第2話

 そもそも受肉とは、神が人の形をとって現れることを指す言葉である。キリスト教では、神の子キリストがイエスという人間性をとって地上に生まれたことを意味するらしい。それが具体的にどういう状況なのか、神仏はおろかSFに対しても特別明るくない私には分からないが、私の行う「受肉」は根本的にそれとは逆の行為なのではないかと思う。

 理想とは神だ。つまり私達は神を肉に宿しているのではなく、肉を神に昇華させているのではないか。ここでいう肉とは肉体のことで、つまりは私自身のことである。私が神(理想=アバター)になっている間、肉体はもはや意味を持たない。そこにあるが、そこにはない存在になる。その時、肉体には何もない。空っぽだ。なぜなら私はマリカとして画面の中にいるからだ。

 バ美肉において、配信者のことを「魂」、アバターのことを「肉」と位置付ける考え方もある。そしてアバターの肉を魂が手に入れるから、「受肉」ということである。考え方もあるというか、それが主流な考え方だ。バ美肉で検索するとそう出てくる。

 確かにその考え方も分からなくはない。魂とは心で、それは間違いなく配信者(私)側にある。しかし私はどうしてもアバター(理想)を「肉」などという陳腐な言葉で言い表すことに抵抗を感じる。「肉」という存在は「神」と最も遠い位置にある存在だと私は思う。そして理想は間違いなく、神だ。神でなければ存在する価値が無くなってしまう。言葉で表すならばどちらかというと「肉」よりも「魂」の方が「神」に近い存在だと思える。しかしもちろん配信者(私)は神ではない。神ではないから理想をアバターという形にするのだ。だからこの考え方を私はあまり受け入れられない。

 受肉。この言葉をどう捉えればいいのだろうか? それでもとりあえず今日も私は受肉して神になる。



 久しぶりに全部員が練習スタジオに集められる。頃合いからしてそろそろだとは思っていた。それは校内選考会についての説明会だった。

 ダンス部員にも関わらず、スタジオに足を踏み入れるのは本当に久しぶりだった。それに茜ちゃんと優子ちゃん以外の部員と顔を合わせるのも久しぶりだった。普段はバラバラに練習をしているからどうしても仲間意識が薄くなってしまう。こうして久しぶりにみんなで集まっていても、どこかぎこちなくて落ち着かない。

 顧問の先生の顔を見るのも久しぶりだった。先生が集合した部員達の前に立って話し出した時、あぁ、そういえばこんな顔の人だったなとしみじみと思ってしまった。

 一月末とアナウンスされていた三月の校外大会に向けた選考会の日程について、本番の校内選考会が一月三十一日に、そして本番前の中間発表会が年明けすぐ一月十日に正式に決まった(この本番の校内選考会の前に一度中間発表会を行うという流れも昔から受け継がれてきたことだった)。エントリーを希望するチームは今週中に必要事項を記入した申し込み用紙を顧問の先生に提出しなければならない。持ち時間は一チーム五分で、演技をする順番は従来通りくじ引きで決める。そして、今回から校外試合に出られる枠を上位三チームから上位五チームに変更するとのことだった。

 その時、隣に座っていた茜ちゃんの目の色が変わるのが分かった。説明会はそのままあっさりと終わり、申し込み用紙を受け取ってみんな各々の練習に戻っていった。私達もホームグラウンドである食堂の窓の前に移動した。今週から一気に冷え込みがキツくなり、格好悪いと思いつつ体操服のジャージの上にしっかりと学校指定のブレザーとコートを着ていた。「ねぇ、さっきの話聞いてた?」と茜ちゃんが私達二人に聞く。

「えっ、もちろん聞いてたよ」

 と、優子ちゃんが茜ちゃんの地雷を踏まないように気を遣った声を出した。最近、もう優子ちゃんは完全に茜ちゃんを恐れている。

「今回から上位三チームじゃなくて上位五チームだって」

「言ってたね」

 そう言って優子ちゃんが頷く。私もつられて頷いていた。

「いや、言ってたねっていうか、これはチャンスよ。枠が広がったってことは校外大会に出られる可能性が高まったってことなんだから。そこのところちゃんと分かってる?」

 あんた達、こんな簡単なことも分からないの? と馬鹿にするような、見下すような、そんな言い方だった。それで茜ちゃんは私達二人を舐めるようにじっと見た。いつの間にかもう怒られているような構図になっていた。その空気をいち早く察知して、優子ちゃんは「そうだよね。ごめんね」と謝った。私は謝らなかった。だって、謝る理由なんて何一つ無いのだから。上位三チームから五チームに枠が広がったことで校外大会に出られる可能性が高まったことくらい私にだって分かる。ただ、それをチャンスと呼べるのはもっと上位のチームだけで、私達みたいな最下層のチームにとっては別に何が変わったわけでもない。そこを理解できずに一人でいきり立っている茜ちゃんを逆に私は内心では見下していた。

