問題無いならそれ以上のことは何も聞かないわよ」

 お姉ちゃんは怒鳴るでもなく淡々と言った。あれ? お姉ちゃんってこんなに大人だったっけ? と、私はさらに頭がぐちゃぐちゃになった。やましいことなんて何も無い。私と佐目田さんは決して変な関係ではない。しかし私達の関係を説明するにはバ美肉のことも含めて全て説明する必要がある。

「ちゃんと話してよ」

「大丈夫だよ。お姉ちゃんが思ってるような変な関係じゃない」

「だったらちゃんと説明して」

「説明って……」

「あの人は誰なの?」

 そう言ってお姉ちゃんは真っ直ぐ私を見た。その目を見て観念した。全てを正直に話そうと思った。

「ユリコだよ」

「ユリコ? だって男だったじゃない」

「あの人は佐目田さんって言うんだけど、私が会いに行ったのはユリコ。あ、でもけっきょく話したのは佐目田さんだったのか……」

「ねぇ、何言ってんの?」

 お姉ちゃんは露骨に怪訝そうな顔をした。まぁ、そりゃそうだろうなと思った。今の説明で分かるはずがない。それで私は「入って」とお姉ちゃんを部屋に入れた。

 パソコンの画面をつけてマリカを出した。画面の中でマリカはにっこりと笑っていた。「何なのこれ?」とお姉ちゃんは苛立った声で言った。

「彼女はマリカ。私なの」

「は?」

『こんにちは。早百合さん』

 と、私はボイスチェンジャーを通してマリカの声で姉の名前を呼んだ。

「ねぇ、ちょっとマジで何のつもり? ふざけてるの?」

「ふざけてなんかないよ。マリカは私で、定期的に動画配信してるの」

「動画配信?」

 そう言ったお姉ちゃんの顔は完全に強ばっていた。

「そう。で、ユリコっていう有名な人がいて、人っていうかアバターか。その人がこの前会ってた佐目田さんなの」

 私はそう話しながらユリコチャンネルを開いてお姉ちゃんに見せた。一覧から適当な動画を選んで流してみる。スピーカーから聞き慣れたユリコの声がした。これ、佐目田さんなんだなと今更思った。

「ちょっと前にコラボ配信して、その縁でこの前会ったの。会ったのはあの日が初めてだよ。動画とかDMではやり取りはしてたけど、でもあれはマリカとユリコのやり取りだし。だから本当に変な関係ではないし、やましいこともない」

 ここまで言えばお姉ちゃんにも伝わっただろうと思い顔を覗き込んでみると、お姉ちゃんは見るからに理解が追いついていなさそうな顔で画面上で流れるユリコのスイーツ紹介の動画を見ていた。

「いや、ちょっと待って。これ何? どういうこと?」

「どういうって、今説明した通りだよ」

「あんたこんなことやってたの?」

 その一言に今度は私がカチンときた。

「ちょっと待って、こんなことって何? 何その言い方。お姉ちゃんが説明しろって言うから説明したんじゃん」

「だって、こんなのおかしいじゃない。何よ、ユリコって。信じられない」

「違う。ユリコは私じゃなくて佐目田さんの方。私はマリカ」

 そう言って私は画面をマリカに戻した。マリカの声でもう一言お姉ちゃんに何か言おうと思ったのだが、そこでお姉ちゃんが「知らないわよ!」と怒鳴った。

「ねぇ、とりあえずそんな変な配信してるオヤジと会うのは今すぐ止めな。おかしいって。普通じゃない。マジで信じられない」

「だから変な配信って何よ!」

 私は腹が立ってテーブルをバンバンと手で打った。茜ちゃんの気持ちが少し分かったような気がした。腹が立つと無性に何かを打ちたくなる。

「いや、キモい」

「は?」

「だからキモいって。何よこれ。こんなん作って声変えて配信して、あげく変態みたいなオヤジと会って、あんた一体何なの?」

「お姉ちゃんだって昔はヒカリちゃんになりたかったくせに!」

「何? 何の話よ」

「マリカは私の理想なの。私はマリカになってヒカリちゃんみたいになったの! 理想に! お姉ちゃんは諦めたけど、私は諦めなかったの! だからなれたの!」

 私はもう完全にキレてしまっていた。机を叩く手が痛い。怒鳴り過ぎて肩で息をしていた。お姉ちゃんはそんな私を細胞の一つ一つまで全てを憐れむような目で見ていた。燻んだ透明なフィルターを五、六枚隔てたかのようにお姉ちゃんの顔がぼやけて見えた。

