第9話 官能の息吹 ブラッシュアップ不足バージョン
昨日の猛り狂った様相が嘘みたいに、穏やかで行儀のよい、僕の下半身だった。それは、浜辺さんだけを想い、果てに果てて、到達した紳士の下半身だった。どこに出しても恥ずかしくない、自慢の下半身だった。
愛情を拠りどころとしたプラトニックな自慰、その無数の発射によって、僕はもう、全うな社会生活を送れる体を完全に取り戻していた。
暁に降った雨が、大気を湿らせている。大きく息を吸い込むと、体中の不純物が洗い流されたような気がした。朝の美しい青空を見上げて歩いていたから、小さな水たまりに足を入れてしまって、ズボンの裾が少しだけ濡れた。
逢いたい、浜辺さんに・・・・・・。
銚子電鉄の踏切を渡り、君ヶ浜高等学校の校舎が視界に入ると、僕はもう居ても立っても居られなくなって、同じく登校中の生徒たちの合間を縫って走り、浜辺さんの御膝元へと急いだ。そうして辿り着いた2年D組の教室は、もはや学び舎の体裁すら整えておらず、丸っ切り僕と浜辺さんの愛の巣で、クラスメイトたちの談笑などはスズメの囀りにしか聞こえず、チュンチュン、チュンチュンと響くなか、僕を見つけた浜辺さんの顔は、初夜の明けたうら若い新妻の顔そのままだった。
「おはよう、花井君」
痴情を乗り越えた親愛が、その声には滲み出ていた。昨日までのものよりも更に強く情愛を刺激する声だった。
耳から犯されて、僕は浜辺さんの足下に身を投げたい衝動に突き動かされるも、必死にこれを抑え、紳士然とした佇まいを保ちながら、「おはよう、浜辺さん」と口にした。
視線と視線がキスをして、僕の心は甘酸っぱさに満たされた。満たされて、尚もその快感を貪欲に欲し、僕は浜辺さんの大きな瞳を視姦し続けた。
浜辺さんが、恥じらい、僕から顔を背ける。そうなってさえ、僕は浜辺さんから目を離すことが出来なかった。彼女の横顔も、襟から覗くうなじも、制服に隠れた背骨のラインも、剥き出しの膝裏も、全てが魅力に溢れていて、僕の視線はブッドレアの蜜に伸ばされた蝶の口吻であるかのように、甘美な視覚を貪り続けた。
授業が始まってさえ、僕の意識は全て、浜辺さんだけに向けられた。英語の授業に際しては、教師にギリシア神話の一節を朗読するよう求められた浜辺さんの流暢な発語に感心しつつ、その淡いHの発音の色香に誘惑され、僕は授業そっちのけになって、浜辺さんのHの発音を反芻した。数学の授業に際しては、教師に複雑な等式の証明を求められた浜辺さんの完璧な解答に感心しつつ、花井潤の全てイコール浜辺娃の物、という等式まで証明されてしまい、僕は授業そっちのけになって、浜辺さんに全てを捧げられる幸福に善がり狂った。古典の授業に際しては、教師に万葉集の和歌を一首暗唱するように求められた浜辺さんの美しい詠に感心しつつ、その和歌、夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ、に秘められた浜辺さんの思いを想察し、胸が苦しくなった僕は授業そっちのけになって、浜辺さんを抱き締めたい熱情を必死に抑えた。生物基礎の授業に際しては、教師にホルモンの解釈を求められた浜辺さんの簡潔な説明に感心しつつ、その美しいまでの知性に雄の部分を刺激され、精巣ホルモンの分泌を促進された僕は授業そっちのけになって、盛りの付いた犬みたいな哀愁漂う瞳で浜辺さんを凝視した。
勉学を放棄し、ひたすらに浜辺さんを愛で続けた時間は、正しく、光陰矢の如しであった。幸福な時間の儚さに恐怖を懐きつつ、しかしそれを遥かに上回る歓喜を以てして、僕は活力に満ちた目で、浜辺さんを見詰め続けた。もう、昼休みだった。
浜辺さんは、クラスメイト三人と一緒に教室で昼食をとるようだ。四人とも、お弁当を持参している。浜辺さんのお弁当箱は、清潔な無地の小風呂敷に包まれていて、その結び目を解くほっそりとした美しい指の動きは、艶めかしい蛇のくねる様に似て、僕の全身をぞわぞわとさせた。