 茜ちゃんの視線が私で止まる。おそらく私が優子ちゃんのように素直に謝らないことに不満を持っているのだろう。しかしそれが分かっていても今は謝りたくなかった。すると茜ちゃんは溜息をついて、「とにかく」という言葉に合わせて手を叩いた。

「今回の校内選考会は絶対上位に入らなきゃいけないんだからね。それにチャンスなんだから、これをものにしない手はないよ。次回はまた三チームに戻る可能性もあるんだから。あと一カ月ちょっと、改めてここから頑張っていこう」

 その「頑張っていこう」という言葉に対しては、私も異論はなかった。私だってできるのであれば上位に入り校外大会に出てみたい。選考会に向けて頑張ることに対しては大賛成だった。

 しかし、物事には限度というものがある。何事も「やり過ぎる」というのは良くない。バランスが崩れる。最悪、壊れる。その日以来、茜ちゃん主導の練習は熾烈を極めた。放課後の練習は週三から週五になり、毎日の練習時間も延びた。暗くなっても茜ちゃんが家から持ってきた大きな懐中電灯で照らしそのまま練習を続けた。当然他の生徒はとっくに下校している時間だ。二日に一回は見回りの先生に注意をされた。茜ちゃんは今まで以上にパンパンと手を打ち、そして怒った。優子ちゃんはもう、毎日半泣きだった。本当に涙を流していた日もある(それでも必死で茜ちゃんの言う通り練習していた)。私だって泣きたかった。練習がハード過ぎて自分がいったい何のために何をやっているのか、だんだんと分からなくなってきていた。チームは極限状態だった。

 冬休みも近づいてきたある日、優子ちゃんが「実は、来週から始まる塾の冬季講習に行きなさいってお母さんから言われてるんだ」と茜ちゃんに言った。私はよく言った、と思ったが、その言葉に茜ちゃんは一瞬でキレた。

「何それ? どういうこと? 冬季講習? 今がチームにとって一番大事な時期だってことちゃんと分かってる? この前私言ったよね? 聞いてなかったの?」

 言葉は疑問形であったがそれは質問ではなくほぼ恫喝だった。優子ちゃんは怯えていたが、親からもそれなりに強く言われているのだろう、「もちろん、まったく練習しないって言ってるわけじゃないよ。練習は今まで通り頑張る。でも週に何日かは冬季講習、行かせてほしいなって思って」と珍しく食い下がった。でも、「そんなんで校内選考会で上位に入れるの?」と言い返されると下を向いて黙ってしまった。無理もない。そんな質問答えられるわけがないではないか。優子ちゃんが塾の冬季講習に行かずに練習をしたら確実に上位に入れるのか、と言われたらもちろんそうではない。しかしやらないよりはやる方がいい、ということは間違いなく事実だ。もろもろの事情を無視することにはなるが。

「優子ちゃん、本当にやる気あるの?」

 さっきまでの恫喝の声から一転、茜ちゃんは突き放すような冷たい声で言った。

「……あるよ。もちろんある」

 あ、泣く、と思ったが、優子ちゃんは何とか踏ん張った。

「だったら、塾とか、冬季講習とか言わなくない? 何度も言うけど、今大事な時なんだよ?」

「……分かってるよ」

「分かってないよ」

 さすがにちょっと言い過ぎだと思い、「茜ちゃん、もういいでしょ。優子ちゃんだって頑張ってるんだからさ」と割って入る。しかし「美由紀ちゃんは黙ってて」とあっさり流される。本気で怒っているようだった。茜ちゃんの鋭い視線が下を向く優子ちゃんの頭部にぐさぐさと突き刺さる。茜ちゃんは何故優子ちゃんのことばかりを目の敵にするのだろうか、私だってそこまで完璧に踊れているわけじゃないのに。

「ごめん」

 優子ちゃんが小さく謝った。違う、優子ちゃん、謝るところじゃない、と私は思った。でもそれは言葉にならず、「帰ってお母さんと話してみるね」という優子ちゃんの一言と無理して絞り出した微笑みでとりあえずこの話は終わった。

 でもさすがにあれはどうかと思い、帰りの電車で正直に茜ちゃんにそう伝えた。すると茜ちゃんもその自覚はあったようで、「分かってるよ」と溜息混じりに言った。

「でもうちのチームは良くも悪くも優子ちゃん次第なのよ」

「そうなの?」

「そうだよ。前もこの話しなかったっけ?」

「足引っ張ってるって言ってたのは覚えてるけど」

「いや、まぁ、つまりはそういうことよ。私と美由紀ちゃんはさ、最近はけっこう安定して踊れてると思うの。安定しないの、優子ちゃんだけだよ。だから優子ちゃんが噛み合ってくれるかどうかで、全体の見え方が全然違ってくるのよね」

 優子ちゃんがどうこうよりも、茜ちゃんが私の踊りを安定していると思っていることに驚いた。自分としては安定していないと思うし、細かなミスも多い。マリカの踊りと比べると全然ダメだ。ただ、「安定」はあくまで最低条件で「上手い」とはまた別の話である。その辺は茜ちゃんも分かって話しているはずだ。