「そんなことに何の意味があるのよ」

「意味はあるよ。ちゃんと理想を手に入れたんだから。意味はある」

「ただ逃げてるだけじゃない。現実見なさいよ。まず鏡で自分の顔見なさいよ」

「うるさい! 諦めた人間が諦めなかった人間に偉そうに言うな!」

 そこまで怒鳴ったところで「ねぇ、何騒いでるの?」とお母さんが部屋に入ってきた。下の部屋まで怒鳴り声が聞こえていたのだろう。お姉ちゃんは大きな溜息をついてそのまま部屋を出て行った。何も言われなかったことで私はなおさら悔しい気持ちになった。涙が溢れてきた。でも泣いたら負けのような気がして我慢した。

 お母さんも出て行って、私は一人になる。涙はまだ瞼の内側で溢れていて、今はどうしても畠田美由紀でいたくなかった。だからマリカに受肉する。

『あんなの気にすることないよ。大丈夫、問題ないよ。いつか分かってもらえる日がくるよ。また頑張ろう。また動画作ろう』

 マリカの声で言ってみると、やっと泣けた。不思議と前向きな気持ちになれた。マリカである限り私は最強だ。例え畠田美由紀がどう思われようとどんな人間だろうと、最強なのだ。



 十三組中、十三位。終わってみれば今回の選考会も最下位だった。

 新しい振り付けはけっきょく最後まで噛み合わなかった。前の方が良かったというのが大方の感想だった。私だってそう思う。

 順位発表は一位から順番にチームとメンバーの名前が呼ばれる。一位はもちろん水町先輩のいるチームだった。真っ先に名前を呼ばれた水町先輩はみんなからの拍手を浴びながら頭を下げた。少し口元が緩んだその表情は、喜んでいるというよりほっとしたという感じに見えた。一位になるのが当たり前だと思われているのだ。その中で踊るのはすごいプレッシャーなのだろう。私には想像もつかない。

 最後の最後で私達の名前が呼ばれた。もうあとは私達だけしか残っていなかったので、そこに驚きも喜びも、何の反応もなかった。いや、そもそもみんな最初からこうなることが分かっていたのかもしれない。お情けのような密度の薄い拍手に包まれて、何にせよ、これで終わったんだなと思った。

 上位に入って校外試合に出られるメンバーは大方予想通りの顔触れだった。選考会に番狂わせは無かった。冷静に考えたら一時でもそんなものが起こるかもしれないなんて考えた自分が恥ずかしかった。

 顧問の先生が校外試合までの今後の流れを説明して(もちろん出られない私にとっては関係の無い話だった)、選考会は無事終わった。茜ちゃんは私達にも何も言わず一人でさっさとスタジオを出て行った。私も優子ちゃんもそれを追いかけることはしなかった。

 部室に戻って制服に着替えていたら水町先輩が入ってきた。校外試合に出られない部員は今日はもう着替えて帰るのだが、校外試合に出るメンバーはまだ残って練習をする。むしろこれからが本番なのだ。水町先輩は水筒を取りに戻ってきただけのようだった。目が合ったので、「おめでとうございます」と言うと、水町先輩は「ありがとう」と私の目を見ることもなく言った。その表情にはもう順位を発表された時に見せた安堵の感情は無かった。水町先輩の中ではもう次の戦いが始まっているのだろう。これでまた一つ理想へ近づいたのだ。

