第8話 ラブコミュニケーション ブラッシュアップ不足バージョン
我こそは銚子の禅マスター、花井潤なり! そう名乗りを上げずにはいられない程に、僕の座禅は効率、効能ともに良好だった。
座禅を組んでからほんの三分ほどで、僕の心は清流のようになって精神界の小宇宙へと流れ出て、その無限に広がる漆黒のキャンパスを煌めかせる天の川と化した。秩序を持ち、それでいて融通無碍な、天の川を構成する無数の煌めき。その一つ一つが随所快活の悟りを光源としていて、僕は幼き日に失った裸の自然体を穏やかな光に満ちていくなかで取り戻し、己のありのままを浜辺さんと共有する決心に至った。
「オナ禁によって勃起の治まらなくなったちんちん。それを鎮めるために、禁を解くために、浜辺さんからオナニーの許可を頂かなければならない。他の女性を用いてオナニーを行う許可、あるいは、浜辺さんを用いてオナニーを行う許可。恋人の許しを得たならば、ありとあらゆるオナニーに、もはや不誠実は皆無。浜辺さん。今すぐに、君へ僕の真実を捧げます」一世一代の大勝負を前にして、波紋一つない湖面を思わせるような声が、自然と漏れ出た。「時は来た。それだけだ」
僕は、母親の乳房を求める無垢な赤子みたいにして、スマホに手を伸ばした。掴んだスマホの小さな重みに物質界の俗を感じ得るも、僕が有する精神界は微塵も揺らがず、僕は明鏡止水の境地そのままに、浜辺さんへ電話を掛けるべく指を動かした。
浜辺さんへ電話を掛けるために必要な操作、その最後のタップを終えるべく指先を小さく振り上げた瞬間、僕の自室のドアがノックされた。
「柿崎?」と僕が言うと、ドアの向こうから、「来客だ、花井」という柿崎の声が聞こえた。
僕は、スマホを机に置き、体の正面をドアへ向けた。
「お客さんって、誰?」
「浜辺さんだ」
その柿崎の声は、僕の精神界の小宇宙を木っ端微塵に消し飛ばすビッグバンだった。禅で得た全てが現実の一撃によって瞬く間に崩壊する様は、僕の禅が上辺を繕っただけの胡坐でしかなかったという事実を如実に現わしていた。
偽りの随所快活、偽りの明鏡止水、それらが霧散した後に残ったものは、浜辺さんの心証にのみ執心する下卑た心だけだった。
「どうしよう、柿崎!?」下卑た心が混乱の呼び水となって、僕は半狂乱に陥り、叫んだ。「ちんちんがこんな状態じゃ、せっかく尋ねて来てくれた浜辺さんをもてなせないよ! そもそも、なんで浜辺さんが僕の家を尋ねてくるのさ!? まさか、デートをドタキャンされたことを怒って、僕に別れを告げるために尋ねて来たんじゃあるまいか!? もしもそうだとしたならば、僕はもうお終いだ! 浜辺さんは僕の太陽だぞ、柿崎! 太陽が永遠に陰るのならば、僕の魂は凍て付き、二度と生命の熱を発することは叶わないだろう! ああ! 今すぐにでも浜辺さんの足下に身を投げて、その美麗なおみ足に触れながら、懺悔したい! そうして、今日の非礼の許しを得たい! しかし、こんなちんちんじゃ、彼女の足下に身を投げるどころか、彼女に姿を見せることすら叶わない! おお! なんたる悲劇か! なんたる惨状か! 愛しい彼女に謝罪することすら許されぬとは! 救いはないのですか!? 柿崎! どうしたらいい!? 僕はどうしたらいい!? 教えてくれ、柿崎! 助けてくれぇ!」
「取り乱すな、花井。まだ取り乱すような状況じゃない。いま俺と話しているように、浜辺さんともドア越しに話しをすればいい。そうして、謝罪するなり何なりすればいいさ。俺が浜辺さんをここまで連れてきてやるからよ」
高校二年生とは思えないほど落ち着いた柿崎の声は、僕の感情の起伏、その急峻な下り坂を浸す潤滑油となった。熱烈の頂から、ローション塗れのウォータースライダーと化した下り坂を一気に滑り降り、冷静の麓へと降り立った僕は、「浜辺さんは、今どこに?」と冴えた声を出した。
「玄関で待ってもらっている」
「柿崎。僕のほうから改めてお願いさせてくれ。浜辺さんを、僕の大事な人を、ここまでエスコートしてくれ。この通りだ、頼む」