露になる、浜辺さんの、弁当箱。それは2段の作りで、1段にはサンドイッチ、もう1段には色とりどりのおかずが敷き詰められていた。栄養バランスがとれていて、尚且つ、一目で美味と分かる弁当。それが、四人の会話の内容から、浜辺さんの手作りであると知れて、僕は浜辺さんの多才を改めて思い知り、小さな感嘆の声を漏らした。
浜辺さんが、その形の良い口を以てして、手に取ったハムサンドを、食んだ。蜜を啜るハチドリのような愛らしい所作だった。咀嚼ばかりか嚥下までもが上品で、浜辺さんは、摂食という最も原始的で動物的な行為を美術の域にまで昇華していた。浜辺さんの食事風景を観賞することは、正しく、ルーブル美術館を巡ることと同義だった。
恋は空腹を忘れさせる。僕は、窓際の席に根が生えたようになって、開け放たれた窓から入り込んでくる穏やかな海風に前髪を小さく揺らしながら、自らの昼食のことなどは失念して、浜辺さんに見入った。
全神経が、目に集中していた。そんな状態にあって無防備きわまりない僕の右耳を、官能の息吹が襲ったのは、浜辺さんがキャベツのマリネに箸を伸ばした刹那のことだった。
外耳孔を羽毛でくすぐられるが如き、快感。その強烈すぎる刺激に、僕は喘ぎ声を漏らし、全身が一気に弛緩して、椅子から転げ落ちた。
快感の余波で全身をビクンビクンと震わせながら、僕は、僕を見下ろしながら腹を抱えて笑っている女子を、見上げた。
「何てことをするのさ、香織」僕の右耳に息を吹き掛けておきながらこれっぽっちも悪びれる様子を見せずに腹を抱えて笑っている女子を、僕は詰った。「酷いじゃないか」
「敏感なくせして隙だらけのあんたが悪いのよ、潤」尚も笑いながら、香織は不条理なことを言い放った。
香織の余りにも酷い言い草に、僕は心底から呆れ果て、首を横に振りながら椅子に座り直し、大きくため息を吐いた。
「何? その態度?」まるで変面のように、笑顔から不満顔へと素早く面相を変えた香織が、言った。「幼馴染がわざわざちょっかいを出しに来てあげたのに、そんな生意気な態度をとるなんて、あんた、ちょっと失礼なんじゃないの? 何様?」
「香織こそ、何様なのさ?」僕は素直に不平を示した。「来てあげた、なんて上から目線で物を言ったりしてさ。呼んでもいないのに勝手に来た香織を丁重に持て成す義理なんて、僕にはないよ」
「変わっちゃったわね、あんた・・・・・・」芝居がかった悲痛な表情を作って、香織が言う。「昔は、私が一緒じゃないとトイレにも行けない可愛い子だったのに・・・・・・」
「幼稚園の頃の話じゃないか、そんなの!」恥ずかしさの余りに、思わず大きな声を出してしまう。
「そうだったっけ?」きょとんとして、言う。「あんた、中二くらいまでは一人でトイレに行けなかったんじゃなかったっけ?」
「記憶を捏造するんじゃないよ! 名誉毀損だ!」断固とした抗議の声を上げるべく、僕は勢いよく立ち上がり、声を張った。「小学校二年生の頃には、一人でトイレに行くのが怖くなくなってたさ、僕は!」
発声によって興奮の熱を逃がし、取り戻した冷静を以てして、教室に居た十人のクラスメイト全員分の視線を感じ得る。僕は、教室を見回し、呆気に取られているクラスメイトやクスクスと笑っているクラスメイトを見やり、そうして、能面のような顔で僕を凝視している浜辺さんを見やり、金玉が浮き上がるような恥ずかしさを覚えて、素早く椅子に座り直し、身を縮めた。
羞恥の責め苦を耐え忍ぶ僕を尻目に、香織は再び腹を抱えて笑った。
「変わんないわね、あんた」笑いながら、言う。「ほんと、面白いわ」
その屈託のない笑い声を聞きながら、僕は、野比のび太くんが剛田武くんに対して懐いているであろう情念を香織に対して懐いた。
「もう、帰ってくれ」僕は戦慄く声で言った。「2年C組に帰ってくれ。この、女ジャイアン」
「女ジャイアンとは随分じゃない」