 駅まで優子ちゃんと一緒に帰った。改札に入るまで二人とも何も話さなかった。優子ちゃんが今何を考えているのか、私には分からなかった。見当も付かなかった。

「じゃあ、私こっちだから」

「うん。お疲れ様」

 と、言って優子ちゃんは小さく私に手を振る。そんなことは多分絶対にないのだけど、何だかもうこのまま二度と優子ちゃんと会うことは無いのではないかと思った。

 ホームに出た時に一番端のベンチに茜ちゃんがいることにはすぐに気付いた。茜ちゃんは膝に抱えた鞄の上に顔を埋めて座っていた。少し歩み寄ってみたが、とても声をかけられる様子ではなかった。茜ちゃんは肩を震わせて泣いていた。顔を埋めているので私がいることにすら気付いていない。

 私が今茜ちゃんに言ってあげれることなんて一つもなかった。

 近づいて、泣いている茜ちゃんの背中を見る。「逃げてるだけじゃない」と、この前お姉ちゃんに言われた。あの言葉が頭の中にこびりついて離れない。逃げてるだけ、確かに畠田美由紀の範囲だけで言ったらそうなのかもしれない。私は私が畠田美由紀であることから逃げている。今目の前で泣いているのは茜ちゃんだが、これはある意味畠田美由紀の姿だとも思えた。マリカがいないただの畠田美由紀だったら、おそらく私はこうなっていただろう。理想に届かない自分を不甲斐なく思い、泣いていたはずだ。考えてみると、それはすごく怖いことだった。私は茜ちゃんのように悔しい思いをしたくないからマリカに受肉しているのだ。もう私は、ただの畠田美由紀に戻ることなんてできない。

 けっきょく茜ちゃんに声をかけることなく次に来た電車に乗った。電車のドアが私達の間の空間を切り取り、そしてゆっくりと走り出す。遠ざかっていく茜ちゃんの姿を私は最後まで見れなかった。



 リリシアのことを知ったのは選考会が終わってすぐの頃だった。元はただ関連動画で出てきた中の一つに過ぎなかったのだが、何故か惹かれるものがあり、リリシアの動画を視聴した。運命の歯車は、その時確かに動き出したのだ。

 リリシアは綺麗な男の子だった。目は切れ目、小さな丸い眼鏡をしていて、髪はクリーム色に近い金髪。それはややパーマっぽく、長さは肩近くまであった。すらっと背が高くて線が細い身体。美しい少年のアバターだった。初めて見たその時に心の中で何かが弾けた。

 私はすぐにリリシアの動画を全部見た。それは基本的にはマリカと同じフリートークの動画だった。別に何の取り留めもない日常のことを話しているだけなのだが、声とか、その挙動の一つ一つに私は惹きつけられた。リリシアのチャンネルにはまだ動画は三つしかなかった。チャンネル登録数もまだあまり多くない。最近配信を始めたばかりなのだろうか。

『ねぇ、僕ってさ、やっぱり基本はめんどくさがり屋なんだよね』

 リリシアはそう言って髪先を少し捻る。この、『ねぇ、僕ってさ……』というのがどうもリリシアの口癖らしく、それがまた最高にかっこよかった。

 電気を消してベッドに入っても頭の中からリリシアのことが消えなかった。

 中一の時にクラスメイトの桜井君を好きになった時にも同じようになったことを思い出した。あの頃、私は寝ても覚めても桜井君のことばかり考えていた。その時の感覚と非常によく似ている。これは、紛れもない恋だった。

 さらに深く考えた。私はリリシアに恋をした。しかしそれは畠田美由紀ではない。マリカの方だ。私はマリカとしてリリシアに恋をしたのだ。それは畠田美由紀目線で言うと、リリシアこそマリカと恋に落ちるべき相手だと思ったということになる。

 胸が熱くて眠れなかった。思えば恋をする感覚なんて忘れかけていた。桜井君以来私は誰にも恋することもなく今日まで生きてきていた。桜井君はけっきょく中二の時に別のクラスの女の子(可愛い子だった)と付き合ってしまい、告白することもなく私の恋は終わった。その時は、悔しいというよりも苦しかった。しばらくは何をしていても呼吸がし難かったことを覚えている。桜井君もその彼女も高校は違う学校に行ってしまった。あの二人は今も付き合っているのだろうか。