僕は、閉じられたドアに向かって深々と頭を下げた。誰の目に付くこともない、誠意のみを拠り所とした、不毛なお辞儀。その不毛を汲み取ってくれるのが、友情だった。
「頼まれた」盲目の聖者であるかのような声で、柿崎は言ってくれた。「花井。覚悟を決めておけ。お前の抱えている問題を浜辺さんと共有する覚悟を。お前の状態が日常生活に支障をきたす類のものである以上、問題の解決を先延ばしにすることは得策じゃないんだ。今、浜辺さんが尋ねて来てくれたことを鴨が葱を背負って来たと考え、ここで決着をつけるつもりで事に当たれよ」
その声の後には、柿崎の足音が聞こえた。僕の自室から遠ざかり、階段を下りていく柿崎の足音。それは、行進曲のリズムを刻み、僕の勇気を奮い立たせてくれる足音だった。
やがて、柿崎の足音は聞こえなくなる。無音の孤独に支配された密室で、僕は無心にドアを見詰めた。次第に、神経が研ぎ澄まされていくのを感じられる。僕は、手を伸ばし、自室のドアにそっと指先を触れた。その微弱な触感にさえ、性感を激しく刺激され、僕は喘ぎ、片膝をついた。
下半身を露出したまま薄い木製ドア一枚を挟んで浜辺さんと向かい合うという、背徳に染まったスリル。そのスリルに身を焦がしながらも、僕は汚れない心で浜辺さんを迎えるべく、心中で激しく燃え上がる煩悩に対して必死の消火活動を行った。
煩悩の炎が下火になったころ、僕の耳は階段を上がってくる二つの足音を聞きつけた。無骨な足音と、上品な足音だ。前者が柿崎のもので、後者が浜辺さんのものだと、無意識レベルでさえ理解できる。
僕は、床に片耳をつけ、浜辺さんの美しい足音が近付いてくる興奮に心身を委ねた。煩悩は、再び激しく燃え上がった。
床を伝わってくる振動の大きさから、浜辺さんの体重は51キログラムほどと推量された。浜辺さんの身長は160センチメートルくらいだから、ボディマス指数を用いた場合、身長160センチメートルの女性の標準体重よりも5キログラムほど軽量であることが分かる。
「華奢な印象を裏付ける数字だ」床に片耳をつけたまま、僕は言った。
足音の質からして、浜辺さんは靴下を着用しているようだ。床の振動の吸収具合から、薄手の綿の靴下を着用しているのだと推測できる。
「浜辺さんの靴下になりたい」自ずと、呟いてしまった。
様々な情報とロマンを与えてくれる浜辺さんの足音、その官能的な調べが、僕の自室の前で止んだ。
ドアがノックされる。繊細で可憐なノックの音だった。
「花井君。浜辺です」
慎み深い声がドアの向こう側から聞こえてきて、僕はようやく自らの破廉恥を思い知り、如何わしい推量と推測に興じた過去を悔やみながら、勢いよく立ち上がった。
「浜辺さん・・・・・・」ドアを真っすぐに見詰めながら、僕は懺悔の声を出した。「今日は、デートをドタキャンしてしまって、ごめんね」
「それは、いいよ」感情の読み取れない声で、浜辺さんは言った。
浜辺さんの声に続いて、柿崎が、「俺は一階に下りているよ」と言って、僕は、「ありがとうね、柿崎。コーヒーマシンを使ってコーヒーを淹れるなり、ダイニングのラックに置いてある龍泉堂の最中を食べるなりして、自由に寛いでくれて構わないからね」と言った。
柿崎が一階へと下りて、二人きりの気恥ずかしさが二階に充満して、僕と浜辺さんは互いに口を噤んだ。お互いの表情すら読み取れないシチュエーションが不安を強め、沈黙の苦は否応なく増した。
僕が抱えている問題を浜辺さんと共有しなければならない! そのために、浜辺さんに真実をありのまま伝えなければならない! その決意を沈黙の果てに固め、声帯を震わせるも、委縮した声帯が奏でる音は萎んで擦れ、「勃起・・・・・・」と口籠もる以上のことは叶わなかった。
「何? 花井君?」ドアの向こうの気配から、浜辺さんがドアに耳を近付けたことが察せられた。「今、何て言ったの?」
促されて、僕は再び、「勃起・・・・・・」と口籠った。
「ほっき?」
その余りにも清純が過ぎる声音を汚したくない一心で、僕は全身全霊を以て大きな声を振り絞った。
