第3話 違和感

それから約三か月がたち、季節は初夏に入った。とはいいつつも、実際は梅雨である。舞と弥子はあの日以来、毎日のように放課後、公民館に通って一緒に話したり宿題をしたりして過ごすようになっていた。今日も、いつものように二人は公民館にいた。

 明日の理科の授業で提出するレポートを一緒に終わらせようとしていたが、なぜか今日は、いつもより早く弥子のお父さんのお迎えが来たようだった。いつものように自販機で買ったりんごジュースを慌てて飲み干すと、弥子は先に帰ってしまった。

 弥子が帰ったなら帰ろうか、とも思ったが、レポートを終わらせてしまいたかったので舞は残ってそれを片付けていた。

 閉館の時間ギリギリになってようやくレポートが終わった。職員の人たちに申し訳ない、と思いながら急いで帰る支度をしていると、受付のおばさんが慌てたように舞のところまでやってきた。

「これ、自販機のところに落ちてたの。舞ちゃんのじゃない?」

見ると、財布だった。でも、それは舞のではない。弥子のだった。

「これ、弥子ちゃんのだ。」

「あら。じゃあ、明日学校で渡してもらってもいいかしら。」

「もちろん。」

そう言って、おばさんから財布を受け取ると、突然妙な感覚がした。なぜかわからないけど、今すぐ弥子に届けに行かなくては、と思わせる何かを感じた。胸がざわざわとして、居ても立っても居られない様な、そんな感覚だった。

 舞は、おばさんに別れを告げて、公民館から駆け出した。弥子の財布は、鞄の中にしまった。途中、今すぐ届けるってどう届けるんだ、と我に返った。しかし、すぐに思い至った。そうだ、弥子は財布の中に生徒手帳を入れていた。財布の中身を開け、生徒手帳を取り出す。案の定、生徒手帳には住所が記入されていた。そのまま走り出して、東雲地区のタクシー乗り場まで走った。たまたまそこで暇そうにしていたタクシーの運転手のおじさんに声をかける。おじさんは、すぐに準備してくれた。

「ここに書いてある住所まで行きたいの。何円あれば足ります?」

「有明地区か。んなら、二千五百円あれば問題ねえな。ありそうかい?」

舞は自分の財布を開けて中身を確認する。舞の所持金は三千円とちょっと。行くだけなら何とかなりそうだ。舞は運転手に一つ頷いて、弥子の家に向かってもらった。

「んでも、姉ちゃん、こんな時間に女の子一人で有明地区まで行って大丈夫かい。住んでるわけじゃないんだろ?」

道の途中で、運転手が心配そうに舞に話しかけてきた。

「友達の家に行くの。どうしても今届けたいものがあって。」

「そんなとこに人が住んでるって話は、聞いたことがないんだがなあ。」

「最近引っ越してきた子なの。」

そうかい、と運転手は言ったが、それでもまだ心配そうにしていた。舞自身もそれはわかっていた。十年前の事件を忘れたわけではないし、別に明日学校で会うならそのときでいいじゃないかと思う。だが、なぜか今でなきゃいけない、と誰かから言われているような気がしてならない。そんな妙な感覚が、舞の脳内を渦巻いている感じがするのである。

 タクシーが走っている道を見ていると、海沿いの道をただただ道なりに進んでいけばよさそうだというのが分かった。どこかで曲がったり、違う道に入ることもなく、ずっと海沿いの道をたどっている。これなら、帰りは歩きでも帰れそうだった。

 しかし、急にタクシーが止まった。運転手が驚いたような声をあげた。

「姉ちゃん、すまねえな。木が倒れててこの先はもう車じゃ進めねえ。でも、もう目的地は目と鼻の先だ。よく聞け。ここの道を少し進んだら、橋が見えてくる。その橋を渡った向こう岸がそこの住所だ。わかったかい。」

