第7話 禁欲の代償 ブラッシュアップ不足バージョン

 失ってしまった幸福の数を指折り数えた。優しげに揺らめく銚子電鉄の車両をゴンドラに見立てて、その乗り心地と車窓から覗く景観を浜辺さんと楽しむはずだった幸福。明神町を練り歩き、港の色香が強まっていく中で、足音と声音の絶え間ない重なりが不意に恥ずかしくなって、浜辺さんと同時にはにかむはずだった幸福。銚子漁港に水揚げされた活きの良い魚介類に舌鼓を打ち、食が進んだ暁には、豊かな海の恵みを使って、浜辺さんと、あーん、をし合うはずだった幸福。ウオッセ21内の各施設を散策し、夫婦ケ鼻の地層を前に悠久の時を思い、僕たちの関係も夫婦ケ鼻層のように長い時間をかけて愛を積み重ねていけますように、と、浜辺さんと一緒に願うずだった幸福。銚子ポートタワーからの展望に刺激されたロマンスを糧に浜辺さんと寄り添い、昂った情愛を持て余し、太陽が水平線に隠れた瞬間の生まれたての闇を利用して、初な口付けを交わすはずだった幸福。指折り数えて、出来上がった握りこぶしを、涙の一粒が濡らす。悔恨が涙の源泉で、どれほど泣こうとも涙が枯れることはなかった。デートに行けなくなった旨を浜辺さんに電話で伝えてから、もう四時間が経過していた。

 朝から何も食べていない、何も飲んでいない。それでいて、空腹も渇きも感じることはなかった。摂食中枢および摂水中枢に異常を来すほどに、僕の肉体は活力を失っていた。そんな退廃した肉体にあって、唯一か所、愛の如意棒だけが、生命の灯火を宿し、生物の本能をまざまざと体現しながら猛り立っていた。

 未だ治まらぬ、勃起。僕は、浜辺さんとのデートをぶち壊した股間の魔獣を憎みながら、同時に、原因不明な股間の異常に恐怖も懐いていた。

 治まらぬ勃起、その原因と解決策を求めて、僕は既にネットで大量の情報を収集していた。そうして得た情報の中に、持続勃起症という疾患があったが、それは僕の状態とは合致しなかった。持続勃起症と僕の状態の差異、その一つが痛みの有無であり、持続勃起症は痛みを有することが多いが、僕の状態には痛みは全く無かった。もう一つの差異は、勃起の持続時間にある。持続勃起症は何時間も継続して勃起し続ける。しかし僕の勃起は、十五分からニ十分ほどで一度おさまり、二分か三分ほどのブレークタイムを有した後、再び十五分からニ十分ほどのあいだ勃起し、またブレークタイムを挟むというサイクルをもっていた。これらのことから、僕の状態は持続勃起症ではないことが分かった。そうなると、僕の状態が一体なんであるのかは全くの不明となり、未知は恐怖を強めて、僕の精神を蝕んでいった。

 「怖い! 怖いよぉ!」とうとう恐怖に精神を支配された僕は、あられもなく絶叫した。その叫びは自室の孤独に木霊した。「ちんちんが怖いよぉ!」

 布団に潜り込み、がたがたと震える。これほどの恐怖を感じるのは、中一の長夜に一人でシャイニングを観たとき以来だった。

 掛け布団を帳にして、出来上がった暗闇は、無限に続く悪夢のようだった。

 「自分はこれから一生、この狂った魔獣を股間に携えて生きていかなければならないんだ。そうなれば、もう全うな日常生活を送ることは不可能だろう。当然、こんな魔獣を同伴して浜辺さんと会うことなど叶わない。僕は二度と、浜辺さんに会えないんだ・・・・・・」

 自分の股間が魔獣と化してしまった事実よりも、浜辺さんと会えなくなる事実のほうが遥かに苦痛だった。恐怖を優に上回る口惜しさを覚えて、僕は流す涙の勢いを増した。

 嗚咽が鼓膜を刺激し続ける中で、その嗚咽の僅かな切れ間に、スマホの着信音が聞こえた。僕は、越冬を邪魔された亀みたいな体で布団から這い出し、机に置いておいたスマホを手に取り、発信者を確認することもなく通話に応じた。