「そう、ほっき! ホッキガイ! ウオッセ21の食事処で活きの良いホッキガイを食べたかったなぁ、残念だったなぁ、って、そう言ったのさ!」
稚拙な誤魔化しは、二人を隔てるドアに弾かれて、空しく消えた。
再び訪れた沈黙は、先のものよりも重苦しさを増していた。
「ごめんね、花井君」浜辺さんが沈黙を破った。「何の連絡もしないで、花井君のお家に押し掛けちゃって」
唐突に謝罪を受けて、僕は慌てふためき、両手を胸のまでブンブンと振りながら、「謝らないで、浜辺さん。僕、浜辺さんが来てくれて、すごく嬉しいよ」と言った。
気まずい雰囲気に気後れするも、三度目の沈黙を恐れて、僕は言葉を紡いだ。
「ところで、僕の家、よく分かったね。前に家の場所を教えてあげたっけ?」
「井上君に聞いたの。花井君の家の場所」恐縮した声で、浜辺さんは言った。「勝手に聞いたりして、ごめんね」
「謝らないで、浜辺さん。僕に関することだったら、どんなデリケートな個人情報であっても好きに聞いてくれて構わないんだから」強張った浜辺さんの感情を揉み解してあげたくて、僕は出せる限りの柔らかい声で言葉を発した。「そういえば、前に僕の電話番号も井上君から聞いてたよね? 浜辺さんって、井上君と仲が良いの?」
「うん。井上君とは一年のときからクラスが一緒で、ずっと仲良くしてもらってるの」
「そうなんだ。井上君、良い人だよね」
「うん。良い人」
共通の友人を称賛し合うことで気まずい雰囲気を緩和した僕たちは、今日初めて、一緒に笑い合えた。
「花井君、元気そうでよかった」和やかな浜辺さんの声だった。「今日、電話で話した時はとても様子が変だったから心配したけど、いつも通りの花井君だ」
浜辺さんの思いやりが心に染みた。その感慨が深まっていくのに比例して、浜辺さんに姿を見せない無礼を働き続けている居た堪れなさが強まって、僕は再び、不毛な謝罪を口にした。
「ごめんね、浜辺さん。せっかく心配して来てくれたのに、僕ったら、姿も見せないで」
「大丈夫だよ。事情は少しだけ柿崎君に聞いて知ってるから、気にしないで」
「柿崎は、事情を何て説明したの?」
「花井君は体の一部分に目に見える異常をきたしてしまって、それが恥ずかしくって人前に出れなくなっちゃったんだって、説明してくれた。今日のデートをキャンセルした理由もそれだって」
「その説明は、パーフェクトだね」柿崎の口上手に感心しつつ、僕は言った。「正に、柿崎が説明した通りさ」
「花井君の異常って、病気ではないんだよね?」心配そうな声で、浜辺さんが言う。
「うん。心配しないで。病気じゃないよ」
「それじゃあ、怪我?」
「怪我でもないよ」
ドア越しでさえ、浜辺さんの困惑をはっきりと感じ取れた。僕の状態がどうであるのか、その理解が全く及ばぬことで浜辺さんが苦悩している、事実。その苦悩をすぐにでも取り除いてあげたくて、真実を伝えようようとするも、利己的な恐怖が愛他の精神を抑え付け、そうして閉じられた口は、音もなく真実を飲み込んだ。
僕は、オナ禁によって勃起が治まらなくなったという真実を浜辺さんに伝えることで、浜辺さんから軽蔑の念を向けられることを、恐れた。浜辺さんに変態だと思われることを、恐れた。浜辺さんに嫌われることを、恐れた。
「人前に出れなくなっちゃうような目に見える異常ってことは、顔に何かできちゃったの? 例えば、ニキビとか?」
その質疑が、下卑た好奇心によって為されたものではなく、慈愛の憂慮によって為されたものだと理解できたから、僕は嫌な思い一つせず、その問いに答えられた。
「ううん。顔には何も異常なんてないよ」
「それじゃあ、髪の毛を切り過ぎちゃって恥ずかしいとか?」
「ううん。髪の毛にも異常はないよ」
それでは花井潤が現在抱えている異常とは何なのか? それをどう熟考したところで、オナ禁によって勃起が治まらなくなっている、という真実に辿り着くことができる人間は、この地球上に存在しないだろう。ホームズやポアロやマープルが総力を結集して推理を働かせたとしても、その真実にはどうしたって辿り着けまい。僕の自白、それを以てでしか、真実が日の目を見ることはないのだ。浜辺さんを不可解の迷宮から救い出せるのは、僕だけなのだ。そこまで理解したうえで、尚も僕は真実をひた隠し、途方もない罪悪感を懐きながら、深々と項垂れた。