 桜井君の時と同じ轍を踏むわけにはいかない。何のためにあんなに苦しい思いをしたのだ。私はベッドから起き上がり、真っ暗な部屋の中でパソコンの画面をつけた。何時に見てもマリカは可愛い。そうだ、今私はマリカなのだ。畠田美由紀ではない。可愛いのだ。多少大胆に攻めても問題無いはずだ。許されるはずだ。

 私はリリシアにDMを送った。内容はコラボの依頼だった。

『はじめまして。マリカと申します! 私も自分のチャンネルを持って配信をしているのですが、リリシアさんの配信を見て是非コラボさせていただきたいと思いました! いきなりのDMすみません。一度ご検討をいただけますでしょうか★』

 送信ボタンを押した後、居ても立っても居られなくなり部屋の中を一人歩き回った。一年前の私ならばあり得ない行動力である。心臓がドキドキとうるさかった。

 すぐに返信は来なかった。まぁ、もう深夜だし仕方ないな、と思いつつも、そこから二時間ほどはパソコンの前で返信を待った。しかしけっきょくその夜はリリシアからの返信はなかった。

 朝、学校に行く前にもう一度リリシアの動画を見た。かっこいい、そして美しい。家に帰ったらまた見ようと思った。ふわふわした気持ちのまま私は部屋を出る。


 選考会から二週間が経ったある日、優子ちゃんと茜ちゃんとの三人のグループに「話したいことがあるんだけど」と優子ちゃんからメッセージが入った。それでその日の放課後に久しぶりにあの食堂の窓の前に三人集まった。

 久しぶりに来た食堂の前は寒くて、ついこの前まではこんな場所で毎日何時間も練習していたのか、と少し驚いた。私が来た時点でもうすでに茜ちゃんも優子ちゃんも来ていた。二人ともクラスが違うので顔を合わせるのは選考会の日以来だった。「久しぶり」と、言った私の声は寒さに負けて何だかカサついていた。空は曇り空で、雪が降りそうな空に見えたが、予報では今日は終日曇りだと言っていた。

「いろいろ考えたんだけど、私ね、ダンス部を辞めようと思うの」

 優子ちゃんは目を伏せたまま言った。わざわざこんなところに呼び出された時点でそういう話なのだろうなとは思っていたが、実際口に出して言われるとやっぱり重い。先に言われてしまったという思いもあったが、いつかはこんな日が来るのではないかと思っていた日がついに来たという感じだった。

「何でなの?」

 言われることはある程度想像がついたが、私は一応聞いた。茜ちゃんは何も言わずに黙っていた。選考会前にこんなことを言い出したらめちゃくちゃ怒ったろうに。茜ちゃんも茜ちゃんで選考会が終わって心の中で何かが切れてしまったのかもしれない。

「うちの学校のダンス部の中で、私のレベルじゃやっぱりついていけないってことを今回の選考会でまざまざと感じたから。一番大きいのはそこかな。今以上頑張るのは、私は正直無理。それにもうすぐ二年生だし、本格的に予備校にも行かなきゃいけないし」

 思っていた通りの回答過ぎて私は逆に言葉に詰まってしまった。気まずい沈黙が訪れる。もうどうしようも無いことは誰の目から見ても明らかだった。半年以上苦楽を共にしてきたこのチームが今日で終わるということを、口に出さずとも三人とも理解していた。沈黙を破るように茜ちゃんが「優子ちゃんはそれでいいの?」と聞いた。

「いいも何も、私にはもう辞めるっていう選択肢しかないよ」

「だからそれで納得してるの? って聞いてるの」

「納得するしかないじゃない。私はみんなみたいに上手に踊れないんだから」

 優子ちゃんの言葉には苛立ちが見えた。茜ちゃんに対して、こんなことは初めてだった。優子ちゃんも純粋にダンスが好きなのだ。茜ちゃんの目をじっと見たまま、優子ちゃんはボロボロと涙を流して泣いた。ロングのツインテールのせいか、優子ちゃんはやはり幼く見える。だから泣いているその様子も小学生の女の子が友達に意地悪をされて泣いているようにしか見えなかった。