 「よう、花井」スマホから聞こえてきた柿崎の声だった。「今、君ヶ浜駅の近くで福原と和田さんに会ってさ。それで、花井も誘ってこれから四人で銚子ボウルに行ってビリヤードをやろうって話になったんだけど、お前の都合はどうだ?」

 慣れ親しんだ親友の落ち着いた声音に、僕の甘えん坊な心根は刺激され、強張っていた精神が解れて、僕は赤ん坊のように泣きじゃくり、自分の弱さを無防備に曝け出した。

 「助けて、柿崎。助けてぇ」

 それだけ言って、僕は電話を切った。それからスマホの電源も切り、再び布団に潜った。

 閑静な住宅街に、道行くカップルのものであろう幸せそうな笑い声が響いた。情交の色濃いその声音に嫉妬を覚えて、僕は強く唇を噛み、心に思い浮かぶ浜辺さんの偶像を慰めにして、無情の現世を耐え忍んだ。

 カップルの声が聞こえなくなってからは、無音が果てしなく続いた。時の過ぎ去る様、その残酷さが鮮明に浮き彫りになるほどの、澄んだ無音だった。

 「史上最悪レベルの、かまってちゃんだ、僕は」時間が経って、過去を冷静に振り返れるようになった僕は、先ほどの柿崎に対する自分のアクションを顧みて、自己嫌悪に陥りながら呟いた。「柿崎に甘えているにも程がある。僕は、股間ばかりか心までをも魔に支配されてしまったようだ。我ながら、情けない有様だよ、本当に。浜辺さんに心配をかけて、柿崎にも心配をかけて、ちんちんを持て余しながら、布団に籠って不毛な時を過ごしている、僕。度し難いよ。本当に度し難いよ。心底から度し難いよ、花井潤」

 恐怖や後悔といった数多の負の感情が入り混じった混沌に精神を浸し続け、思考が混迷の限界点に達して、僕はとうとう思考を放棄し、絶望をゆりかごとして、眠りを求めた。

 逃避の惰眠、その深い沼に片足を突っ込んだところで、ドアチャイムが鳴り響き、僕は覚醒状態に引き戻された。

 ドアチャイムは、何度も執拗に鳴らされた。その必死なコールに、居留守を決め込もうとしていた姑息な心を揺り動かされ、僕は自室を出て、一階に降り、インターホンのモニターを見やった。

 「柿崎・・・・・・」モニターに映る、必死な形相でドアチャイムを鳴らす柿崎の姿を認めて、僕は吐息のような声を漏らした。「柿崎・・・・・・」

 友情の甘い芳香に誘われて、僕はサンダルをつっかけ、玄関に立った。

 玄関のひんやりとした空気に露出したままの愛の如意棒を刺激されながら、僕は玄関ドア一枚を挟んで柿崎と向かい合った。

 「柿崎。来てくれたんだね」

 そう言った自分の声が余りにも幼くて、僕の羞恥心はかき乱され、自ずと頬が熱を持った。

 「あんな声を電話で聞かされたら、お前の許に駆け付けるほかないだろ」乱れた呼吸を整えながら、柿崎は緊迫感の露な声で言った。「それで、何があったんだ、花井? お前、大丈夫なのか?」

 僕との通話後、柿崎が君ヶ浜駅付近から僕の自宅まで全速力で走ってきたであろうことが容易に理解できて、僕は、セリヌンティウスがメロスに対して懐いたであろう信愛と同等の感情を以てして、柿崎を想った。

 「心配を掛けてしまって、ごめんよ、柿崎」恐縮の余りに声の芯まで震わせて、僕は言った。「デリケートな問題が生じているだけさ。命に係わるとかそういった類の問題ではない。だから、過度な心配は不要だよ、柿崎」