「だからさ、何としても仕上げてもらわないと困るのよ。優子ちゃんだって選考会で上位に入りたいなら自分が頑張らないとダメなんだからさ。しっかりやってもらわないと」

「だから厳しいこと言ってるってこと? でもそれで優子ちゃんが潰れちゃったら元も子もなくない?」

「じゃあ次も上位に入れなくてもいいってこと? 頑張ればできることをやらないのは諦めじゃない?」

 茜ちゃんは少し苛立った声で言った。最近、本当に沸点が低い。そもそも頑張ってできることか、できないことかの認識が違うから話が噛み合わない。これ以上話しても平行線だろうなと思った。向こうもそう思ったのか、茜ちゃんが電車を降りるまでそれ以上は一言も話さなかった。

 いつも通りホームをエスカレーターの方へ歩いていく茜ちゃんを動き出す車内から眺める。ゆっくりと遠ざかるその浮かない表情を見て、茜ちゃんだって悩んでいるんだな、と思った。

 理想の自分になりたいと思うその気持ちは痛いくらい分かる。茜ちゃんはお姉ちゃんと違って、理想を一つも諦めていない。それはもちろん正しい感情だ。ただ少し厄介なのはこれが団体競技であるということ。茜ちゃんが理想を手にするためには私と優子ちゃんの協力が必要不可欠なのだ。本当に優子ちゃんがチームの足を引っ張っているのかどうかは別にして、優子ちゃんが茜ちゃんの理想に辿り着けていないのは事実だ。それに対して茜ちゃんが苛立つ気持ちも分かる。でもだからと言って優子ちゃんにだって優子ちゃんの理想があるはずで、その中でダンスがどれほどのウエイトを占めているのかは分からないが、それが怒鳴られても続けていきたいと思うほどの熱いものであればいいのだが、そうでなければ当然そこに意識のズレが生じてしまう。ズレというものは良くない。ズレたものがズレたままの状態で成り立っていくという話を私は聞いたことがない。だいたいの場合、ズレは時間が経てば経つほどどんどん大きくなり、いつしか修復不可能になってやがて壊れる。

 茜ちゃんもバ美肉をやればいいと思った。そうすれば優子ちゃんに苛々することもなく理想のチームを作ることができるのだから。そして多分、水町先輩にも勝てる。



 家に帰りお風呂に入って夕飯を食べ、すぐに部屋に閉じこもる。選考会は選考会として、私にはもう一つ大事なイベントが控えていた。そう、ユリコとのコラボ配信である。配信予定日は一月十三日。中間発表会の三日後だ。内容は画面分割でのフリートークとなっていた。つまり、画面の半分にユリコが、そしてもう半分にはマリカがいて、お互いが半分の画面でライブ配信を行い、会話をするということだ。なので特別テーマに合わせた何かを用意する必要は無いのだが、やはり衣装には拘りたいところだった。

 散々迷った挙句、ヒカリちゃんが初めてマラカス少女隊のセンターを飾ったシングル「天真ランラン♪」の時の衣装をベースに考えてみることにした。今回もまたワンピースなのだが、赤のチェック柄のスカートに金のベルがクリスマスツリーのようにあしらってあり、それが揺れるのを表現するのがなかなか難しかった。一方、上はシンプルな黒のレザー生地のジャケットで、胸元に大きな赤いリボンを施しただけのシンプルものだったのだが、それをそのまま再現して露骨にヒカリちゃん意識を見せるのもどうかと思い、いろいろとアレンジの構想を思い描いていたのだが上手くまとまらず、すっかり深みにはまってしまっていた。

 連日、練習でヘトヘトになった身体に鞭打ってパソコンに向かう。それでもまだ完成にはほど遠い状態だった。前に、少し休もうとベッドに寝転がったらそのまま朝になってしまっていたことがあり、それで眠くなっても仮眠を取ったら負けだと学んだ。だから本当にフラフラになりながらの作業になっていた。

 ユリコとはあれから特に連絡を取っていないが、おそらく向こうも向こうで同じような準備をしているのだろう。しかし、当たり前のことだがフリートークとは言ってもコラボとなるといつもの一人でやっているものとは違う。いつもはその場の流れで話すことを考えているのだが、今回は相手がいるのだ。ある程度何を話すかを事前に決めておくべきではないかと思った。しかしそれでいざ考えてみると、私は、マリカは、いったいユリコと何を話すべきなのか、すぐには良い考えが浮かんで来なかった。