「花井君。詮索されるのは、嫌?」浜辺さんの憂いた声が聞こえた。「もし嫌なら、言って。言ってくれたら、私、もう花井君の状態について何も聞かないから」
浜辺さんの、その残酷なまでの優しさが、僕を断崖絶壁へと追いやった。もはや残された道は二つ。真実を抱えて浜辺さんの懐に身を投げるか、真実を抱えて孤独な崖下へと身を投げるか。そのどちらかを選択する難行は、度を越した苦悶を心身にもたらし、僕は膝から崩れ落ち、弱々しく伸ばした指先を以てして、ドアの面を引っ掻いた。
木肌と爪の擦れ合う不快音が、呻き声であるかのように、響いた。
「大丈夫、花井君?」
どれほど些細な機微でさえ、浜辺さんは察し、僕を案じてくれるのだ。それを実感させてくれる声が聞けて、僕は、浜辺さんに対して誠実な男でありたい、という思いを新たにし、力強く立ち上がって、可能な限りドアへと歩み寄った。
木肌のひんやりとした涼をタートルヘッドの先端に感じ得て、僕は透視能力を有したかのような眼差しでドアを見詰め、その向こう側にいる浜辺さんの像を心眼に捉えた。
「大丈夫だよ、浜辺さん」臆病の殻を脱ぎ捨てて、僕は言った。「浜辺さん。僕はね、君に詮索されているなんてこれっぽっちも思ってないんだよ。嫌な気持ちになんて全くなっていない。むしろ、心配してくれる君に心から感謝しているくらいなんだ。僕は、君の真心に正直に応えたいと思っている。僕の現状、その真実を、君に聞いてほしい」
「花井君の話なら、私、何でも聞くよ」
世間知らずな生娘のような声を浜辺さんが出して、その短絡を、僕は語気を強くして戒めた。
「軽はずみに何でも聞くなんて言ってはいけないよ、浜辺さん。僕が君に聞かせようとしている真実は、不浄極まりない猛毒なのだから」
「猛毒・・・・・・」
「そう、猛毒さ。君の心を芯から破壊する危険性を孕んだ、猛毒さ。だから、浜辺さん。君には熟考の果てに、僕の真実を聞くか否か、判断してほしいんだ。君が望まないのであれば、僕は真実を生涯、己の胸の内にのみ秘めていく」
太陽が西に傾き始めていた。西側に位置している僕の自室の窓、そのカーテンの僅かな隙間から入り込んだ陽光が、光の筋となって、僕の恥部を射抜いた。
「花井君が、私に聞いてほしいと思っていることなら、私は、どんなことだって聞くよ」
果てしなく凛とした、浜辺さんの声だった。尊重せざるを得ない確固たる意志の垣間見えたその声に、僕は奮い立ち、心を鬼にして、酷な真実を発した。
「先々週の月曜日、君と付き合い始めたあの日から、僕は、オナ禁をしているんだ、浜辺さん」
真実のカタルシス、それは清潔ゆえに無慈悲な咆哮で、全幅の依存ともいうべきその声を愛する人に浴びせかけた余韻は、僕が有するほんの小さなサディズムさえをも激しく燃え上がらせた。
歪な愛情を滾らせて、僕は浜辺さんの反応を、黙して待った。
「花井君」幼く響いた、浜辺さんの声だった。「あなきん、って何?」
「スカイウォーカーじゃないよ、浜辺さん」予期しなかったボケが浜辺さんから返ってきて、僕のサディズムは失望と同時に消失し、残ったノーマルな愛情は強い安堵を感じ得て、ツッコミの声をほっこりと暖めた。「オナ禁だよ、オナ禁」
「おなきん・・・・・・」尚も、浜辺さんの声は幼い響きを有していた。「おなきん、って何なの、花井君?」
僕はここに至ってようやく、浜辺さんはボケているのではなくて本気でオナ禁という言葉を存じ上げていないのだと、理解した。理解して、自らの愚かさに絶句する。オナ禁、その下品なワードが全人類の共有する概念であるかのように錯覚していた、浅薄。オナ禁、その下劣なワードを汚れなき浜辺さんの魂に浴びせかけた、非道。
何てことだ! 僕は浜辺さんを汚してしまった! この、外道! 僕は人間じゃねえ!