 「俺に姿を見せられないのは、そのデリケートな問題ってやつのせいか?」少しだけ緊迫感の薄れた声で、柿崎は言った。「玄関ドアを開けるのは無理そうか?」

 僕の身を案じて駆け付けてくれた親友に対して、門戸を閉ざす無礼を働く不義理の極。それを良しと出来るほど僕は薄情な人間ではなく、居た堪れない気持ちが強まって、自ずと伸ばした手はサムターンに触れた。

 「僕は今、えげつないほど卑猥な姿をしている」サムターンをつまむ指先を震わせながら、僕は言った。「この姿を見れば、君の目は汚れることになるかもしれない。この姿を見れば、君の心にトラウマが生じることになるかもしれない。それでも、この扉が開かれることを、君は望むかい、柿崎?」

 「愚問だな。鬼が出ようが蛇が出ようが、構いやしねえ。さっさとこのドアを開けな、花井」

 その声が、蛮勇を以てしてではなく真の勇気を以てして発せられたものであることを、凛とした響きが証明していた。称賛に値する柿崎の勇気に心を打たれた僕は、意を決し、玄関ドアを開いた。

 外気に触れ、尚も猛り立つ愛の如意棒。そんな文字通りの恥部に注がれる柿崎の眼差しは澄み渡るほどに冷徹で、僕のサガに妖しい快感を過らせた。

 「僕のパトスを見てくれ」身震いしながら、僕は言った。「こいつをどう思う?」

 「今にも火を噴きそうだ」僕の愛の如意棒を注視したまま、微塵の動揺も見せず、柿崎は言った。「まるっきりファンタジーな代物だ」

 柿崎が前進して、僕は後退する。玄関に入った柿崎は、玄関ドアを閉め、そのまま鍵も閉めた。そういった動作の最中にも、柿崎は僕の愛の如意棒から一瞬も目を離さなかった。

 透視能力を有しているかのような柿崎の目に当てられて、僕は恥骨さえをも視姦されているかのような錯覚を覚え、羞恥に悶えた。

 「小父さんと小母さん、それと陽菜ちゃんは留守か?」

 「何を馬鹿なことを聞いてるのさ、柿崎。留守でなきゃ、こんな格好で玄関までこれるわけないだろ」

 「花井なら有り得なくもないと思って聞いたんだ」

 「僕を何だと思ってるのさ?」

 「変態だろ、花井は」

 そんな意地悪をとんでもなく良い声で言われたものだから、僕は抗いようもなく、ぞくぞくしてしまった。

 「家族が留守とはいえ、そんな有様じゃリビングで優雅におしゃべりというわけにはいかないだろう」そう言って、柿崎は靴を脱ぎ、上がり框を越えた。「お前の自室で話を聞くよ」

 柿崎は僕の自室に向かうべく階段を上がっていった。僕も柿崎の後を追うようにして階段を上がった。

 自室にて、柿崎と向かい合う。僕はベッドに座り、柿崎は椅子に腰掛ける。カーテンの閉め切られた、人工の淡い明かりに満ちた六畳の密室。柿崎の常軌を逸した色気が籠っていく中にあっては、異性愛者の僕でさえ、体を火照らさずにはいられなかった。一筋の汗が、僕の頬を伝った。

 「早速、そいつの話をしよう」柿崎は僕の愛の如意棒を指差した。「尋常ならざる膨張を果たした、そのじゃじゃ馬の話をしよう」

 その余りにも単刀直入な物言いに、僕は恥じらいに口ごもる権利さえ奪われ、従順な畜生の体で真実を打ち明けた。

 「今朝から、勃起が治まらないんだ」そう口にしただけで、感情が渦を巻き、僕の思考を掻き乱した。「今日は浜辺さんとデートの約束があったのに、ちんちんがこんな有様で、結局、行けなかった! ドタキャンをするという無礼を浜辺さんに対して働いてしまった! 浜辺さん、ごめんね! ごめんね!」