そう言って、香織は僕の右耳に素早く口を寄せ、愛撫のような息を吐いた。
再び僕の耳を襲った、官能の息吹。僕は、先のリアクションをリピートするかたちで、椅子から転げ落ちた。
「私に生意気な口をきくなんて、十年早いのよ、潤。敏感ボディのあんたをやっつけるのなんて、私にとっては朝飯前なんだから」
高飛車を絵に描いたような目で僕を見下ろしながら、香織は満足気に笑った。そうして僕は、屈辱に身を焦がした。
「油断してただけさ」椅子に座り直し、僕は強い語気で言った。「不意打ちでなければ、香織の息くらいでひっくり返ったりするもんか」
「強がっちゃって。クレヨンしんちゃんの風間くんよりも耳が弱いくせに」
「弱くなんてないさ。僕の耳は、ゴルゴ13のボディ並に不感症だからね」
「そこまで言うんなら、潤」香織の大きな瞳が、妖艶なサディズムの色を帯びた。「あんた、ノーリアクションで耐えてみなさいよ。また耳に息を吹き掛けてあげるから」
香織からの挑発を受けて、僕はドキドキしてしまいながらも、「いいよ。耐えてあげるよ」と強気を繕った声を返した。
僕は、椅子の座面の奥に尻を動かし、背もたれにぴったりと背中をつけ、その背筋を真っ直ぐに伸ばした姿勢のまま、香織の息吹を待った。
「それじゃあ、いくわよ」
僕の右耳に口を近付けた香織の、フローラルノートをベースにしたような甘い匂いが、僕の鼻をくすぐる。その嗅覚への刺激だけで、僕は悶えてしまいそうになった。
駄目だ、花井潤! こんなことで悶えてしまったら、香織をますます増長させてしまうぞ! 香織に散々おもちゃ扱いをされて弄ばれてきた血塗られた歴史、その暗黒の日々に僕は今日こそ終止符を打たなければならないんだ! 僕はおもちゃではなくて血の通った人間なんだという事実を、はっきりと香織に分からせてやらなきゃならないんだ! 僕は、決して悶えないぞ! どんなスケベな刺激にも必ずノーリアクションを貫いて、香織の奴をがっかりさせてやる!
ふんどしを締めなおした僕は、強い意志を以て嗅覚への刺激に耐え、ぎゅっと両目をつむり、歯を食いしばり、右耳の性感帯に気持ちのバリアを張って、来る刺激に備えた。
海風が、止んだ。嵐の前の静けさに、僕の頬を一筋の汗が伝った。急流を下るように滴ったその汗が僕のズボンを濡らして、刹那に、香織が末広な微風を吐いた。
気持ちのバリア、そんなものは、なかった。そんなものは架空の産物だった。僕の耳は、性感帯が剥き出しの恥部でしかなく、その一糸まとわぬ裸の感受性を悪戯な風に嬲られて、秒で、僕の我慢は決壊寸前にまで追い込まれた。
無数の蠱惑な妖精たちに、耳の敏感な部分をつつかれたり撫でられたりくすぐられたり舐められたりしているような、感覚。そんな感覚に襲われたとあって、僕の全身は一気にエロスの熱を帯びた。熱を逃がしたい衝動に駆られて体を動かそうとするも、それは香織への敗北宣言に他ならないため、僕は熱のこもっていく体を持て余しながら椅子の座枠を強く握り締め、ほうほうの体でありながらも微動だにせず、快感地獄を必死に耐えた。
五秒ほど持続して吐き続けられた香織の息が、止む。止んですぐ、僕は上体を机に伏せ、ヒイヒイと喘いだ。
「耐えたぞ、香織」喘ぎの隙間に、言葉を発する。「僕の、勝ちだ」
傷だらけの勝利宣言。それを終えて、僕の脳裏にはロッキーのテーマが大音量で鳴り響いた。
「ほら、潤。上体を起こしなさい。今度はもっと強く息を吹き掛けてあげるから」
その非情な声が、ロッキーのテーマを掻き消した。僕は、状況の理解が追い付かないまま顔を上げ、香織が浮かべる氷の微笑を見詰めた。
「一回で終わりなんて、一言も言ってないでしょ」シャロン・ストーンもびっくりの妖艶さで、言う。「二回戦、いくわよ」
「この、サディストぉ!」僕は堪らず叫んだ。「生粋の、サディストぉ!」
「私はサドじゃないわよ。あんたがマゾ過ぎるだけ」
ずばり言い当てられて、僕はぐうの音も出なかった。