万死に値する大罪を犯した自らに、焼け付くほどの嫌悪を懐き、僕は歯を食いしばり、悔恨に顔面を歪めた。
「ねえ、花井君。おなきん、って何のことなの?」
重ねて問われて、僕は再び決断を迫られた。またもや残された道は二つ。真実を飲み込み人の心を保ちつつ勃起の治まらない獣の体で生きていくか、真実を吐き出し獣の心に染まりつつも勃起を治めるための道を進み人の体を取り戻すか。
「獣としての生か、人としての死か、それが疑問だ」
そう呟いて、苦慮をする。苦慮をして、苦慮など必要ないではないかと思い至る。浜辺さんをこれ以上汚すくらいなら勃起の収まらぬ体で僕は生涯を終える! と思い至る。
「浜辺さん」切なくも凛々しい声が出た。「オナ禁のことは忘れて。君が知るようなことではないから。浜辺さん。僕はね、僕の体はね、もう全うな社会生活を送れるものではなくなってしまったんだ。浜辺さんとも、もう、会えない。こんな淫らな体じゃ、もう、会えない。浜辺さん。僕は、浜辺さんが大好きだよ。大好きだから、これ以上、君に酷い言葉を聞かせたくない。浜辺さん。これでもう、さようなら。さようなら」
言い切ってから、僕はベッドへと身を投げて、掛け布団に全身を隠した。そうして訪れた静寂の中で、僕は浜辺さんを想い、声を押し殺して涙を流した。
永遠にも感じられた静寂、その傷だらけな空気を、慎ましい音が慰めた。その音は、ゆっくりと開かれたドアの軋みだった。
「花井君」
暗闇に包まれて聞いた浜辺さんの声は、極楽から聞こえてきた観音様の息吹のようだった。それが余りにも優しく響いたから、僕は辛抱堪らなくなって、泣き声を漏らした。
浜辺さんの足音が近付いてきて、ベッドのすぐそばで止まった。
「勝手に部屋に入って、ごめんね。でも、私、どうしても花井君のそばに行きたかったから。花井君の顔が見たかったから」拙い言葉を必死に繋ぎ合わせていくような、その幼気な浜辺さんの声に、僕の涙は一層と激しく流れた。「大好き、って言ってくれて、ありがとう。私も、花井君が、大好き。大好きだから、花井君のことが、知りたい。花井君。話して。話したいこと、話さなくちゃならないこと、全部、話して。私、花井君の言うことなら、何も怖くないから」
「浜辺さん・・・・・・」
その声が露になるのと同時に、僕の頭も掛布団の外に出て、露になった。そうして目に飛び込んできた浜辺さんの美しい姿に、僕の傷心は癒された。薄茶色のカットソーに真っ白なロングスカート、それから、薄手の綿の靴下。それらを華奢な体に纏い、学校ではポニーテールにしている後ろ髪を下し、いつもよりも甘い雰囲気を醸し出した、浜辺さん。彼女は、本当に、バイアスなしで、世界一綺麗な女の子だった。
「花井君の顔だ」僕の顔を見詰めながら、浜辺さんは優しく微笑んだ。「見るだけで、優しい気持ちになって、凄く落ち着く、花井君の顔だ」
浜辺さんと、これからもずっと、一緒にいたい! 心中で、叫ぶ。それは、真実よりも遥かに尊い、本心だった。
「浜辺さんと、これからもずっと、一緒にいたい」本心が、自然と、言葉になる。「浜辺さん。僕の現状について、聞いて。浜辺さんの協力がなければ、僕は、現状を打破することが出来ないんだ。だから、聞いて。性的な話になってしまうけれども、聞いて」
「聞くよ、花井君」浜辺さんはベッドのそばで正座して、一層と真摯な眼差しを僕に向けた。「言って」
「イきます」僕は、言った。「浜辺さん。僕は、今朝からずっと、勃起しているんです」
「ぼっき・・・・・・」そう呟いて、少しの硬直の後、浜辺さんは勢いよく立ち上がり、後退った。「ぼっき、って、勃起!? あの、男の人のアレが、アレして、アレになる、あの勃起!?」
