対決は日曜日

のなめ

***

 二階から降りてくる足音が聞こえた。私は即座に立ち上がり居間の出入口へと急いだ。のぞき込むと折よく娘の姿を見つける。娘は流し目で私の方に目をやると、それっきり二度と視線を合わせることなく、玄関へと駆けていく。私も小走りで娘の後を追った。

 腰を下ろして靴ひもを整える娘の姿。私はそれを後ろから眺めることしかできないでいた。

 どことなく不穏さが漂う。

 背後からものを言おうとするも、何も言うことができないままやはり徒労に終わる。娘は颯爽と立ち上がると、いってきます、を告げることなくドアを開けて、そこから出て行った。


 見送った後に棒立ちのままでいるとやがて仕方なく居間へと戻る。舞い戻るとテーブルの上にはカップ麺がポツンとひとつ。

 緑のたぬき。

 思わず目をそらした。

 私がそばを苦手にしているをいいことに妻が仕込んだいやがらせだった――。



 私は昨日、妻と娘の双方を相手に久方ぶりの大喧嘩をした。きっかけはよくある話。中学生の娘が異性と交際していることだった。別段、ただれた関係だとか不純異性交遊というわけでもなく相手は同じ学校の同級生。

 至ってまともな交際だから、と妻は太鼓判を押すように言った。妻は随分前からそのことを知っていたようである。

 私にとってはまずそれが気に入らなかった。全くの初耳だったからである。もちろん腹を立てた理由はそれにとどまらない。


 私は他人からすると、まさしく、親バカだと呼ばれる類の人種らしい。これといって気にすることもなかったが、たしかに小さいときから目に入れても痛くないほど娘を溺愛していた。

 今でもそれは変わらない。この間もピースサインをした娘の二本指が、はずみで私の目に刺さったが、そのとき腹を立てることなく笑って流した。実際に娘を目に入れた気になって少し嬉しく感じていたことを私は認めよう。

 そんな大事な娘を名も顔も知らない男に仮初とはいえ、いいや、どこの馬の骨かわからない男に永久に奪われてしまう恐れもある。そう思うと気が気がなくなり、私は断固として交際について反対の意思を表明し続けた。

 それを発端に娘は私を邪見にし、妻は食事を作ってくれないまま、挙句にそばでいやがらせをするに至っていた。


 昨晩から合わせるとまるまる三食を抜いていることになる私の腹具合。自ずと腹の底からグーというサインが鳴る。目の前に置かれた誰もが目にしたことのある馴染みのカップそばを物憂げに見た。

 すると図ったようにして妻が居間へと入ってくる。一見するやいなや、フンという掛声とともに右斜め上に向かって顔を逸らした。

 娘のときよりも残酷な仕打ち、いくらなんでも大袈裟すぎる。

 私が何をしたというのだろう。私はただ娘が心配なだけでそれについてほんの少し我を通しただけじゃないか。内心で叫ぶようにして妻を見ていた。



 お昼過ぎ、休日で何もやることはなく、空腹の中で頭を抱えるしかなかった。

 なぜだ、私の何が間違いだというんだ。

 近所にあった教会の神父さんにいっそ相談でもしてみるかと一瞬よぎったが、根っからの仏教徒だった私はキリスト様になんだか悪い気がしてそれを引っこめた。

 代わりに貧乏ゆすりで気を紛らわす。

 リビングのソファーでくつろぎながらテレビを観ていた妻がそれを見つけて指摘する。

「あなた、それ、やめてくれない?」

 私は睨むように直談判したが屁ほどの効果もなくそれは軽くあしらわれた。妻はそのまま煎餅をかじりながらテレビの画面へと居直る。

 どういうことだ、ここは俺の家でもあるんだぞ。

 その煎餅を俺に一口くらいかじらせてくれてもいいじゃないか。

 なぜ俺がこんなに肩身の狭い思いをしなければならないんだ。

 だんだんとむかっ腹をおさえきれなくなっていく。

 畜生、背に腹は代えられない、苦手だったが目の前のそばでも……というところで来客を知らせるチャイムがなった。


 私は動かなかった。

 が、妻も動かない。

 もう一度、玄関先からの催促音が家中に響き渡る。

 妻の方を見ると無言で、対応しろ、という指示らしきものを受けた。仕方なく私は従う。

 インターホンのモニタを覗くと近所で植木職人を営むよしさんの姿があった。

 ドアを開けると出会い頭に、「なにかあっただろ?」というお言葉を心配そうな表情付きでいただいた。私の顔色をうかがってのことかと勘違いしたが、どうやらそうではないらしい。

「あかりちゃんからいろいろ聞いてさ」

 件のことが近所にまで……私は空腹のせいだけでなく、頭がクラクラするようでもあった。

「いつものとこでどうよ?」

 缶ビールの束を掲げながら義さんが言うと、近所の公園で昼間から酒盛りすることを私は決めた。



 休日のわりに公園には人が少なかった。

 義さんは勢いよくビールを開けるとさっそく口元に運んだ。

「ぷはーっ」昼からやる酒は格別だな、と言いたげな義さんの表情。

 私もちびりといただく。すきっ腹にこたえた。

 陰気にやっていると、義さんが陽気に取り直す。

「辛気くさい顔してんじゃないよ、そんなに娘のことが心配かい? あかりちゃんならうちんとこの翔平しょうへいと遊んでるよ」

 瞬間に勘ぐる。ま、まさか相手は翔平くん? 私は動転していた。それを察してか義さんが唐突にはさんだ。

「なにか勘違いしてないかい? あかりちゃんの相手はせがれじゃなくて、せがれの友達だよ」

 それを聞くと、一瞬だけ安心してから、なぜだか、さっきよりも大きい不安の波にさらされた。のぞき込むようにして義さんは私を見ると、鼻で笑い、そのまま砂場のほうに目をやる。