 混乱状態に陥った僕は、激しく号泣した。混乱は涙腺を刺激する特上のスパイスで、涙は滝のように流れた。

 ベッドが、軋んだ。柿崎が僕の隣に腰掛けたのだ。柿崎は、僕の背中をさすり、「落ち着け、花井。まずは、その治まらない勃起を何とかしよう」と優しい声で言った。

 根気強く、柿崎は僕を慰めてくれた。その労が功を奏して、僕は数分ほどで泣き止み、冷静な思考を取り戻した。

 「持続勃起症、という疾患がある」僕が泣き止んだのを確認した柿崎は、椅子に座り直し、再び僕と向かい合って、言った。「お前のそれが持続勃起症であるならば、今すぐにでも泌尿器科を受診しなくてはならない。持続勃起症は受診が遅れれば遅れるほど、重度の後遺症が残る可能性があるからだ」

 「僕のこれは、持続勃起症ではないと思う」鼻をすすりながら、僕は言った。

 「そう思う理由は?」

 問われて、僕は僕の状態と持続勃起症の差異を柿崎に話した。その説明を聞き終えると、柿崎は得心がいったように深く頷いた。

 「持続勃起症でないならば・・・・・・」柿崎は腕を組み、しばらく思案した後、言葉を紡いだ。「ちんこが猛り狂う理由は、他に一つしか思い浮かばない」

 「その一つというのは?」藁にも縋る思いで、僕は尋ねた。「焦らさないで、教えて、柿崎。お願い」

 柿崎は、足を組むなどして悪戯に解を引き延ばした後、厳粛な口振りで、「オナ禁による、ちんこの大暴走だ」と言った。

 上質な絖を思わせる柿崎の口、そんな口とは対照的な卑猥すぎるパワーワードが飛び出して、面食らった僕は、オウム返しの体で、「ちんこの大暴走・・・・・・」と呟いた。

 「いや、オナ禁などと、そんなことは有り得ない話だな」柿崎は首を横に振った。「生粋のオナニストであるお前が、オナ禁などしようはずがない。出来ようはずがない」

 人のことを盛りがついた猿みたいに言う柿崎に小さな憤りを覚えて、僕は刺のある声音で、「僕、してるよ、オナ禁」と言った。

 僕の猛り立つ愛の如意棒を目撃してさえ微塵も動揺を見せなかった柿崎が、僕がオナ禁をしているという事実を知った途端に、驚愕を露にした。

 「している? オナ禁を? あの花井が?」綺麗な顔に冷や汗を滴らせながら、柿崎は言った。

 「しているよ。オナ禁を。この僕が」常日頃から冷静沈着な柿崎の狼狽える様が愉快で、僕は微笑を浮かべ、言った。

 「何日目だ?」冷や汗を拭いながら、柿崎は言った。「オナ禁して今日で何日目だ?」

 「浜辺さんと付き合い始めた日からだから、今日で十三日目だね」

 「約二週間も!」叫んで、柿崎は勢いよく立ち上がった。「馬鹿野郎! 金玉が爆発するぞ!」

 唐突に怒鳴られて、僕は再び面食らい、オウム返しの体で、「金玉が爆発する・・・・・・」と呟いた。

 肩で息をするほどに呼吸を乱した柿崎は、徐に姿見へと目をやり、そこに映る自身の取り乱した様を見て、深呼吸をし、美しい切れ長の目の鋭い目尻をなぞりながら、「取り乱してしまって、すまない」と言った。それから、柿崎はゆっくりと椅子に座り直した。

 「君がそんなにも取り乱すほどに、オナ禁とは危険な行為なのかい?」僕は恐々としながら尋ねた。「僕、オナ禁は初めてだから、よく分からないんだ」

 「個人差が激しく存在する事柄である以上、一概に危険とは言えない」冷静さを取り戻した口調で、柿崎は言った。

 「個人差?」

 「常日頃からオナニーの回数を調整している男や、もともと性欲の弱い男ならば、十日ほどの無理のないオナ禁によって社会生活におけるありとあらゆるパフォーマンスを向上させることが出来る。しかし、お前のように毎日オナニーに耽っていたような男や、性欲の強い男であったならば、十日ほどのオナ禁でさえ心身に異常を来すことになる」