恥じらい狼狽える浜辺さんを愛らしく思いながら、僕は、「そう。男の人のちんちんが、陰茎海綿体に血液を溜めて、獣になる、その勃起さ」と真顔で答えた。涙はもう、止んでいた。
「勃起・・・・・・」呆気に取られた様子で、浜辺さんは呟いた。「何で、勃起の話?」
「さっき君に聞かせた、オナ禁、という悍ましいワード。あれはね、オナニー禁止、の略なんだ。さっき言った通り、僕はもう二週間近く、オナニーをしていない。それ故に、精液が溜まり切った僕のちんちんは猛り狂い、勃起が治まらない塩梅となって、今に至るんだ。今日のデートに行けなくなったのも、今この場で君に下半身を見せることが叶わないのも、全ては、勃起が治まらないがためなんだ」
愛は愛ゆえに淫ら。それが真理なのだと、僕は悟った。羞恥も恐怖も愛の一部分で、それらは淫らをより濃厚な蜜に変える触媒なのだと、そう理解したならば、後は愛する人と共に密塗れになればよいだけのシンプルな話で、僕はより素直に、より赤裸々に、より濃密に、浜辺さんを求めたのだった。
「治まらない勃起、それを鎮めるためには、必然、オナニーが必要だ。しかし、僕にはオナニーが出来ない理由がある。その理由というのはね、浜辺さん、君なんだ。君を想うが故に、僕はオナニーが出来ずにいるんだ。エッチな動画やエッチなお姉さんの妄想などを用いてオナニーを行うことが、僕には浮気に思えてしまって、君への裏切り行為に思えてしまって、それ故に、僕はオナニーが出来ずにいるんだ。それならば、浜辺さんの妄想を用いてオナニーを行えば良いのかというと、そうではない。浜辺さんの許可も得ず、勝手に浜辺さんの妄想を用いてオナニーを行うことは、一方的な性交渉に他ならないからだ。そうして、僕は禁の袋小路に迷い込み、素晴らしい日になるはずだった今日という日を暗黒に染め上げて、好きな人に、大好きな人に、痴態を晒すことと相成ったんだ。浜辺さん。これが、真実の全て。嘘偽りない、僕の真実の全てだよ」
発露の終わりには、凪のような静けさが広がった。その静けさに呼応する形で、黙する浜辺さんの表情は、何の起伏もなく、唯、果てしなく平坦な絶海の面だった。
愛する人の遠のく感情に、豪気の魔法は解かれて、僕は等身大の恐怖を思い出し、哀れなまでに臆病な声で、「浜辺さん?」と囁いた。
「私は、どうすればいいの?」何の色も読み取れない、浜辺さんの声だった。「私は、花井君に何をしてあげられるの?」
窺い知れぬ浜辺さんの心証に、僕は媚びるような眼差しを向けて、浜辺さんに嫌われたくないという強い思いを押し殺しながら、「オナニーの許可が、欲しいです」と口にした。
「オナニーの許可って、具体的にはどういうことなの?」
「浜辺さんの気持ちが知りたいだけなんです!」浜辺さんの感情を繋ぎ止めたい一心で、僕は再び己の本心を引っ張り出し、叫んだ。「僕が他の女の人を用いてオナニーをすることで、浜辺さんが傷付かないかどうか、知りたいだけなんです! 僕が浜辺さんを用いてオナニーをすることで、浜辺さんが傷付かないかどうか、知りたいだけなんです! 浜辺さんが傷付かない方法で、僕はオナニーがしたいだけなんです! 浜辺さん! どうか、君の気持ちを聞かせてください! お願いします!」
懸命なアリア、それが断末魔の叫びとなって響き渡り、僕の声は枯れ果てて、後はもう浜辺さんの解答を黙して待とうと腹を決める他になく、鼬の最後っ屁ともいうべき甘えた眼差しだけが、僕が浜辺さんに向けられる唯一になった。
凝視した、浜辺さんの化粧っ気のない顔。その純白の頬が、初霜に濡れたようになって、赤らんだ。彼女の妖艶な唇が、儚げに動く。
「私で、していいよ」純度の高い愛の結晶、その輝きであるかのように、浜辺さんの声は美しかった。「私で、して」
僕は、勢いよく上体を起こした。肩の辺りからずり落ちた掛布団が、愛の如意棒を隠すギリギリのラインで、止まる。