舞は頷いて、予定より少し安くなったタクシー代を払って、タクシーを降りた。

「姉ちゃんが帰って来るまで、ここで待っていようかい?一人で帰るわけにはいかんだろう。金がねえんなら、まけてやるからさ。」

運転手のおじさんの優しさはありがたかったが、やはりそれでは申し訳ないからと思い、断った。

 タクシーを降りると、運転手の言うとおり、大きな木が一本倒れていて道がふさがれているのが見えた。こんな状態で、弥子と弥子のお父さんは帰れたのか、と考えながら、運転手のおじさんが教えてくれた道を歩く。すると、すぐに大きな橋が見えた。その橋の向こうには一つの小さな島があった、それを見て、舞は思い出した。

——ここ、三坂島か……。

三坂島は、有明地区にある島で、十年前の事件が起こる前は、力のある巫女様が祀られているとして人気のパワースポットだったところだ。三坂島は村の中でも有名な場所だから、舞もよく知っていた。確かに、あんな小さな島に人が住んでいるようには見えにくい。運転手が疑問に思うのも頷けた。しかし、届けねば、という思いが先行して、進む足を止められない。気づけば舞は、橋を渡っていた。

 橋を渡っている途中で、雨が降ってきた。梅雨だから仕方がないが、そのせいで視界は悪く、気温も下がって寒くなってきた。鞄の中をあさったが、どうやら傘を忘れたらしい。雨除けになるものもないまま進むしかなかった。橋は大きく、長かった。橋の真ん中あたりまで来て、だんだんと島が不気味に見えてきた。雨のせいだろうか。独りぼっちで歩いているせいだろうか。急に、自分一人ではたどり着かないような気がしてきて、引き返したくなってきた。

——やっぱり、戻ろう。明日でいいや。

そう思って、島に背を向けようとした、その時、後ろから突然手をつかまれた。はっとして振り返ると、そこにいたのは狐の面を被った、舞より何歳か年下であろう女の子だった。女の子は、狐の面をかぶったまま舞の腕を強く握って言った。

「だめだよ。この橋は、一度渡ったら最後まで渡りきらないとだめ。途中で引き返したら、二度と帰れなくなるよ。」

「……え、帰れなくなる?」

女の子は静かにうなずいた。女の子の言っている意味が、舞にはよくわからなかった。さっきまでいなかったはずの女の子が、なぜ今自分の後ろにいたのかもわからなかった。だが、女の子のその言葉が、お面越しからでも伝わるその視線が、嘘をついているようには見えなかった。

「渡り切ればいいのね、わかった。」

そう言って舞が進もうとすると、舞の腕をにぎっていた手が、舞から離れた。数歩歩いてから後ろを振り返ると、そこにはもう女の子はいなかった。代わりに、一つの石があった。わけがわからず、舞は逃げるように橋を渡った。

 橋を渡り切って島の土を踏むと、今度は舞と同じ年ぐらいの女の子が、やはり狐の面を被って立っていた。舞を見るなり、女の子は言った。

「この先には進まない方がいい。橋を渡って引き返して。」

「なぜ?届け物を持ってきただけなの。ここの住所を知らない?」

「ここに人はだれも住んでいない。早く戻って。そこに行ってはだめ。そこは——」

女の子の言葉はそこで途切れた。え、と思った時には、目の前にあるのは石だった。ただ、今回は違う。女の子がいたはずの場所にある石には、一匹の狐が噛みついていた。野生だろうか。石にかみついたまま舞の方をじっと見つめてくる。怖くなってその狐から目をそらすと、目の前にいたのは多勢の狐の群れだった。

——一匹どころじゃない……。

ぞろぞろと現れては、舞の周りを囲んでくる。橋の方向にも、女の子がいた場所の後方にも、狐の群れが集まっていた。退路を断たれた、そう思って周囲を見渡すと、三時の方向だけ、狐が一匹も集まらずに空いていた。狐たちはじわじわと舞に詰め寄って、空いた方向へと追いやろうとする。動かずにいれば、噛みつかれそうな勢いだ。

——橋に戻れないなら、もう行くしかない。

女の子の言葉が少し引っかかりはしたが、狐たちにかみ殺されでもしたら元も子もない。とりあえず逃げなければ、と舞は無我夢中で島の中を進んだ。

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