涙は流れる瞬間が一番温かい
川谷パルテノン
望み
彼は歌いたいのだと言った。出来れば多くの人前で披露したいのだと。ぼくはそれは難しいだろうと答えた。彼の綺麗な瞳からスッと垂れた涙は今思い返しても切なく胸が締め付けられる。
彼と出会ったのはクラブのトイレでだ。ぼくは毎晩のようにボーイフレンドを探した。厳密に言えば恋人を。しかしながら一夜を共にすればあっさりとした冷気が偽善的な親しみをなかったかのようにまで現実に引き戻してしまうので、ぼくにとっては恋人とはなんだろうかと考えるキッカケでしかなかった。そんな折、彼はトイレで蹲ってゲーゲーと嘔吐していた。酷く酔ったのかぼくが大丈夫かいと尋ねても一滴も飲んでいないと馬鹿げた答え方をした。ところがそれは本当だった。彼が酔っていたのは酒ではなくこの
地球を侵略するつもりにしては優しすぎやしないか。ぼくの疑問はそのまま彼への問いになる。彼は今の立場が向いていないことは自分でも知っていると言った。とりあえず彼には二年の猶予が与えられていて、それまでにこの星の文化を考察し効率的に乗っ取る方法を開発することが義務付けられていた。彼が自分の住んでいた星に、つまり彼の上司とやらに定期であげていた報告を翻訳してくれたことがある。どれもデタラメで笑った。君たちはどこまで本気なんだいと聞けば「上は躍起さ」と彼は言った。君自身はと聞けば「さてね」と言ってぼくを抱きしめた。ぼくは自分がされたように彼の脇腹をそっと小突いた。
二人で買い物に出かけて、ひととおり目的のものを手に入れた後、彼の提案で古いレコードショップに入った。今や音楽は手軽なものでこう言った店はレトロなものとされていた。旧時代に憧憬する趣味人たちの憩いとして残っていたけれど現実的な話では好きでなきゃやらない商売と言えた。彼が店主に「聴いても?」と尋ねれば、オヤジは「買うならね」と嫌味っぽく答えた。彼が盤に針を落とすとゆったりとした曲が店全体に響き渡る。彼は目を閉じたまま曲を全身で聴いているかのようにじっと動かなかった。「知ってるのかい?」質問するぼくの口に彼はそっと指をあてた。彼はそのレコード盤を買った。
あいにくターンテーブルなんてなかったのだけど彼は飾ったジャケットを眺めたりするので満足なようだった。安いソファは座り心地が最悪で、捨てるにも金がいるからというだけで残したそれは尻にゴツゴツしたスプリングがあたって痛いくらいなのに彼ときたらそこに座って子供みたいな目で買ったレコード盤のジャケットを眺めてはその中に仕舞い込んである曲を自分で口ずさんでいた。
彼の異変に気づいたのは一緒に暮らし始めて三ヶ月目くらいの頃。咳がひどくなっていて洗面台に血を吐いたりした。緑色のそれが血液なのかはわからないがぼくらにとってのそれなのだ。彼は日に日に痩せこけて、所々ニンゲンではなくなってきていた。
彼はベッドで寝たきりのままぼくに向かって「大勢の前で歌いたい」と告げた。ぼくは「難しいじゃないかな」と答える。体力的にも、見た目的にもとまでは言わなかった。なんとかならないかと握り返した手は力強くてなんとかなりそうな気もしたけれど、ぼくは子をあやすように「いつかね」と嘘をついた。
街ではデモ活動が盛んだった。新しく就任した市長の過去のスキャンダルが表立って、怒り狂った市民は暴動寸前の事態だ。ぼくはどこか蚊帳の外で街の未来よりも彼の体調が気がかりだった。ぼくはこの時いいアイデアを思いついた。彼を大勢の観客の前で歌わせてやれるかもしれないと。
ぼくは計画を実行した。借金して高価なカメラを買った。そいつで暴動の様子を撮影する。映像は自宅のパソコンに繋がっている。ぼくは彼に電話を繋いだ。
「見える?」
「ああ」
「聞かせてくれるかい?」
「ありがとう」
彼は歌い始めた。あの日、レコードショップで流れた曲。本当に聴いてるのはこの喧しさの中でぼくだけだったけれど、彼は気持ちよさそうに歌っていた。音楽に涙する日がくるなんてぼくには彼が異星人なことよりも信じがたいことだったけれどそういう日が来ると昔の自分に伝えてやりたい。歌が終わると彼はもう一度ありがとうと言って、今から帰るよと告げると待ってると嘘をついた。
あれから地球は侵略もされていなければ、街は市長が変わったくらいの変化でいつもどおりだった。ぼくはクラブ遊びをやめてレコードショップのアルバイトになった。まあほぼボランティアみたいなもんだったけれどぽっかりと空いた穴を埋めるにはここがちょうどいい気がしたんだ。
涙は流れる瞬間が一番温かい 川谷パルテノン @pefnk
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