「ほら、ちゃんと座って座って」香織は手を叩きながらはきはきと言った。「ぐずぐずしないの」
有無を言わさぬ調子で促され、僕は抗いようもなく、上体を起こし、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
「これで最後だからね、香織」僕は確認を強く求めた。「これで僕がノーリアクションだったら、僕の勝ちだからね、香織。その時は、もう二度と、僕にちょっかいを出しちゃいけなくなるんだからね、香織」
「いいわよ、それで」自身の唇をなぞりながら、香織は言った。「絶対、耐えさせないから」
僕は、再びぎゅっと両目をつむり、歯を食いしばった。そうして、不安と期待が程よくブレンドされた心持ちで、スケベな刺激を待つ。
香織の口が、僕の右耳に触れるか触れないかの距離まで、近付く。その気配だけでもう一杯一杯なのに、尚且つ、ショートボブに整えられた香織の髪が頬に触れたりしたものだから、僕の全身は鳥肌立ち、口はもう半開きになってしまう有様だった。
「いくわよ、潤」
そう囁くや否や、香織は瞬発の強風を吐いた。その無慈悲な息吹は、僕の外耳道を疾走し、鼓膜を傷付けることなくすり抜けて、蝸牛を直接、愛撫した。徒の愛撫ではない。ラブローション塗れにした蝸牛、その光沢を無邪気に弄くり回す類の愛撫だ。そんな淫ら極まりない愛撫を、脳に信号を送る器官に直接施されようものなら、無反応でいられる道理はなく、必然、僕はエッチな声を漏らし、座したまま身をくねらせ、快感に善がり狂ったのだった。
「まるで耐えられなかったわね、潤。嫌らしく身をよじって、エッチな声まで出しちゃって、恥ずかしい」
屈辱的な言葉を甘ったるい声で浴びせかけられて、不覚にも僕は、ぞくぞくしてしまった。
「負けを認めるわね、潤? 自分が銚子一の敏感ボディだってこと、認めるわね?」
快感の余韻に思考を乱されるなかで、僕は人間の尊厳を自ら放棄し、従順な犬のようになって、香織に促されるまま、「僕の負けです。僕は銚子一の敏感ボディです」と口にした。
「それじゃあ、敏感な潤には罰ゲームね。今度はエッチな緩急をつけた息を吹き掛けてあげる」
嬉々として言われて、僕は耳を疑った。
「何ですって?」僕は、香織の好奇に満ちた瞳を見詰めた。「何ですって?」
「罰ゲーム、って言ったの。ほら、さっさと背筋を伸ばして。気持ち好くしてあげるから」
サキュバスのドキドキ罰ゲーム勧誘、そんな薄い本のタイトルみたいな形容がぴったりな、香織の魔性だった。その魔に魅入られて、僕は恥じらいながらもいそいそと、姿勢を正した。
「スケベな良い子ね」
褒められたのか辱められたのか、それさえ判断がつかない程に、僕の脳は蕩けきっていた。僕は、もう、耳への刺激を欲するだけの単細胞と化していた。
例によって例のごとく、香織の口が僕の右耳に近付いた。
僕は、来るであろう恵風を、待った。忠犬のように、待った。待って、待って、十数秒が経過して、僕はとうとう焦らされることに耐えられなくなり、消え入りそうな声で、「お願い。早く、息を吹き掛けて」と懇願した。
「息を吹き掛けてほしかったらね、潤・・・・・・」耳元で囁かれたその声は、切ないほどにくすぐったかった。「宣言しなさい。僕、花井潤は、福原香織様に悪戯されるのが大好きです。そう、宣言しなさい。ちゃんと宣言できたら、お望み通り、息を吹き掛けてあげる」
従属を求められ、僕は間髪入れず、「僕、花井潤は、福原香織様に悪戯されるのが大好きです!」と叫んだ。恥辱が快感に変換されて、その享楽を、僕は無我夢中で舐った。
「よく言えたわね」香織は満足気に笑った。「それじゃあ、気持ち好くしてあげる」
「お願いします。気持ち好いのをください」
僕の呂律の乱れた声が儚く散って、直後、香織が大きく息を吸い込んだ。それが、超弩級の快楽の一撃を放つ予備動作であることが知れて、僕は、最上の期待に胸躍らせた。
