第9話

 意識が戻った後も、視界はぐにゃぐにゃと歪み、脳はふわふわとしていた。

 目を覚ますと、那衣は写真展の従業員室のソファに横たわっていた。

 人間、キャパシティを超えるほどの衝撃を受けると、こうなるのかと思い知った。


「気分はどうだい、嬢ちゃん」


 首を左に倒すと、椅子に座った池田がこちらを見ていた。


「救急車呼ぶか、迷ってたところだ。大丈夫か」

「…平気です」


 上体を起こそうとするが、力が抜けて起き上がることができない。脳からの命令が体に伝わっていないような感覚だった。


「無理するな。しばらく寝たままでいい」

「ありがとうございます」

「起き上がれそうになったら、ソファの前に水を置いておいたから飲んでくれ」

「はい」


 那衣は首を正面に戻して、天井を見上げた。

 緩くなっている脳みそを、ゆっくりとかき混ぜるように、倒れる前の話を思い出してみる。

 池田は自分が、おぎわらだと言った。

 本当に池田がおぎわらならば、アフィニティノートで、那衣とやり取りしていたのはこの男だということになる。

 写真の意味は、過去の遍歴を“半生“とするほど大層なモノじゃないと池田は言った。確かに、5枚目の写真は今までの殺風景な写真とは異なり、那衣の推測から外れていた。

 頭がぐるぐるする。

 記者なのか、と聞いてきた池田の目には警戒心が含まれていた。花川殺人事件と池田との関係性を尋ねられることを恐れたのだろうか。もしかして、実は事件の真犯人は池田なのか。…いや、これはないだろう。ドラマの見過ぎだ。

 写真と花川殺人事件は、少なからず関係があるものなのは間違いない。だが池田が真犯人だとしたら、殺人事件と関連のある写真をわざわざ掘り返して、写真展を開くなんて事をするはずがない。

 段々と意識がはっきりしてきたところで、

「嬢ちゃん」

と池田が不意に呼びかけてきた。那衣は、ゆっくりと顔を池田の方へ向けた。


「嬢ちゃんはさっき言ったよな。あの写真は、終わってしまったと思う人生を振り返ったときに、半生と呼べるほどの瞬間を並べている作品だって」

「はい、あなたには否定されましたが」

「あなた呼びはよしてくれ。池田でいい」

「わかりました。じゃあ、池田さんには否定されましたが」

「そうだな。あの写真は、俺のダチが撮ったものなんだよ」

「もしかして、それがおぎわらさんなのでしょうか」

「嬢ちゃんは鋭いな。正解だ」


 那衣はソファにもたれかかりながら、ゆっくりと背を起こした。テーブルに手を伸ばして、コップの中の水を一口飲んだ。その様子を見守るように待ってから、池田は続けた。


「あの写真は、本当にそんな大したものじゃないんだ。ただの思い出みたいなもんだ」

「…思い出ですか」

「そうだ。5枚目の写真あったろ、アフィニティノートには載せてないが、写真展には展示したんだ。少し長くなるが聞いてくれるか」


 那衣は無言で頷いた。


「俺らは3人は、昔からの馴染みだった。ガキのときから大きくなるまで、ずっとつるんでた。

 荻原が写真家になって少し名が売れ出してきたときだったか、この写真を見せてきたんだ。何の変哲もない殺風景な写真ばかりだが、何処か見覚えはあった。

 荻原に聞くと、俺たちが一緒に旅行に行ったことのある場所を改めて写真に納めて来たのだという。

 そんなことをして何の意味があるんだと、俺は笑ったが、荻原はこう言ったんだ。

 僕にとっては、君達と過ごした時間が夢のような宝物ものだ。

 この写真に君達はいないけれど、それでも僕は君達と過ごした時間をこの景色だけからいつでも思い出せる。

 君達といれば、そこが僕の人生だけど。君達のいないこの写真の景色も僕にとっては半生そのものだと。

 それからこの写真は俺の宝物にもなったという訳だ。人様から見れば、本当につまらない写真さ」


 半生と呼ばれたのは、過ごした場所ではなかったのだ。むしろそこに無かったもの。流れていくような景色の中で、確かにそこに留めておきたい人との繋がりこそが、荻原が半生と呼びたかったものであると那衣は理解した。