 私はそんな優子ちゃんを心から哀れに思った。理想に破れた優子ちゃんは、これからいったいどうなっていくのだろう。明日から何を信じて生きて行くのだろう。ダンス部を辞めたとしても、優子ちゃんに明るい未来が待っているとはどうしても思えなかった。受験勉強の果てにいったい何があるというのだ。そもそも何のために受験勉強をするのだ。予備校に通うのだ。進んだとしても残ったとしてもそこに良いことは無い。優子ちゃんだって本当は分かっているのではないか。だから泣いているようにしか見えなかった。

「今までありがとう。私はこの三人でやれて良かった。楽しかった」

 そう言った茜ちゃんの言葉に嘘がないことは分かった。余り者同士で組んだチームだったし、けっきょく成果は残せなかったけど、悪いチームではなかった。優子ちゃんは何度も頷いて泣いた。私も目頭が熱くなった。無理をしたからこうなってしまったわけではないと思う。無理をしなければやっていけない環境だというのは分かっていたのだ。遅かれ早かれこうなる運命だった。

 いつもより早い時間だったので、帰りの電車は座れた。茜ちゃんと二人並んで揺られる。最近、陽が長くなった。窓の向こう、凸凹のビル群の合間に真っ赤な夕日が見えたり隠れたりしている。すごく綺麗だけど、だから何だと言われると何も無い。毎日当たり前のように昇っては沈むものに対して、今更特別な価値を見い出すのは難しい。それでも何かを思うのか、まっすぐと夕日を見つめる隣の茜ちゃんに「私もダンス部を辞めたい」とはどうしても言い出せなかった。

 ダンス部内のグループは一応一人からでも選考会にエントリーできることになっている。しかし過去からの傾向で、何となくグループは三人以上というのが暗黙の了解となっており、実際今あるグループもみんな三人以上の構成になっていた。だから今までの流れからすると私達は、誰か他のメンバーを探してチームに入ってもらうか、自分達が他のチームに入れてもらうかのどちらかを考える必要があった。多分それは茜ちゃんも分かっているはずだ。

「難しいね」

 茜ちゃんが唐突に言った。その顔は少し皮肉っぽく笑っていた。

「優子ちゃんのこと?」

「そう」

「まぁ、仕方ないよ」

 そんなこと私が言えた義理ではない。分かっていたが言ってしまった。

「私は仕方ないなんて思えない」

 茜ちゃんはそう言って溜息をついた。優子ちゃんが辞めたことについて、茜ちゃんは責任を感じているのだろう。

「ごめん」

「謝ることじゃないよ。私も周りが見えなくなってたと思うし。なんか、もう私も辞めちゃおうかなぁ」

「えっ」

 私は驚いた。その選択肢は考えていなかった。

「ダンス上手くなってんのかなってないのかも分かんないし。どれだけ動いても痩せないし」

 そう言って茜ちゃんは自虐的に笑った。

「いや、ダメだよ。茜ちゃんは、絶対辞めちゃダメ。優子ちゃんとは違う」

「何よそれ」

「茜ちゃんは理想に向かって頑張れる心があるんだから。優子ちゃんみたいに無理だなんて簡単に諦めちゃダメだよ。いつか絶対報われる日が来るから。だから辞めないで」

 私は必死で、茜ちゃんはぽかんとしていた。

「何? どうしたのよ、美由紀ちゃん」

「いや、まぁ、別に思ったことを言っただけだよ」

 ちょうど茜ちゃんが降りる駅に着き、「またね」と言って茜ちゃんは電車を降りて行く。周りに座っていた人達も同じ駅でたくさん降りて、私はなんだか取り残されたような気持ちになった。

 家に着く少し前に茜ちゃんからメッセージが来た。

「美由紀ちゃんがダンス辞めないでって言ってくれたの嬉しかった。ありがとう。私はやっぱりダンス好きだし、もう少し頑張ってみるよ。お互いすぐには先のこと考えられないかもだけど、次の選考会は夏だし、ゆっくり考えよう。それで今度こそ必ず上位に入ろう! これからもよろしくね!」

 私は家に帰ってすぐにパソコンを付けた。そこにはもちろんマリカがいる。ボイスチェンジャーを通して、マリカの声でマラカス少女隊の歌をデビュー曲から順番に歌った。心が壊れてしまいそうだった。