僕を快楽の絶頂に突き上げるであろう息吹、それを待ち望む僕の耳に飛び込んできたのは、香織の息吹ではなく、井上君の声だった。
「福原さん。花井君」
出し抜けに放たれたその声は、吸い込んだ息を吐かずに飲み込むという暴挙を香織に働かせた。
香織は、僕から顔を離し、「何? 井上君?」と言った。
無情なお預けの憂き目に遭わされた僕は、僕の席のそばに立つ井上君を恨めしい目で見詰め、「何をするだァ」と詰った。
「そりゃこっちのセリフだよ」井上君は手振りで、僕と香織に教室中を見渡すよう促した。「やり過ぎだ、君たち。教室に居る全員、ドン引き」
井上君の言った通り、教室に居たクラスメイト全員が、有明海の潮が引くみたいに引いていた。
周囲の反応を観測し、破廉恥を脱した僕は、痴態を演じた後ろめたさに濁った眼で浜辺さんを注視した。
浜辺さんは、僕から顔を背け、黙々と食事を進めていた。それは、一緒に食事をしている他の三人が一様に馬糞を見やるような目で僕を蔑んでいるのとは対照的な様子だった。
浜辺さんの心境を計りかね一抹の不安を覚えつつも、僕は確証バイアスを働かせ、勃起の治まらなくなった僕にオナニーの許可まで出してくれた浜辺さんが今更僕の些細な痴態などで気分を害するはずもないだろう、という甘えた考えに至り、正しく独り善がりの体で後ろめたさを払拭し、浅ましく安堵した。
「やばい。調子に乗り過ぎて、我を忘れた」香織は後頭部をぽりぽりと掻き、ばつが悪そうな誤魔化しの笑みを浮かべた。「皆さん、お見苦しいものをお見せしちゃって、大変申し訳ありませんでした。私は、これで退散しまぁす。失礼しましたぁ」
言うや否や、香織は悪戯のばれた子猫のような機敏さで教室の出入り口まで素早く移動した。そうして、廊下に片足を着いた香織を、井上君が声で引き留めた。
「福原さん。昼休み中に、漫画部の部室に来てもらえるかな? 俺と、君と、花井君の三人で、少し話したいことがあるんだ」
「OKよ」振り向いた香織は井上君を見やり、言った。「購買で昼食を買ってから、部室に行くわ」
「ちょうどいい。俺も購買で昼食を買ってから部室に向かうつもりだったんだ。一緒に行こう」言ってから、井上君は香織に向けていた視線を僕に移した。「花井君も、部室、来てくれるよな?」
「別に、構わないけれど・・・・・・」僕は浜辺さんの首筋を窃視し、言った。「構わないけれど・・・・・・」
「それじゃあ、部室に行くぞ」乗り気ではない僕の言動を無視して、井上君は言った。「花井君も昼食まだだよな。昼食は、弁当か?」
「弁当じゃないよ」
「それなら、君も一緒に購買で昼食を買おう」
「僕、お腹が空いてないんだ」僕は吐息を漏らすように囁いた。「恋で、お腹が一杯なんだ」
「そんなもんは幻想だ。腹は空く。君の肉体は確実にエネルギー補充を必要としている。それが真実だ。生きるために、食え」
有無を言わさぬ断定口調に気圧されて、僕は渋々立ち上がった。そうして、購買部へと向かって歩き出した井上君と香織に付いて歩いた。
購買部へと向かう道すがら、香織は井上君と部費の予算案について話し始めた。生徒会と各部の部長を交えた予算会議の難しい話や、大きな額のお金の話などをすらすらとしている香織を見ていると、香織がやけに大人染みて思えてきて、自分がやけに子供染みて思えてきて、僕は嫉妬を懐き、「部費の話なんて、一部員に過ぎない香織には関係ないことだろ」と稚拙な難癖を付けた。
「言ってなかったっけ? 私、今年度から水泳部の部長よ」
「何で? 香織、まだ二年生でしょ。漫画部みたいに三年生がいない部なら二年生の井上君が部長をやったりしてるのもおかしくないけど、水泳部はちゃんと三年生がいるじゃないか」
「二年が部長をやるのは、うちの学校じゃ普通のことだぞ」井上君が言った。「三年は受験や就活があるから、二年が部長をやることを学校が推奨してるだろ」