「今、何て?」その声は震え切っていた。「もう一度、言って。浜辺さん」
浜辺さんは、両手で顔を覆い、「花井君のオナニーに使われるなら、私、嫌じゃないから、だから、私で、して。私だけで、して」と言った。その声も僕の声と同様に、震え切っていた。
史上最大級の、福音。それが僕の鼓膜を激しく揺さぶって、僕の心に昇天の翼が生じた。その翼を以てして舞い踊った幻の天空は、文字通りの天国だった。
「ありがとう! 浜辺さん!」歓喜の力のみで、声帯を震わせる。「僕、浜辺さんで、するよ! 浜辺さんだけで、するよ!」
有言実行を地でいって、僕は掛布団に隠れている愛の如意棒を握り締め、そのまま滑らかな成り行きで、性のピストン運動を開始した。
「何をしているの!? 花井君!?」両手を顔から離した浜辺さんが、驚愕の表情を浮かべ、叫んだ。「ナニをしているの!?」
「何って、オナニーさ」僕は性のピストン運動を停止し、言った。「浜辺さんでしていいって、浜辺さんが言ってくれたから、浜辺さんでオナニーをしてるのさ」
「違う! 私でしてって、そういう意味じゃない!」浜辺さんは再び両手で顔を覆った。「想像の私でしてって、そういう意味! 一人で、誰もいないところで、想像の私でしてって、そういう意味!」
「そうだったの!?」僕は慌てて愛の如意棒から手を離した。「ごめんね! 浜辺さん! 僕、嬉しさの余りに早とちりしちゃった! でも、もう大丈夫だよ! 浜辺さんの言いたかったこと、今度はちゃんと理解したから! 僕、浜辺さんと柿崎が帰ってから、想像の浜辺さんでオナニーをするから、もう大丈夫だよ! 心配しないで!」
浜辺さんは、指の間から僕の姿を覗き見て、それから、両手をゆっくりと顔から離した。
見詰め合い、恥ずかし合う。性の問題を共有し、それを解決した後も、僕らは変わらず、初なカップルだった。
「私、もう、帰るね」恥ずかしさに堪え兼ねた様子で、浜辺さんは言った。「花井君、これから、やることがあるもんね」
「気を使わないで、浜辺さん」恐縮して、僕は言った。「僕、早いから、すぐに毒を抜き終えた綺麗な体で浜辺さんを持て成せるようになると思うんだ。だから、浜辺さんさえよければ、事が終わるのを一階で待っていてよ」
「ううん。今日は、帰るよ、私」耳の裏まで真っ赤にして、浜辺さんは言った。「私のことは気にしないで、ゆっくり、やって」
小走りで、浜辺さんはドアのほうへと移動した。その後姿に、僕は声を掛けた。
「浜辺さん」
ノープランで呼び止めて、振り返った浜辺さんの顔を見詰めてから、僕は、湧き上がった素直な気持ちを言葉にした。
「来週の日曜日、また、僕とデートしてください。僕も、好きな人と一緒に銚子ポートタワーからの景色を見たいんだ」
その声の融け込んだ空気を陽光が照らし、輝いた浜辺さんの笑顔は、好きの気持ちを際限なく深めてくれる、無限の愛そのものだった。
「うん。来週、一緒に行こうね」
弾んだ声でそう言ってから、浜辺さんは僕の自室を出て、そっとドアを閉めた。
浜辺さんの可憐な残り香は、僕の自室を永遠の楽園に変え、僕はその楽園の住人でいられる幸福に感謝し、深く息を吸い込んだ。そうするだけで、浜辺さんがこの部屋にいたという事実を実感できて、僕は、もう、有頂天にならざるを得なかった。
浜辺さんが去ってから数分後、柿崎が僕の自室のドアを開けた。
「浜辺さん、いま帰ったよ」柿崎が言った。「彼女と、ちゃんと話せたか?」
「話せたよ。話すべきことを、全てね」僕はベッドから立ち上がり、柿崎に握手を求めた。「君のおかげだ、柿崎。浜辺さんに正直に相談するべきだと君が助言してくれたから、僕は、このちんちんの問題を浜辺さんに話すことが出来たんだ。そうして、浜辺さんからオナニーの許しをもらうことが出来たんだ。本当に、ありがとう、柿崎」