 茜ちゃん、違うのだ。私は茜ちゃんのことやチームのことを思ってあんなことを言ったのではない。私はただ、茜ちゃんに畠田美由紀を重ねていただけなのだ。どんなに厳しい状況になっても茜ちゃんにはもがいてほしかったのだ。マリカではない畠田美由紀を続けてほしかったのだ。それを見ていると私は安心ができる。やはりバ美肉を選んで良かったと思える。マリカを正当化できて、畠田美由紀を諦められる。もしかして、何て言葉を捨てられる。だから、頼むから簡単に理想を捨てたりしないでほしい。

 スピーカーからはマリカの美しい歌声が流れる。私の肉声も同時に響いていて、二つの声が部屋の中で入り混じっていた。でもそれは、オセロの黒と白のように同じ存在であっても決して一つにはなれないものだった。マリカは私のはずなのに、声はどうしても一体にはならなかった。

 その日から私は狂ったように配信のペースを上げた。二、三日に一度は必ず配信を行った。

 当然歌の動画の制作は間に合わず、ほとんどがフリートークだけの配信になっていた。衣装制作も同様で、前に使ったものを再利用したり、即席で作った簡素な衣装だったりの状態だった。

 その間、リリシアからDMの返信はなかった。リリシアは新しい動画も出していなかった。それでも私のリリシア熱は消えず、ずっともどかしい日々を送っていた。

『ねぇ、僕ってさ……』

 過去の動画を何度も見た。我慢できずに自分の配信でリリシアの名前を出したりもした。リリシアのチャンネル登録者数は少しずつ増えていて、それはもしかしたら私の影響ではないかと勝手に思っていた。DMが返ってこない以上、私ができる唯一の求愛がそれだった。

 そんなマリカの暴走を一部の視聴者はちゃんと感じとっていた。何か最近のマリカ手抜き感ある、そんなに慌てずもっとしっかり動画作り込んだらいいのに、急にリリシア推しになってる? 歌の動画もちゃんとやってほしいー、なんて否定的なコメントもちらほら目立つようになってきた。

 でも、私はそんな視聴者の声をあまり気にしてはいなかった。今はとにかく「マリカに受肉する」ということが大事だった。私は一秒でも長くマリカでいたかった。畠田美由紀でいたくなかった。

 ユリコからもメッセージが来た。「最近すごい配信してるね。何かあった?」と、一度会ってしまったからか口調が完全にユリコではなく佐目田さんになっていた。私はもう二度とユリコと言葉を交わすことはできないのだな、と思うと少し悲しかった。今の自分の心境を佐目田さんに言っても多分理解を得られないだろう。だからメッセージに返信はしなかった。

 ある日、お母さんが唐突に部屋に来た。

「最近、毎晩毎晩友達と電話でもしてるの?」

「何で?」

 その時私はマリカの衣装を作っていたのだが、咄嗟にパソコンの画面を消した。

「だって毎晩うるさいから」

「あぁ、ごめん」

「あなたね、ほどほどにしておきなさいよ。そのうち早百合も怒ってくるよ」

 お母さんはそう言って溜息をつく。

「分かった。気をつける」

 素直に謝ると、お母さんはそれ以上は何も言わずに部屋を出て行った。

 確かにお母さんの言う通り、このまま続けていたらお姉ちゃんが怒り出すのも時間の問題だろう。お姉ちゃんとはあの一件以来一度も口を聞いていなかった。顔を合わせてもお互い知らんふりをしている。

 お姉ちゃんはどう思っているか分からないが、私としてはもうあれ以上話すことは何も無いと思っていた。説明することは全て説明した。あとはもう、お姉ちゃんの中でそれを理解してくれとしか言いようがない。そしてもし理解できないようならもう私は本当に関わりたくない。

 しかしあのお母さんの口ぶりから考えると、お姉ちゃんは私のバ美肉のことをお母さんにも何も言っていないようだった。それは少し意外だった。いつものお姉ちゃんだったら、私の問題を見つけたら小さなことでもすぐにお母さんに報告するのに。

 今の配信ペースを落とすつもりはさらさら無かった。画面をつけてまたマリカの衣装を作り出す。

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