 ユリコチャンネルのページへ行き、改めてユリコのプロフィールを見てみる。

 ユリコ、二十歳、身長百六十七センチ、体重四十七キロ、趣味は漫画、アニメ、喫茶店巡り、スイーツ、みんなのアイドル、心のオアシス☆(笑)とあった。

 なるほど。まず思ったのは、背が高いなということ(奇遇にもそれは私と同じ身長だった)。マリカ的には自分の身長の低さ(百四十九センチしかない)をコンプレックスに思っているから、ここは羨ましくて仕方がないところだ。趣味は、正直言って合うとは言えいない。マリカは漫画にもスイーツにも特に興味がなかった。マリカはとにかくアイドル一筋な女の子で、歌やダンスを頑張って、それでみんなを幸せにすることしか頭に無いのだ。

 とりあえず身長のことは褒めよう、そんなことを考えていた時にふと気付いた。ユリコは、ユリコの主の理想なのである。ということはユリコの主は案外小さな人なのかもしれないと思った。そして小さいことをコンプレックスにしている。それは私と逆の身長コンプレックスだが、方向が違うだけで同じようなものだとも言える。趣味にそれなりにお金を自由に使えているところからみて歳上ではあるのは間違いないと思うのだが、何故だか急に親近感が湧いた。



 そんなこんなで忙しくしていたら、気付いたらクリスマスも終わっていて、お正月の朝だった。クラスメイトから来た「明けましておめでとう」のメッセージを見るまで、私は今日がお正月だということにまったく気が付かなかった。ということは当然昨日は大晦日だったのだが、いつも通り三人でダンスの練習をして、家に帰って部屋にこもりパソコンに向かっていた。大晦日のテレビを見逃したのはもったいなくも思えたが、分かっていても作業があるから見なかっただろうなとも思った。コラボの日はもうすぐそこだ。

 一階に降りるとお姉ちゃんがいた。「明けましておめでとう」と言うと、お姉ちゃんは「おめでとう」とだけ短く返した。

「あれ、お母さん達は?」

「もうお爺ちゃんの家行ったよ。叔父ちゃんとか、他の人達ももうすぐ着く頃じゃないの」

「あ、今年も集まるの?」

「集まるよ。お母さんが言ってたじゃん」

「それ、やっぱり私も行かないとダメなのかな?」

「当たり前でしょ。私だって友達との約束断って行くんだから。手伝いとかもあるし、絶対来なさいよ」

 お姉ちゃんの言う通り、お正月にお爺ちゃんの家で親戚一同集まるのは毎年の決まった行事で、新年の挨拶やら食事の用意やらで必ず行かなければならないことになっていた。

 親戚の集まりに行くこと自体は別に嫌なわけではなかったのだが、問題は茜ちゃんで、確か今日も十三時に学校集合で練習をすると言っていた。「さっさと着替えて来なさいよ」と言ってお姉ちゃんも家を出て行った。確かに早く行かないとお母さんにも怒られそうな気がする。仕方がない。とりあえず今日の練習は断らせてもらおうと、三人のグループに「明けましておめでとう! ごめん、今日親戚の集まりがあるみたいで、どうしても抜けられない……。申し訳ないんだけど、今日は欠席させて」とメッセージを入れる。ちょっと淡白だったかな、とも思ったが、これ以上何と言えばいいのだとも思う。五分後に優子ちゃんから「明けましておめでとう! 私も今日はちょっと厳しい~。お正月だもんね……」とメッセージが来た。ナイスな追撃だと思った。この時点で私のメッセージも優子ちゃんのメッセージも既読が「2」になっていて、茜ちゃんもメッセージを読んでいることは分かったのだが、茜ちゃんはなかなか返信してこなかった。多分、今頃優子ちゃんもモヤモヤしているのではないか。茜ちゃんの返信はそれから三十分後に来た。「了解。明日は予定通り十三時に学校ね」とシンプル過ぎてまったく感情が読めないメッセージだった。とりあえず今日の練習が無くなってほっとした。しかしよく考えてみたら今日はお正月なのだ。普通は練習なんてしない。

 お爺ちゃんの家に着いたのはそれからさらに三十分後だった。「あんた、遅い」とすぐにお姉ちゃんに怒鳴られ、それを見た親戚達に相変わらず仲が良いねぇ、と笑われて何となく二人とも恥ずかしくなった。本当に仲が悪いのに、みんないまいちそれを分かってくれない。お父さんはもうすでに酔っ払っていて、お母さんはお雑煮のお餅の数を聞いて回っていた。お母さんに「手伝おうか?」と聞くと、「いいから先に食べちゃいなさい」と溜息混じりで言われ、お言葉に甘えてお節料理をつまむ。向こうの方からお姉ちゃんが睨んでいることには気付いていたが、気付かないふりをした。「美由紀ちゃん、明けましておめでとう」と声をかけられ、見ると渡叔父さんだった。

「あ、おめでとうございます」

 渡叔父さんに会うのは去年のお正月以来だ。この一年で一番感謝をしなければならない人だった。なんせ渡叔父さんがいなかったらバ美肉はできなかったのだし、そうなるとマリカは存在すらしていなかったのだ。