「各写真の撮影日は、荻原がこだわって、俺らがかつて旅行した日になっているらしい。日付に関する嬢ちゃんの読みは、当たりだな。場所に関しては、1枚目が地元の北海道。2枚目が山形。3枚目が愛知。4枚目が東京だな。1枚目に北海道を入れたのは、ここを起点に旅をしましたってことらしい」


 場所を移動した日という意味合いでは、引っ越しも旅行も意味合いは同じになると言ってくれているのだろう。気休めの言葉だとは思うが、少し嬉しかった。

 池田の話を受けて、写真に対する大方の疑問は解消されたが、

「そうすると、でも5枚目は…」

と残った疑問を呟くように声に出した。


「ああ、それは謝らないといけないな。半生なんて荻原は言ってくれてたが、やっぱり一緒にいた時をわかりやすい形から思い出せるのも、大事だと思ったんだ。だから5枚目は俺が付け足した。期間限定で、この写真展の間だけだけどな。本当は4枚だけが、アイツの作品だ。5枚目があるなんて嘘ついて悪かった。つい宝物を見せびらかしたくなっちまって」


 座ったまま両膝に手をついて、池田は頭を下げた。


「いえ、全然気にしてませんので。写真について気になっていましたから、意味が理解できて良かったです。ありがとうございます」


 こちらこそ、と那衣は頭を下げ返した。


「嬢ちゃんは変わってるな」


 そう言って、池田は楽しそうに笑った。

 池田の笑い方は見ていると、自分も楽しい気持ちにさせられるように感じた。

 それはそうと、ひとつどうしても確かめておきたいことがあった。


「聞いてもいいですか」

「なんだ」

「一昨日お会いしたときには、そんな喋り方ではなかったような気がしますが」


 どうしても池田の口調が気になっていた。本音を言えば、一昨日会ったときの方が好みだったからだ。

 ああ、と思い出したかのように声に出してから、池田はひとつ咳払いをした。


「こんな感じでしょうか」


 紳士的に感じる優しい口調に、爽やかな笑顔を見せて、池田は答えた。池田に対する疑問は他にも幾つかあった。だが目の前におぎわらがいると思うと、他の疑問を忘れそうになる程に、那衣の気持ちは高ぶった。


「そう、それ。それで喋ってください」

「いや、あの時は写真撮ってたからな。写真撮る時はなんつーか。荻原の真似しちまうんだよ。口調とか」

「荻原の真似…ですか。荻原さんって…」


 言いかけたところで、池田の表情が酷く寂しげなものになっていることに気付く。


「すみません。何でもないです」

「そうか」


 親友とも呼べる荻原が起こした事件について、今ここで会ったばかりの他人に根掘り葉掘り聞かれるのは、避けたいのだろう。だから事実を聞くのは、今すぐでなくてもいいと思えた。今までずっと遠くに感じていた池田おぎわらの存在が、すぐ隣にいる。そのことが、なんというか嬉しかったのだ。


「嬢ちゃん、体調はもう大丈夫か」


 荻原は椅子から立ち上がった。


「はい、もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「写真展はどうする。もう少し見て行くか」

「いえ、そろそろお暇しようかと思います」

「そうか。なあ、嬢ちゃんさえ良ければ、このあと…」

「行きます」

「え」

「え、デートのお誘いかと」


 池田の言葉を待たず、那衣は立ち上がり、返事をしてしまった。はやとちりの悪い癖が出た。池田の口は、開いたままの状態になっていた。


「すいません、私。勘違いして、忘れてください」


 顔を真っ赤にしながら、両手を胸の前に突き出した。羞恥心に殺されそうだった。


「いいよ」


 気のせいかと思うような声が上から降ってきて、那衣は池田の顔を見上げた。視線が合うと、池田は穏やかな表情で、もう一度言った。


「いいよ、デートしようか」

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沖縄と北海道でマッチしたけど、絶対に会えない 畔侑士 @yushi0297

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