最終話 雨が降れば、また

島の中は木が生い茂っていたが、意外と道は整備されていた跡が残っていた。十年間手入れされていないのかもしれなかったが、それにしては歩きやすい道で、枝葉も青々と茂っていた。しばらく早歩きで進んでから後ろを振り返ると、狐たちは追いかけてきてはいなかったようだ。少しほっとして歩みを緩める。あたりを見渡しながら歩くも、家らしい家もなければ、人が住んでいそうな場所もなかった。

——早く、弥子ちゃんを見つけないと……。

雨も強くなって、どんどん暗くなってきた。完全に夜になる前にこの島を出なければならない。そう思って一心に歩いたが、見えるのは木ばかりだった。はあ、と深いため息をついたその時、後ろから腕をぐいっとつかまれた。驚いて振り向くと、そこには背が高く、舞よりもいくらか年上そうな、狐の面を被った女の人がいた。

「止まって。その先へ行ってはだめよ。一周してしまう。」

——一周……。もうそんなに歩いたのか……。

「一周したらどうしてだめなの?というか、もう一周するのに家なんて一つもなかった。どういうことなの。」

「一周すれば、帰れなくなる。この島から出られなくなるの。ここは妖狐の世界よ。家なんてない。」

狐の面の女の人は、緊迫した雰囲気で早口にまくしたてる。

「あなたは一周はしていないから、まだここから出られる。ここを離れて引き返すのよ。来た道を戻って、橋を渡るの。早く。」

最後はもう、絞り出すような叫び声だった。その切羽詰まった物言いに気圧され、舞は女の人が指さす方へ走り出そうとした。——走り出そうとしたのに。


「舞ちゃん。」


突然、背筋が凍るのが分かった。この声は。舞は足を止めて振り返る。やっぱりそうだ。そこにいたのは、弥子だった。間違いなく弥子だ。そのはずなのに、舞は弥子の名前を呼ぶことができなかった。弥子の格好が、白装束だったのだ。まるで、生贄や人身御供のような格好だ。なんでそんな格好なのか。言葉が出ずに、舞は立っていることしかできなかった。そんな舞を、弥子は嬉しそうに見つめていた。

「ああ、舞ちゃん。私のお財布を届けに来てくれたんだね。優しいね、わざわざありがとう。」

舞は目を見開いた。

——そんなこと、なんでわかるの。

弥子のお財布は、鞄の中にしまってあるはずだ。嫌な予感が舞の頭によぎった。必死でそれを振り払う。違う。まさか、そんなはずはない。

 言葉が出ず、黙っていると、弥子は舞の手を取った。

「遅かったから心配してたんだよ。ずっと待っていたんだから。」

その言葉で、舞の懸念は確信に変わった。まずい、とそう思った時にはもう遅かった。弥子が舞の手を握る力は人の力とは思えないほど強く、振りほどけるようなものではなかった。そのまま弥子は舞を引っ張っていく。だめだ、抗えない。助けを求めようと、振り返る。だが、狐の面を被った女の人がいた場所には、一つの石があるだけだった。

——また、石……。

そう思っていると、弥子が言った。

「本当、余計なことをぺらぺらと言ってくれたよね。それで舞ちゃんは惑わされちゃったんだよね。かわいそうに。あの子たちにはもう何もできないのに、最後の悪あがきだなんて仕方がないことをして邪魔するなんて。許せない。」

弥子は舞を引きずり込むように引っ張っていった。弥子を振りほどけないまま、舞は引き込まれる。そしてついに弥子は足を止めた。そして、言った。

「舞ちゃん、いらっしゃい。」

はっとして辺りを見回すと、景色は最初にこの島に来た時と同じ景色だった。だが、橋がない。景色から橋がなくなっている。しまった、と思った。橋があった場所には、鳥居があった。鳥居の奥には、人ひとりが入れるような、大きな箱があるだけだ。ここは一体何なんだ。わけが分からず、舞は鳥居の方をじっと見つめる。

 すると、弥子がゆっくりと振り向いた。その顔に、舞は絶句する。弥子の顔は、もう人間ではなくなっていた。お面でもなかった。狐そのものだった。それで、舞は全てを察した。弥子が来ている服の意味。鳥居の奥の箱の意味。弥子のその顔の意味。そのすべてを。

「生贄として捧げられた、と言っても、神様なんていないから、ここに閉じ込められて死ぬだけだったのよね。そうしたら、それに気づいた村の人たちが、急に私を村の巫女として祀って拝みだしたの。鳥居なんか建てちゃって。」

弥子は——いや、弥子と名乗る狐は、くすくすと笑っていた。

「人が拝むから、私にどんどん力が集まった。パワースポットだなんて人が言うから、どんどん私の力が増したの。霊気なんて、結局は人の思いだから。人がどう思うかで力のありようも変わってくる。」

弥子は、深いため息をついた後、語調を強めていった。

「村のための生贄なら、村の人間の中から生贄を選べばよかった。でも結局、生贄になろうなんて人間は一人もいなかった。だから私を騙して生贄にした。人間の勝手な都合で、私はこんな死に方をしなければならなかった。いくらあなたたちが伝承話を語り継いだって、私の一生が戻るわけじゃない。だから、決めたの。」

舞は、目の前の獣が言わんとしていることを理解して、震えだした。歯が、ガタガタと音を立てる。

「生贄は、私ひとりじゃなくていい。ここで私の力の糧となってくれた三十七人の女の子たちも、みんな生贄。十年眠って、また力を蓄えたから、今度は東雲の女の子たちを生贄にすることにしたの。その記念すべき最初の一人が、舞ちゃんだよ。」

舞の目から涙がこぼれる。出そうと思うのに声が出ない。その間も、狐は嬉しそうに話をした。

「見て見て、舞ちゃん。これが舞ちゃんの石だよ。」

それは、ここに来るまでに会った三人の女の子たちがいた場所にあった石と同じだった。

「舞ちゃんが生贄になった後は、この石が舞ちゃんになるの。だから私は全然寂しくなんかないよ。」

笑顔で話す狐の顔が、舞の顔にぐっと近づく。舞の恐怖に満ちた顔とは対照的なその顔がさらに恐怖をあおった。極限まできた舞の顔は、声なき声をあげる。


「さようなら、舞ちゃん。」


その瞬間、村の天気はひどく荒れ、降っていた雨はさらに勢いを増した。誰かの叫び声が聞こえたような気がするが、それは遠雷だったのだと納得するほどに、雷が鳴っていた。



「おはよう、弥子ちゃん。」

昨夜とは打って変わって、よく晴れた日の朝だった。教室の机に座っていた弥子に、登校してきたクラスメイトの女の子が話しかけてきた。

「おはよう。」

弥子が返す。すると、その子は教室を見渡してから、言った。

「あれ、今日はまだ舞来てないんだね。休みかな。どうしたんだろう。」

「そうだね、来てないね。昨日、雨がひどかったから、濡れて風邪でもひいちゃったのかな。」

「あー、それありえるね。」

その子はけらけらけらと笑う。弥子はくすくすと笑った。

「今日って放課後空いてる?前、三坂村の案内してくれるって言ってくれたから、お願いしたいなって思って。」

「もちろんだよ!今日部活ないから一緒に行こう。」

「よかった。じゃあ、放課後楽しみにしてるね。」

うんうん、と嬉しそうに言うクラスメイトの背後の窓からは、晴れた空から大粒の雨が落ちてくるのが見えた。

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狐の嫁入り 十六夜 @izayoi_ms

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