「叔父さん、パソコンの件、推してくれてありがとうね」

「あぁ、あったね、そんなこと」

 そう言って渡叔父さんは笑った。渡叔父さんもけっこうお酒を飲んでいるようだった。

「で、プログラミングの勉強は捗ってるの?」

「捗ってます。毎日頑張ってますよ」

 嘘じゃない。最近は毎日安定して午前二時くらいまではパソコンに向かっていた。

「いいことだよ。これからの時代にプログラミングは必須能力だからね」

 叔父さんの言葉に私は深く頷いた。

 家に帰ったらもう夕方だった。すぐに部屋に戻りパソコンを開く。そこにはマリカがいた。『明けましておめでとう。今年もよろしく』とマリカの声で言ってみる。今年もマリカは最高に可愛いかった。



 中間発表会の演技は自分的には悪いものではなかった。むしろ練習の甲斐あってかチームとしても最高の出来だったと思う。それでも十三組中、十位だった。私は絶望に近い厚い壁を感じた。ここから先はもう技術云々ではない華がある人間だけが入ることを許された世界なのではないかと思った。

 順位が発表された時、茜ちゃんは隣でギュッと手を握っていた。悔しいのだろうな、と思っていたのだが実際は違って、茜ちゃんはこの十位という順位に何らかの手応えを感じていたようだった。発表会が終わった後、当然のように三人でいつもの食堂の窓の前に移動した。それで、茜ちゃんの第一声は「いけるかもしれない」だった。

「本番は振り付けをガラッと変えよう」

 茜ちゃんの言葉に私達は戸惑いを隠せなかった。

「えっ、何で?」

 と、優子ちゃんが恐る恐る聞く。それもそのはずで、この段階で振り付けを変えるということは、今日まで練習してきたことをすべて捨てることになるのだ。地獄だったあの練習の日々の記憶が蘇る。何故そんな馬鹿なことをしなければならないのか。校内選考会までもう一ヶ月を切っているのだ。

「今のままじゃダメなのは二人だって今日の発表会で分かったでしょ。同じこと本番の選考会でやっても多分勝てないよ」

 それは確かに私もそう思う。

「でもね、動き自体は良かった。今までで一番だったんじゃないかなって思うくらい良かった。だからあとは振り付けよ。振り付けが問題。もう一回練り直して選考会に臨むべきだよ」

 言っていることは分かるが、現実的ではないと思った。でも間違ってもいなくて、否定の言葉は出せなかった。私達の不安を悟ってか、「練習すればいけるって」と茜ちゃんが手を打ちながら言う。私はその音を聞きたくなかった。いったいこれから選考会まで一日何時間練習するつもりなのだろう。

「茜ちゃんがそう言うなら、頑張ろうか」

 そう言った横顔からして、どうも優子ちゃんは覚悟を決めたようだった。もうここまで来たなら同じだと思ったのかもしれない。それで私も覚悟を決めた。というか決めざるを得なかった。



 いよいよユリコとのコラボ当日、昨日の時点で準備はもう完璧だった。衣装もできあがってるし、事前の接続テストも問題なかった。コラボ告知の画像もユリコが作ってアップしてくれたし(それは早くもちょっとした反響を呼んでいた)、あとは本番を待つだけだった。にもかかわらず私はどうしようもなく不安だった。準備をしている時よりも準備をし終わった今の方が不安だというのもおかしな話だが。

 ベッドの上を意味もなく左右に転がり、落ち着かなかった。普段、私はあまり緊張をするタイプではないのだが、今は悔しいくらいにはっきりと自分が緊張していることが分かった。でも何と言おうとあと一時間でコラボは始まるのだ。

 パソコンの画面をつけると、マリカはもうコラボ用の衣装に身を包んでいて、凛とした表情で私を見つめた。その目には一切の迷いもなかった。偉いなと思った。彼女は本物のアイドルなのだ。アイドルは恐れたり迷ったりしない。ただただ笑顔でみんなを明るくするのだ。マリカを見てると不思議と緊張がほぐれてきた。それはおそらくマリカへの受肉が始まったからで、私が神になりつつあるからだ。神に恐れなど無い。なぜならそれは全方位に向けて完璧な存在なのだから。

『それはヒカリちゃんの衣装へのオマージュ?』

 コラボ配信を初めてすぐ、私がユリコの身長のことを褒めるよりも前にユリコからそう言われて驚いた。今までも何度かヒカリちゃんの衣装をベースにマリカの衣装を作ったことはあったが、それを言い当てられたことは無かった。

『うわ~。よく分かりましたね!』

 驚きはすぐに私の中で気付いてもらえた喜びに変わり、マリカが手をパチパチと打つ。バックに拍手とファンファーレの効果音を鳴らしてみた。

『マラカス少女隊は私も大好きだったからね~。あ、でも推しはサナエちゃんだったんだけどね(笑)。マリカはヒカリちゃん推しだったの?』

『私はもう断然ヒカリちゃん推しです! ヒカリちゃんは本当可愛い過ぎて神です~。マジ半端ないです~!』

 言ってから、感情が先走ってしまったと少し後悔したが、ユリコは『ヒカリちゃん可愛いよね~』と合わしてくれたし、コメント欄も意外な共通点~、こういうの聞けるの貴重なコラボ! そう言われてみればマリカ、ヒカリちゃんカットじゃん!笑 と、盛り上がってくれたので、まぁ、これはこれで良いのかなと思った。ユリコが『マラカス少女隊の歌はけっこう歌える感じ~?』とマリカに聞く。