 そこでは男の子と女の子が仲良く遊んでいた。

「あかりちゃんと翔平もああしてよく遊んでたもんだよな」

「ああ、うん」

 睦まじい光景に触発され、二人の前にはいつかの郷愁が浮かび上がる――。


 私たちは傍においた缶ビールを何本開けてもベンチに居座り、その重い腰を随分と上げなかった。なかなか酔うことができない私を尻目に義さんは酔いの勢いに任せて切り出し始める。

「翔平から聞いたけどさ、あかりちゃんの相手はなかなかの奴らしいよ」

「そんなことはどうだっていいよ」

「どうな奴でも気に入らないということかい?」

「そりゃ、もちろん」

 そう返すと、義さんは少し間を開け、調子を崩さずに言った。

「翔平のやつさ、あかりちゃんのことを好きだったらしいんだよ、ほんとは」

 私は驚愕しながら義さんを見据える。

「くっそーって罵りながら言ってたよ、それでもまあ、アイツだったらしょうがないかもって」

 複雑な心境で聞いた。

「あかりちゃんもどうやら真剣みたいだよ」

「いや、でも」

 言葉に詰まる。

「うちの翔平には見る目がないかな……」

「そんなことは……」

 義さんや翔平くんにそこまで言わせたのならば、自省すべきかなとも思った。



 そのあと私は立て続けに残りの缶ビールをすべて開け、結局、いい塩梅になって家路についた。

 玄関を開けると、まずは娘の靴を確認してから居間にあがる。相変わらず、こちらに何の関心を持たないまま、妻は寝そべりながらテレビを観ていた。

 どうせ私の居場所はここだけですよ、などと悪態をつきながら椅子に座ろうとすると、テーブルの上には緑の相棒である赤いきつねが並べて置いてあった。私は置かれたふたつに釘付けになって、どういうことだ? と考えを巡らす。

 新手のいやがらせなのかと訝しげにしていると、少し離れたところからどこか張りのある声が聞こえてきた。

「あかりからあなたに差し入れみたいよ。あんまり可哀相だからってさ」

 私は思わず顔をほころばす。

 それを見つけた妻はソファー越しに私へ視線を送りながら、ニヤリとしていた。

「なあ、みどりこ、あかりを呼んできてくれないか?」

「あなたが自分で呼びに行けばいいじゃない」

「頼む」

 そう言うと、妻は速やかに応じてくれた。


 娘が居間に入ってくると、まずはしっかりと顔色を確かめる。どうやら、煙たがられていることは相変わらずらしい。それにすこし気圧されそうになったが、言いたかったことを端的に口にした。

「今度、鉄也くん、という子をうちにつれてきなさい」

 義さんから聞いた子の名前を出す際、なるべく平静を装ってみたが、そんなことはおかまいなしに娘の顔つきは一瞬にして変わる。

「え、マジで? いいの?」

 二言はない、という具合に私は頷く。

 歓喜はすぐ隣にも伝わった。

「よかったね、あかり」

 妻が娘と手を取り合って喜びを分かち合う。

「うん。うん、絶対、お父さんも気に入るから楽しみにしててよ」

「さあ、これからご馳走つくるわよ」

「私も手伝うよ、あ、それと鉄也くんがくるときもお願いね、お母さん」

「あいよ」

 まるで二人は祝い事の最中。

 そこで私は慌てふためいて言う。

「ちょっとまて、うちにつれてこい、と言っただけだ」

 二人は手を組んだままポカンとしてこちらを見た。

「交際を許すかは、そのあと、だ」

 私は、精一杯、絞り出すようにしてそう結んだ。



 それから私はテーブルに並んでいたカップ麺を食べることになった。

 うどんとそば、いずれもである。

 嘆いてばかりもいられない、少しでも対決の日まで英気を養っておかねばならない。

 うどんの方は娘の気遣いがお揚げに乗っているようでペロリと平らげる。問題は妻に仕組まれたようにあった苦手なそばだったが、……これが存外なほどにうまかった。今度の日曜まで毎晩の食事がこれになる覚悟はとうにできていたが、これならばと根拠のない自信を持つに至る。

 それにしても私はこれまでなぜそばが苦手だったのだろうか? 頭を傾げると、つゆを啜りながら考えた。

 単なる食わず嫌いなだけだったのだろうか。

 もしかすると、娘の相手も……いや。

 カップの底にあった欠片をつまみながらもまた考える。

 ひょっとすると、彼もきっと……いやいや。

 すっかり平らげると妻が無言で麦茶を出してくれた。多少荒っぽいコップの置き方だったが私は黙ってそれをいただく。

 妻はやはり偉大なのかもしれない、心のどこかで私は思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

対決は日曜日 のなめ @YangMills

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る