 ショッキングな内容の話に、僕は言葉を失った。柿崎も深刻な表情で黙り込み、場を沈黙が支配した。

 沈黙に堪え兼ねて、僕が口を開く。

 「その心身に来す異常というのが、僕のこのちんちんの状態だと?」

 「オナニーは男の生理だ」柿崎が言った。「生理とはサイクルだ。男の生理の場合、女の生理と比べてサイクルの個人差が極端に大きい。五日に一回射精することがベストなサイクルである男がいる一方で、毎日射精することがベストなサイクルである男もいる。女同様、男もサイクルが乱れたならば、心身に異常を来すのは必然。自分に適した射精のサイクルを見極め、適時適度にオナニーをしていくことは健康管理の一環だと知れ」

 躊躇ない断定口調に気圧されて、僕は唸った。

 「約二週間に及ぶオナ禁。それは花井潤という生粋のオナニストにとって究極のサイクルの乱れ。その狂ったちんこは、正しく、禁欲の代償」

 「それじゃあ、このちんちんを鎮める手段は・・・・・・」そう言って、僕はごくりと唾を飲み込んだ。

 柿崎は首を縦に振った。

 「精巣上体に溜まった毒を抜け、花井。オナニーをするんだ。さすれば、狂ったちんこは正常に戻る」柿崎の語気が強まる。「禁を解き、金を解き放て!」

 永遠に思われた股間の悪夢、その絶望に兆した唯一にして絶対の希望、自慰。その希望に伸ばした手が、希望を掴む寸前になって、止まる。やがて、その手は希望から遠ざかり、悪夢の暗い深淵へと戻っていった。 

 「何を躊躇することがある、花井。オナニーを躊躇うほど初ではないだろう、お前は」

 「出来ないんだ、柿崎」僕は両手で頭を抱えた。「オナニーは、出来ないんだ」

 「そういえば、さっきお前、浜辺さんと付き合い始めた日からオナ禁をしていると言っていたな」冴え渡る声で、柿崎が言う。「オナニーが出来ない理由、浜辺さんと何か関係があるんだな?」

 ずばり真実を言い当てられ、僕は崖っぷちで船越栄一郎さんに詰められたような気分になって、すらすらと真相を語り出した。

 「オナニーにはオカズが必要だ。パソコンのデータにしろ妄想にしろ、オカズは女性だ。浜辺さん以外の女性だ。浜辺さん以外の女性を用いてオナニーを行うということは、すなわち、浜辺さんへの裏切り行為だ。浮気だ」

 僕が言い切ると、今度は柿崎が両手で頭を抱えた。

 「馬鹿な・・・・・・」柿崎が呟いた。「馬鹿な・・・・・・」

 「そうさ! 馬鹿さ!」僕は勢いよく立ち上がった。「浜辺さんを傷付けまいとオナ禁をして、結果的に、デートをドタキャンすることで浜辺さんを傷付けてしまった僕は、馬鹿さ! 大馬鹿さ! 愚の権化、花井潤、ここにあり! さあ、笑えよ、柿崎! 馬鹿な僕を笑って罵ってくれ! 柿崎! 笑ってくれぇ!」

 「笑いやしないさ」柿崎は両手を頭から離し、嘲りの微塵もない目で僕を見上げた。「迷走しているとはいえ、付き合ってる子のことを真剣に考えているお前を、笑いやしない」

 柿崎の眼差しが余りにも優しくて、僕のいきり立った感情は宥められた。落ち着きを取り戻した僕は、「興奮してしまって、すまなかったね、柿崎」と言って、ゆっくりとベッドに座り直した。

 柿崎は無造作に視線を落とし、カーペットの上に落ちていた一本の髪の毛を細い指先でつまみ、それをゴミ箱にそっと捨てた。

 「浜辺さん以外の女でオナニーを行うことに気兼ねがあるというのなら・・・・・・」出し抜けに、柿崎が言う。「浜辺さんをオカズにしてオナニーを行えばいい。それなら、浮気じゃないだろう?」