『もちろん全部歌えますよ~。昔はテレビの前でよくお姉ちゃんと一緒に歌って踊りました』

『へぇ~。お姉さんがいるんだ~』

 と言われて「しまった」と思った。お姉ちゃんがいるのはマリカではなく私だ。しかしコメント欄では既に、マリカのお姉ちゃん見てみたい~、めちゃくちゃ似てそう笑、とお姉ちゃんに対するコメントがいくつか入っており、もう後には引けなかった。思えばマリカの姉妹設定なんて今まで考えたことがなかった。でも、お姉ちゃんがいて一緒にヒカリちゃんに憧れていたという設定も悪くはないなと思った。

『そうです~。お姉ちゃんもアイドル志望だったんです』

『そうなんだ! お姉さん、今は何してるの~?』

『え、今は普通の大学生です(笑)。でも今でもヒカリちゃんは大好きですよ~』

 急に聞かれるものだから頭の中で設定が追いつかない。でも、大学生なんだ笑、とコメント欄ではややウケていた。咄嗟に言ったことではあるがマリカのお姉ちゃん像は間違いなく私の理想のお姉ちゃん像だった。私は、お姉ちゃんにもヒカリちゃんを諦めてほしくなかったのだなと改めて思った。『すごい仲良しですよ~』と言って、自分の言葉で自分の心が少し締め付けられた。ユリコは『それは良き良き~』と笑っていた。

『ユリコちゃんは背高くて憧れます~』

 と、配信が始まってから十五分でやっと言えた。

『え~! ありがとう~。でも私はマリカちゃんみたいな可愛らしいタイプの方が憧れるな~』

 そう言ってユリコが微笑む。我ながら面白い掛け合いだなと思った。お互いがお互いに理想を手にしつつ褒め合う。持っていないものなど本当は一つも無いのだ。幸せしかない会話だなと思った。

 ユリコとのフリートークはそんな感じで終始幸せな時間だった。始めてみると会話は滞りなく進み(それはユリコが上手くリードしてくれたからだと思うのだが)、コメント欄を見た感じ、視聴者の人達も満足してくれたように思えた。とりあえずこのコラボは成功だったと言っていいだろう。

 コラボ後にチャンネル登録数を見てみると、予想していた以上に増えていて驚いた。やはりユリコの影響力は大きい。それで私はまたすぐにユリコにDMを送った。

『今日は本当にありがとうございました! すごく有意義な時間で、楽しいコラボでした~。是非またコラボできたら嬉しいと思っています♪ おかげさまでチャンネル登録数も増えました。本当に感謝してもしきれないです涙涙 これからもよろしくお願いいたします!』

 コラボの後なのだから、当然今日は返信が来るだろうと思っていた。そしてもちろん返信は来た。しかしそれは意外な内容の返信だった。

『こちらこそありがとうございました~! 貴重な時間でしたね! マリカちゃんの配信は本当に素晴らしいので、それを視聴者の皆さんに知っていただけるきっかけになったのなら私としても嬉しいです★ ところでマリカちゃん、良かったら今度一回会ってお話してみませんか?』

 会う?

 今までそんなことを考えたこともなかった。

 そもそもユリコのことを私が会えるような存在だと思っていなかった(マリカなら会えるが)。だから少し混乱した。でもよく考えたらこれは、ユリコが私に会いたいと言っているのではなく、ユリコの主が私に会いたいと言っているのだと理解した。それならば現実的で、可能なことである。

 少し迷った。何故迷っているのかは分からなかったのだが、迷った。でもけっきょく私はユリコの主に会うことにした。決心して『是非お会いしましょう!』と返信してしまうと楽にはなったがどこかふわふわしていて、不思議な気持ちにもなった。

 会っていいのだろうか? そう自分に問いかけると、逆に何で会ってはダメなのか? と心は言った。あ、そうだマリカ、マリカ、と画面のマリカを見ると、やはり彼女は優しく微笑んでいて、可愛い。そんな彼女は私なのだ。だけどユリコの主と会うのはマリカではない。私、畠田美由紀なのだ。そう思って私は初めて自分が何故ユリコと会うのを躊躇っていたのかが分かった。私は、ユリコの主が畠田美由紀を見て幻滅しないか不安だったのだ。せっかくユリコとマリカは今良い関係性を築けているのに、それを私がぶち壊してしまうのではないかと思ったのだ。