「俺は余計なお節介を焼いただけさ」そんな素直じゃない発言をしながらも、柿崎は僕との握手に応じてくれた。「浜辺さんとセクシュアルな問題について話せたのは、お前の勇気の賜物だよ」
「君が親友でよかった」僕は目頭を熱くしながら言った。
「俺も同じ気持ちだよ」柿崎はとびっきりハンサムな笑顔を作った。
「これからどうする、柿崎?」握手を終えて、言う。「僕のオナニーが終わるまで待ってるかい?」
「いや、俺ももう帰るよ。お前のオナニーを急かせてしまうのは忍びないからな」
余りにも人間が出来過ぎている十七歳の少年に、僕は心底から感心した。
「花井。人生最高のオナニーをしろよ」
その言葉を残して、柿崎もまた、僕の家から去っていった。
一人になってすぐ、僕は上着を脱ぎ捨て、全裸になった。それから、パソコンを起動し、世界遺産映像集という偽名を与えてある秘密のエロフォルダを右クリックした。
「浜辺さんは言った。私だけで、して、と。僕は、浜辺さんだけで、する。浜辺さん以外の女性に発情することは、この先、永遠にあってはならないのだ。僕の精は、僕の愛は、浜辺さんだけのものなのだから」
僕は、秘密のエロフォルダを削除し、ゴミ箱に送られたそれさえをも、完全に削除した。
十六歳にして果たした、エロの断捨離。後悔はなく、唯、浜辺さんに全てを捧げるのだという誇らしさだけが、あった。
清々しいまでに清潔な心持ちで、僕は浜辺さんが立っていた場所に両膝をつき、絡めるような指で愛の如意棒を握った。
浜辺さん、と囁いて、彼女を想う。官能的な姿である必要はなくて、今日の、清楚な身なりで笑顔を浮かべた彼女の姿を想う。それだけで、もうこれ以上は大きくならないだろうと思われた愛の如意棒は、更に膨張し、その浮き上がった血管や神経の末端にまで、愛情に満ちた。
包皮がずる剥け、全てを露出したタートルヘッドが、思いやりの潤滑油を以てして、滑り、瞬く。今日一日、僕を悩ませ続けた、魔獣。自らのモノであるそれにさえ、得も言われぬ愛おしさを感じ得て、僕は、まるで愛する人の陰核を扱うようにして、愛の如意棒を優しく撫でさすった。
「君を想い、君に果てる」
そう口にして、後はもう、快感に心身を委ね、愛する人の名を叫び続けるだけだった。
性のピストン運動は、次第に荒々しさを増していくも、決して秩序を損なうことはなく、思いやりの潤滑油に塗れながら、くちゃくちゃと性の音色を奏で、精液の呼び水としての純粋な役割を果たした。
一際大きな声で、浜辺さん! と叫び、その叫びに呼応するようにして、熱情が放たれる。
ティッシュなど間に合おう筈もなく、空を舞った、精液。それは、微塵の汚れも有さない、純愛の雫だった。
愛を放出し、それでいて、愛に満たされる、矛盾。僕は、事後にあるはずの虚無を感じることもなく、浜辺さんへの愛情が深まっていく幸福に打ち震えながら、愛の如意棒を慈しむように見下ろした。
縮み、萎み、包皮がタートルヘッドを覆い隠した、もはや魔獣とは呼べない、無垢な子ウサギのような姿の、正常を取り戻した愛の如意棒。僕は、その包皮の皺を愛でるように撫でた。
やがて、陽光が夕日の色を帯びた。僕はカーテンを開け放ち、夕日を見やり、それが早く沈んでくれることを願った。浜辺さんに会える明日が、狂おしいほどに恋しかった。僕はもう、骨の髄まで、浜辺さんに首ったけだった。
僕は、徐にカーテンを閉め直した。そうして、浜辺さんを想い、再び自慰に耽る。
いずれ、精は枯れる。しかし、浜辺さんへの愛が枯れることは永遠にない。長い夜を迎えるなかで、僕はそう確信していた。
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