 「親友だからって、言って良いことと悪いことがある!」僕は再び勢いよく立ち上がった。「浜辺さんをオカズにしろなどと、よくもまあ言えたものだね、柿崎! 清純な浜辺さんを妄想で辱めて汚せなどと、よくもまあ言えたものだね、柿崎! 君はそれでも人間か!?」

 「浜辺さんを辱める必要などない」激昂する僕とは対照的に、柿崎は飽くまで冷静だった。「浜辺さんのプラトニックな姿を思い浮かべ、恋慕の情を以てオナニーに励めばいいのさ。一切の淫らを排して臨む行為であるならば、浜辺さんを汚すこともないだろう?」

 まるで徳の高い僧のありがたい御言葉であるかのように、柿崎の言葉は僕の心に染み渡った。柿崎に後光が差して見えて、僕は思わず合掌してしまった。

 「一切の淫らを排したならば、オナニーでさえ、プラトニックラブ」声が自ずと、漏れ出た。

 「悟りを開いたな」柿崎が微笑んだ。「よし! イけ! 花井!」

 僕は、両目を閉じて、浜辺さんの姿を思い浮かべた。僕のよく見知った、君ヶ浜高等学校の制服に身を包んだ浜辺さん。優しい笑みを湛えた、日常の1ページを切り取ったかのような、浜辺さん。淫らはない、それでいて、僕を滾らせるのには充分すぎる魅力を有した浜辺さんの幻影を、僕は心の目で慈しんだ。

 「さらにデカくなりやがった」

 聞こえてきた柿崎の驚嘆の声さえ、すぐに記憶の彼方へと追放して、僕の全てはプラトニックな浜辺さん一色に染まった。

 子犬の頭を優しく撫でるかのような慈愛に満ちた手付きで、愛の如意棒を握る。脈打つ純真な愛情を手の平に感じて、尚も慈愛の念が強まった。後は、性のピストン運動を行えば、全てが終わる。そんな最終局面に至って、僕の肉体は突如として凍て付いたかのように動きを止めた。

 「なぜ止まる!? 花井!?」柿崎が叫んだ。「シコれ! 一思いにシコれ!」

 「出来ない・・・・・・」悲痛な声が零れ出て、僕は両膝を床につき、両手も床について、四つん這いになった。「出来ないよ・・・・・・」

 零れた一粒の涙が、カーペットに小さな染みを作った。儚いばかりのその染みに、僕は想い人の瞳を重ねた。

 「花井」柿崎が僕の背中に優しく手を置いた。「どうして出来ないのか、その理由を話してくれるか?」

 「浜辺さんに何の断りもなく、浜辺さんをオカズに用いることは、例えプラトニックな幻影を用いたとしても、一方的な性交渉に他ならない」涙声で、僕は言った。「僕は浜辺さんのことが、本当に好きなんだ。彼女が、本当に大事なんだ。だから、性の問題に関しては、きちんとけじめを付けたいんだ。浜辺さんを勝手に慰み者にすることは、僕には出来ない」

 「付き合い始めたばかりの彼女のことで、そこまで真剣に思い悩むのか、花井・・・・・・」感嘆しているのか侮蔑しているのか、何とも判断し難い声で、柿崎は言った。「真面目が過ぎるよ、お前は」

 約束された開放を目前にして暗礁に乗り上げた、悲劇。艱難辛苦の末に、ソポクレスも真っ青な展開に陥って、僕の精根はいよいよ尽き果てようとしていた。

 「花井。最後の提案がある。聞いてくれ」疲弊しきった僕を労わるような声音で、柿崎が言った。

 「最後の提案というのは、何だい、柿崎?」風前の灯火のような声を、僕は柿崎に返した。

 柿崎は、大きく息を吸い、吸った息を吐き出す勢いそのままに、「浜辺さんに正直に相談しろ」と言った。

 柿崎の発言に我が耳を疑った僕は、徐に立ち上がり、空虚な目で柿崎を見下ろして、「今、一体全体、何て言ったんだい、柿崎?」と呟いた。

 片膝をついていた柿崎は、ちょうど目線の高さにある僕の愛の如意棒を一瞥した後、立ち上がり、真剣な目で僕を見下ろし、「今のお前の状況をありのまま浜辺さんに相談しろ、と言ったんだ」と言った。