 やはり会うべきではないのかもしれない、と思ってベッドの上で仰向けになって考えていると、DMの受信音がパソコンのスピーカーから鳴った。それはもちろんユリコからだった。ユリコはコラボの時と同じように会う場所と日時を示してくれた。場所は池袋の喫茶店で、日時は一週間後の夕方だった。画面に映る具体的な情報で、話が一気に現実のものとなる。コラボの時とはまた違う緊張感があった。今回は何も無理をして衣装を作ったりする必要も無い。軽い気持ちでただ会えばいいだけなのだ。しかしどうしてもそんなふうには思えなかった。私は、畠田美由紀は、弱い。



 授業終わりに先生に呼ばれて、何かと思ったら進路のことを聞かれた。これは別に私に限って話を聞いているわけではなくクラス全員に順番に話を聞いているらしいのだが、進路のことなんて何も考えていなかったので少し戸惑った。うちの学校は私立で、ちょっとした進学校でもあったので、そういう話が出てくるのも早いのかもしれない。

 正直に「まだあまり考えていません」と言うと、この段階ではそういう回答をする生徒も多いのか、先生は別に戸惑うでもなく、私の今の成績から考えられる大学をいくつか紹介してくれた。そして最後に「まぁでも、これからの努力次第だよ」と言った。けっきょくのところ初期段階の大学受験への意識付けという感じだっただろう。でも私もあと三ヶ月後には二年生になるのだし、だんだん「何も考えていない」というわけにはいかなくなるのだろうなと思った。

 廊下の窓から、食堂の窓の前でストレッチをする茜ちゃんと優子ちゃんが見えた。急がないといけないと思い、小走りで校舎を出る。一月の純度の高い冷気が首筋を通り過ぎる。私は冬の沖を飛ぶかもめになったかのような気持ちで、部室までの道を完全に走っていた。

 とっくに部活が始まっている時間だったので、誰もいないだろうと思い勢いよく部室のドアを開けると、意外なことにそこには水町先輩がいた。私も驚いたが、水町先輩はもっと驚いていた。

「すみません。おはようございます」

 ダンス部内の挨拶は何時だろうと「おはようございます」と決まっていた。なるべく自然に挨拶をしたつもりだったのだが、あまり自然な感じではなかった。気まずい気持ちのまま、鞄から練習着を取り出して着替え始める。水町先輩も練習着に着替えているところだった。同じ女性にも関わらず、水町先輩が隣で着替えていると思うと緊張した。今日も水町先輩は相変わらず凛としている。雲の上の先輩だからというのもあるが、少しとっつき難い人ではあった。しかしそれにも増してこの人は、綺麗過ぎる。最近何だか緊張することが多いなぁ、なんて思っていると、「今日は遅いのね」と水町先輩が不意に言って、最初は私に話しているのだと思わなかったのだが、普通に考えたら今ここには私と水町先輩しかいないので私に話しかけたのだと考えた方が自然で、慌てて「あ、はい」と答える。舌が絡まったような声になっていた。

「先生から進路のことを聞かれてて」

「あぁ、私も同じよ。私も先生から進路の話されててこの時間。そろそろ志望校固めろって言われたわ」

 そうなんですか、と言いつつ、一年後にはそんなことを言われるのだなと思った。

「あなたのチーム、毎日けっこう遅くまで練習してるわよね」

「そうですね……毎日遅くまでやってます」

「食堂の前で懐中電灯? か何かで照らして踊ってるの、毎日練習終わりに見かけるから」

「あぁ、そうです。それ、私達です」

 見られていたのかと思うと一気に恥ずかしくなる。というか、水町先輩もそんな時間まで残って練習をしているのか。

「中間発表会は十位だったね、確か」

「そうです」

 改めて言われると恥ずかしい成績である。

「でも前よりだいぶ上手くなってたと思うよ」

「本当ですか?」

 まさか水町先輩にそんなことを言われると思っていなかったので嬉しかった。

「うん。相当練習したんだなって思った」

「ありがとうございます。でも今また振り付けを全部変えて練習してるんです」

「えっ、全部? 何で?」

 水町先輩は驚いていた。

「この前の中間発表会は割と自分達の満足いく踊りができたんですけどそれでも十位だったから、それならもういっそ振り付けを変えてしまおうってことになって。同じことやっても勝てないだろうって、茜ちゃん、うちのチームの沢田さんが決めたんですけど」