「そうなの?」僕は自身の無知を吐露した。「全然知らなかった」
「あんた、もうちょっと物を知りなさいよ」香織が呆れたように言った。「そんなんだから、いつまで経ってもお子ちゃまなのよ、あんたは」
詰られて、屈辱に震えるも言い返す言葉を見つけられず、僕は俯き、廊下の冷たいリノリウムを見詰めながら、とぼとぼと歩いた。そんな可哀そうな雰囲気を全力で醸し出し慰めを求める僕を、心無い二人は清々しいばかりに無視し、部費の予算案の話を再開した。購買部に着くまでその話は続き、僕のとぼとぼ歩きもまた、続いた。
購買部に着いて、僕は鮭のおにぎりと野菜ジュースを買った。香織は生姜焼き弁当を買い、井上君は鱈子のおにぎりと焼きそばパンとポテトサラダとプリキュアの食玩を買った。
B棟の一階にある購買部から漫画部の部室を目指して歩く。香織と井上君は、部長として部員たちとどう接していくべきか、なんていう大人びた話を再び始めていた。
階段に差し掛かり、僕は香織の後に続いて階段を上った。
香織は、スカートを押さえたりもせずに階段を上り、スカートの下に着用しているショートのペチパンツを恥ずかしげもなく僕に晒した。
「いくらペチパンツを穿いてるからって、無防備が過ぎるよ、香織」そう僕が真心で注意してやると、香織は、「あんたみたいなお子ちゃまに見られたって何ともないのよ、私は」と小生意気な声を返してきた。
僕は、心底から愛想が尽きて、首を横に振りながら、視線を香織の臀部から脚部へと移した。そうして、不覚にも、香織の脚に見入ってしまう。程よく筋肉のついた太腿と脹脛が、階段を一段上るごとに、僕の眼前で躍動する、ダイナミックモーションシアター。極めて機能的でありながら美醜の観点においても優れているその脚に、僕はインパラの脚を連想した。
汚れのない鑑賞眼を以て香織の脚を堪能しながら、次第に、僕の視線は香織の剥き出しの膝裏に集中していった。まるで脇の下のような、敏感を露にした趣の、膝裏。この無防備なひかがみに息を吹き掛けてやればさぞ愉快だろう、という考えが脳裏を過ぎり、僕はその行為を正当化するために、増長した香織には懲らしめの息吹が必要だろう、と考えを改め、階段を上りながら、虎視眈々と、香織の膝裏に息を吹き掛ける絶好の瞬間を待った。
三階と四階、その踊り場に、香織が片足を乗せた。その瞬間を好機と見た僕は、まだ段に乗せたままである香織の右足の膝裏に向かって、全身全霊を込めた息を吹き掛けた。刹那、人気のない閑静な空間に、香織の嬌声が響き渡った。それは、体の芯にまで響く喘ぎだった。
膝から崩れ落ちた香織は、踊り場にへたり込んだ。
香織の反応に満足した僕は、嬉々として踊り場に駆け上がり、香織の正面に立ち、香織を見下ろしながら、「エッチな声を出しちゃって、恥ずかしいね、香織。僕なんかより香織のほうがよっぽど敏感だね。千葉一の敏感ボディだね」と言った。
意気揚々と言いながらも、僕は過去の経験則から香織の反撃を予測し、いつでも逃げ出せる心構えをしていた。しかし、香織は僕の予測に反し、へたり込んだまま顔を伏せ、反撃の兆候などは微塵も見せなかった。
僕は、香織の様子を訝しみながら、「香織?」と声を掛けてみた。すると、香織は体を小刻みに震わせ、嗚咽を漏らし始めた。
幼稚園、小学校、中学校、高校と、ずっと一緒だった香織だけれど、彼女が泣いているところを見るのはこれが初めてで、僕は激しく動揺してしまい、文字通りあたふたしてしまった。
「幼馴染の女の子を泣かすなよ、花井君」
井上君の呆れ果てた声が、僕の加害者意識を刺激した。僕は、罪悪感に押しつぶされるようにして体を屈め、香織の震える肩にそっと手を置き、「ごめんよ、香織。香織が泣くほど嫌な思いをするなんて、僕、思ってもいなかったんだ。だって、今まで散々スケベなことをしてきたけれど、香織、一度だって嫌そうにしたことなかったから、それで、僕、膝裏に息を吹き掛けるくらいじゃ香織、全然へっちゃらだろうって思って、つい、全力でスケベな息を吹き掛けてしまったんだ。香織を傷付けるつもりなんて全くなかったんだ。本当に、ごめんよ、香織」と心から謝罪した。