 「そんな無茶苦茶な!」僕は絶叫した。「オナ禁して勃起が治まらなくなったなんていう珍事を、浜辺さんにわざわざ言って聞かせろと言うのか、君は!? そんな如何わしい話を聞かされた浜辺さんがどんな気持ちになるか、考えてみろ、柿崎!」

 「落ち着け、花井」

 柿崎は僕の肩に触れようと、そっと手を伸ばした。その手を、僕は払いのけた。

 「見損なったよ、柿崎! 女の子が傷付くことになるような提案をするなんて! 君は人の皮を被った獣だ!」

 「恋愛とはコミュニケーションだ」僕からの罵倒を物ともせずに、柿崎は澄んだ声を出した。「デリケートな問題であれ、セクシュアルな問題であれ、何であれ、パートナーと問題を共有することが、恋愛だ。問題を一人で抱え込むことは、究極の独り善がりでしかなく、それはパートナーへの裏切りに等しい。どれほどの痛みを伴おうとも、自分の抱えている問題を相手に伝えることこそが、真の誠意だ、花井」

 恋愛経験の皆無な柿崎でありながらも、その発言には異様な説得力があった。僕は、激昂していたことすらも忘れて、大人しく柿崎の声に聞き入った。

 「コミュニケーションを怠ったならば、恋愛は惰性に成り果てる。共有されることのなかった問題は、惰性の内で着実に燻り続け、やがて、些細な不和をきっかけに激しく燃え上がり、全てを焼き尽くす。パートナーを想い、パートナーとの長い恋愛関係を願うのであれば、素直に、正直に、誠実であれ。相手に伝えるという行為を、決して軽んじるな。花井。今、お前が抱えているちんこの問題は、浜辺さんと協力して解決しろ。浜辺さんの問題はお前の問題でもあり、そして、お前の問題もまた浜辺さんの問題でもあるのだから」

 愛の伝道師と化した柿崎の熱弁が、終わった。その弁は、僕の心を強く掴んだ。

 「僕は、浜辺さんに何を求めればいいのでしょうか?」自ずと、敬語になる。「浜辺さんに何をしてもらえばいいのでしょうか?」

 「お前は何を望んでいる?」

 質問を質問で返されるも、僕はそれを微塵も苦にせず、心のありのままを言葉に変えた。

 「オナニーの許しが欲しい・・・・・・浜辺さんから」

 「その素直な気持ちを、浜辺さんに聞いてもらえばいいさ」

 そう言って、柿崎は微笑み、僕の肩に優しく手を置いた。

 遂に手にした真実の希望。それは癒しの霊水となって僕の魂に染み渡り、疲弊を取り除き、活力を漲らせた。

 「心の準備ができ次第、浜辺さんに電話をするよ」自分でも驚くくらいに元気満々な声が出た。「今日、デートをドタキャンしてしまった本当の理由を話して、それから、僕のちんちんの問題を一緒に解決してもらうよ」

 そう言い終わってすぐ、ドアチャイムが鳴った。

 僕は躊躇なく玄関に向かおうとしたが、それを柿崎に制止された。

 「下半身がそんな状態じゃ、来客に対応できないだろう」そう言って、柿崎は僕の前に進み出て、僕の自室のドアを開いた。「俺が代わりに対応してくるよ」

 「何から何まで悪いね、柿崎」心底からの感謝を込めて、僕は言った。

 「気にするな」

 そう言って、柿崎は廊下に出て、僕の自室のドアをゆっくりと閉めた。

 僕は、徐に、カーペットの上で座禅を組んだ。そうして、穏やかに、着実に、心の状態を整えていく。全ては、浜辺さんとのラブコミュニケーションを可能にする精神状態へと到達するために・・・・・・。

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