 褒められたからか、緊張しながらも何故か今は言葉が滑らかに出る。水町先輩とこんなに言葉を交わすのは初めてだった。

「沢田さんって、センターで踊ってる子よね?」

「そうです」

「そっか。でも振り付けかぁ。うーん、何か私はそういう問題じゃないと思うけどね」

 水町先輩は灰色のパーカーに腕を通しながら言った。少し笑っているようにも見えた。

「振り付けの問題じゃないですか?」

「そうね。まぁ、この際だから思ってたこと言うけど、もっと根本的な気持ちの問題じゃないかなって私は思うよ。振り付けとかそういう話じゃなくて」

「気持ち、ですか?」

「気持ち。んー、チームというよりあなた自身のよね。自分で気付いてない?」

「えっ」

「畠田さんって、何かもう自分に満足しちゃってるでしょ。踊ってるの見てたら何となく分かるよ」

 さっきまでの褒められた喜びはもうどこかに消えていた。心臓が激しく脈打つのが分かる。

 私は私の踊りに満足している? 答えはノーだ。でも、私が私に満足しているかというと、それは正直言ってイエスである。私というのはマリカを含めた私。私はそれに満足をしている。それはそのはずである。何故ならマリカは私の完璧な理想なのだ。それを手にして満足をしていないはずがない。ただ、そんなことを誰かに言い当てられたのは初めてだった。

「そういうの、分かる人には分かるのよ。あえて悪い言い方すると、慢心って言うかさ」

 水町先輩は後ろ手に髪を括りながら言う。その仕草は本当にドラマのワンシーンのようだった。返す言葉が一言も出なかった。

「いや、別にそれが悪いって言ってるわけじゃないのよ。個人としてはね。自分の踊りに自信を持つことは大切だと思うし。でも、今はチームでやってるわけだからね」

「はい」

 何とか捻り出した一言がそれだった。

「他の二人は心の底から本気って感じだから、どうしても意識の差を感じちゃうのよね。あの順位の原因はそこじゃないかな。踊り自体は悪くなかったと私も思うわ」

 私は目を伏せて「ありがとうございます」と言った。これもダンス部内の決まりで、先輩や先生から指摘を受けた時は「ありがとうございます」と頭を下げることになっていた。「お互い頑張ろうね」と言ってやがて水町先輩は部室を出て行った。

 私も二人が待っているので急いで着替えて部室を出る。食堂の窓の前まで行くと二人はもう踊り出していた。茜ちゃんは遅れてきた私に「進路の話?」と聞いた。私が頷くと溜め息をつき、それなら仕方がないという顔をした。その日も遅くまで踊ったが、ずっと心が痛かった。食堂の窓に映る自分を見て、私ではない誰かが踊っているような錯覚に陥った。

 選考会の順位が上がらなかったのは本当に私のせいなのだろうか、と帰ってベッドに横になって真剣に考えた。確かに中間発表会での踊りはチーム全体として上手くできた。でも順位は伸びなかった。私はそれを自分達に華が無いことが原因だと思っていたのだが、水町先輩の言うように、それ以前の気持ちの問題であった可能性も拭うことはできない。なぜなら言い当てられた通り私は私に満足をしている。それが踊りに出ていると言われても否定はできない。他の二人はおそらく自分に満足などしていない。茜ちゃんなんて特にそうだ。そこに意識の差が見えると言われても仕方がないだろう。

 何度も言う。マリカは私だ。でもこうして高校生活を送る私は、マリカではない。誰も畠田美由紀にマリカを見ない。でも私は理想を手にしている。それは紛れもない事実ではあるが、畠田美由紀は果たしてどうか。気付かない間に自分の抱いていた理想から遠ざかってしまっていたのではないか。

 水町先輩はあんなに綺麗でダンスも上手いのに努力することを怠らない。遅くまで残って練習するし、他のチームの踊りもしっかりと研究する。おそらく水町先輩にも水町先輩の理想があり、彼女は毎日着々とそれへと歩みを進めているのだろう。しかもそこで得るものは現実に手で掴める確かなものであって、誰もがそれを認めざるを得ないものなのだ。

 そもそも水町先輩は何故私にあんなことを言ったのか。おそらくは単純にタイミングが合って話す機会ができたからなのだろうが、誰に対してもあんなことを言うわけではないと思う。もっと順位が上のチームの人にだったら、水町先輩は何も言わなかったのではないか。選考会は真剣勝負で、その前に敵に塩を送る必要なんて一つも無いのだから。では何故私にはあんなアドバイスをしたのか? 答えは簡単。水町先輩にとって私など眼中に無い存在だからだ。何をどうしても畠田美由紀に負けることなど無い、そう思っているのだ。それは確かにそうだ。畠田美由紀では逆立ちしても水町先輩には勝てない。でもマリカなら勝てる、と思っている。だから悔しさはなかった。マリカは神だから誰にも負けない。それで私は満足だった。

 天井の電気に自分の手を透かしてみる。白濁とした光が畠田美由紀の細長い指の間から漏れていた。こんなふうに自分の手をじっと見るのは本当に久しぶりのことだった。マリカさえ完璧でいてくれるのであればここにいる畠田美由紀など別にどうだっていい。いつの間にか私は畠田美由紀についてのいろいろなことを諦めていた。選考会の順位が上がらなかったのは水町先輩の言う通り私のせいだと思った。

 私は肉を捨てかけている。私の全てはもうマリカの中にある。受肉。その言葉が頭に浮かんだ。心の在り方、肉の存在。電気を消すと部屋は真っ暗になり何も見えなくなった。

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