「本当に・・・・・・」香織が、囁いた。その声に、涙の気配は皆無だった。「お馬鹿ね、あんた」
言うが早いか、香織は早撃ちの名人みたいな所作で両手を前に突き出し、その細く長い指で、僕の両の乳首をつまんだ。
乳首に電マを押し当てられたような強烈な快感に襲われて、僕はのけ反り、エッチな声を上げた。
「私があれくらいで泣くわけないでしょうが」僕の両の乳首をつまんだまま、香織は言った。その目は、乾ききっていた。「長い付き合いなんだから、分かるようなもんでしょうに」
「僕を油断させるための、嘘泣きだったんだな、香織」憤りと快感に震える声で、僕は言った。「この、卑劣漢!」
「誰が漢だ、誰が」
そう言って、香織は僕の乳首をコリコリした。必然、僕は悶絶する。
「いい機会だから、これからあんたの乳首を本格的に調教してあげる」香織は舌なめずりをした。「もう二度と、私に歯向かおうって気が起こせなくなるくらいにね」
昔から手先が器用な香織、そんな彼女が惜しげも無く披露する乳首コリコリは、極上の絶技に他ならず、本格的な調教が始まる前から既に、僕は調教済み寸前まで達していた。
こんな状態で本格的な調教が始まってしまったら、僕は一体全体どうなってしまうんだろう? そんな不安が脳裏をかすめ、その不安が去った後に残ったのは、唯、好奇の欲望だけだった。
僕は、香織の調教を受けるべく、初な少女がファーストキスの際に目を閉じる様そのままに、そっと目を閉じた。
「可愛いわね。それじゃあ、本格的な調教、いくわよ」
「待て待て!」香織の声に食い気味で響いた、井上君の声だった。「調教は無し! 花井君はもう福原さんが好き勝手していい存在じゃないんだ」
香織は、乳首コリコリを止め、僕の両の乳首を軽くつまんだまま、「それ、どういう意味?」と言った。
「花井君。君と浜辺さんの関係、福原さんに話してもいいな?」
言われて、僕は目を開き、井上君を見上げ、「調教が済んでからじゃ、駄目かな?」とだらしない声を出した。
「馬鹿野郎!」普段から冷静な井上君が、珍しく声を荒げた。「浜辺さんと付き合ってるくせに、他の女の子のテクにメロメロになるやつがあるか!」
「付き合ってる?」香織はきょとんとして、言った。「え? 誰と、誰が?」
井上君は、一つ大きく息を吐き、それから、「花井君と浜辺さんだよ」と取り戻した冷静な声で言った。
「嘘!? マジで!?」香織は叫び、僕の両の乳首から指を離した。「変態しか取り柄のない潤と、学校一の美人の浜辺さんが、付き合ってる!? 冗談でしょ!」
「冗談じゃない。マジだ」
「たまげた・・・・・・」そう呟いてから、香織は悪びれたように表情を曇らせた。「私、浜辺さんに酷いことをしちゃった。折を見て、謝りにいかないとな」
「謝る? 何でさ?」今度は僕がきょとんとして、言った。「どうして香織が浜辺さんに謝るのさ?」
井上君と香織は、未知の生物を目撃したような目で、僕を見やった。
「あんた、本気で言ってるの?」
引き気味の香織が言い終わってすぐ、四階から三人の男子生徒が下りてきた。その三人が、怪訝そうな目を僕と香織に向けたので、僕と香織はすぐさま立ち上がり、踊り場の隅に移動した。
「こんな所で話し込むのは止そう」言ってから、井上君は階段を上り始めた。「この件は部室できっちり話そう」
香織は、僕を見ながら首を横に振り、それから、井上君に続いて階段を上った。僕は、尚もきょとんとしたまま、二人に続いて階段を上った。
変態紳士によろしく ブラッシュアップ不足バージョン はんすけ @hansuke26
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