第2話


 はっ、と気がついて起きれば、「あ、起きた?」にこやかなうさんくさい顔がのぞきこんできた。このひとだれだっけ。うちの使用人にこんな人いたかしら。寝ぼけた頭で考えて、瞬間、椿は事態を思い出した。


『誘拐さ。』


 茶目っ気たっぷりに言い放った男がバチーン☆とウインクを飛ばした所で口元に布が押し当てられて、椿の記憶はそこまでだ。薬品でもかがされたんだろう。指先にしびれがないかなんて頭の隅で考えたけど、それより先に口から言葉が飛び出した。


「ちょ、あなた!誘拐って、」

「こっちにおいで、椿。」


 無視である。男は椿を引っ張り起こして無理やり歩かせると、家のドアひとつひとつを指し示し始めた。


「さっきの部屋が椿の寝室。隣が俺の部屋ね。あのドアがトイレで、あっちが洗面所。奥がお風呂。冷蔵庫の中の物は好きに使ってよ。それで、」

「ちょっと!!」 


 まだ喋り続けそうな男を椿が大声で遮れば、男はにこにこしたまま、「なに?」と、ごく普通に、親しい友達に声をかけられた時みたいに返事をした。

 椿はそれにゾっとして、血の気がサッと引いていったがの分かった。

 ひと一人をさらった人間のする顔じゃない。だって、誘拐って、犯罪でしょう。柳谷の警備がザルだったはずがない。ましてやあの日はパーティーが行われていて、大企業の社長や政治家も居たんだ。あの日を狙ってわざわざ椿を誘拐するだなんて、生半可な覚悟じゃ不可能だ。なのに、どうして、こんなに普通なの。


「————目的は、何。お金?」


 常識が通用しない狂人なのかもしれない。

 そう思いながら、胸元で手を握り締めて、震える声で問うた。男は横に首を振る。


「じゃあ、わたしや父に恨みでもあるの。」


 これにも首を横に振る。男は堅く閉じた椿の拳を「痛くなっちゃうよ」とか言いながら上から包み込んで、椿の眼を見つめた。ビクリ。肩がはねるのを見て、立ち上がって、距離を取る。

 その距離に椿は少しだけ安心して、それでも警戒は解かずに男を見る。男は静かに口を開いた。


「俺が欲しいのは金じゃない。柳谷水仙の命でもない。増してや、君に危害を加えるつもりもない。あと3日、ここで大人しくしてくれないか。その後は、ちゃんと君の家へ帰すから。」


 真摯な表情に椿は一瞬流されそうになって、でも最初に役者のようだと考えたことを思い出した。これは演技で、やっぱり父に恨みが有るか金に目が眩んで椿を害そうとするモノなのかもしれない。誘拐された身だ、言葉なんて信用するに値しない。口約束で安心して殺されてはたまったものじゃない。

 椿は一層強く拳をにぎりしめる。死にたくない。家へ帰りたい。お父さんに、会いたい。


 ―――だけど男の手はどうしてかあたたかかった。

 椿の手を握った手付きだって優しくて、その瞳は穏やかだ。


 さっきだって、椿が怯えるからって距離を取ってくれたし、何だか悲しそうにさえ見えた。

 それに、落ち着いた、深いこえ。一瞬とはいえ、椿はこの男の持つ何かに流されそうになったのだ。覚えた感情は何だったのだろう。あたたかくて、やさしい、なつかしさ。どこかで知っているような――――――――否。椿が男を親しく感じているのではない。男が椿を親しく思っているのだ。昔から、知られているような、感覚。


「あなた、誰なの。」


 質問ばかりの椿に、男はやっぱりわらって答えた。


「松葉菊。」


 名乗った男は椿の反応を見ているようだったけれど、咄嗟のことに唖然とすることしかできない。『松葉菊』というのは、柳谷の家紋に使われている花の名前だ。100%偽名に決まってる。椿の問いに答える気なんてこれっぽっちも無いという意思表示だろうか。ふざけてる!

 言葉も出ないまま口をぽかんと開けて見ていると、男はにっこり笑って通りすがりに椿の肩をぽんぽん、と叩いてどこかへ行ってしまった。松葉菊って、名前のつもりなの。苗字のつもりなの。どっちにしろおかしいじゃない。


 ―――――――マツバギク。

 あの男のことをそう呼ぶのは気がひけた。松葉菊は椿が幼いころから特別に感じている花の名前だ。椿の部屋から見える庭の松葉菊は椿自ら手入れしてきたし、何なら青春時代の唯一の話し相手だったと言っても良い。それくらい椿にとっては思い入れのある草花なのだ。だから、男のことを松葉菊と呼ぶのは、どうしてもためらわれる。


 そこまで考えて、はっと気付く。そうだこんなことやってる場合じゃない!椿は玄関に向かって早足に駆けた。見たところ、ここはちょっと広めのファミリー向けマンションのようだ。

 この部屋から出られさえすれば、隣のおうちの人に警察を呼んでもらえる。家に帰れる。松葉菊と名乗った男の真意はともかくとして、ここから出ていかなければ。

 そうして玄関の扉に手をかけようとした時。


「あら、起きたの。」


 ガチャリと目の前のドアが開く音で、目の前が真っ暗になるような思いがした。あともう少しでドアノブに手がかかりそうだったのに。外から玄関を開けて入ってき女性はどこか冷たい感じがして、椿は身じろぐ。こわい。

 女は椿の脅えを察したのか、「ごめんなさいね」なんて言いながら中へ入って玄関を閉めると、腕にビニール袋をかけたまま両手を持ち上げて、パーにした。降参のポーズに椿は三歩退く。


「怖がらないで。着替えと化粧品を持ってきただけよ。いつまでもドレスじゃ苦しいでしょう。」

「・・・・・あなたは、松葉、菊、とかいう人の、なに。」


 共犯者?恋人?友達?どれにせよ椿の味方ではない。冷たそうな印象の女性は床に荷物を置いて玄関の鍵をしめると、向き直って、鼻を鳴らしてこう言った。


「————あいつ、あなたにそう名乗ったの?ばっかみたい。」


 心底ばかにした、冷え切った表情。あまり二人の仲は良くないようだ。確かににこにこ笑っているあの男とクールな印象のこの女は対象的で相反している。冷たい言葉と態度で一蹴した女は椿が玄関先に居る状況から、ようやく椿が外へ出たがっていたのだと察して目を眇めた。


「ダメよ。このドア、外からも中からも指紋認証とカードキーが無くちゃ開かないんだから。あなたはこのドアを開けられない。」


 冷たい瞳に睨まれて、椿は身を縮めた。一瞬でも安心した自分が馬鹿みたいだ。松葉菊と名乗った男と仲が悪いからってそれが何だと言うのだろう。女は底冷えする声で、椿に絶望を告げた。


「――――――開ける必要もない。」




 冷たく告げた女は、ザクロと名乗った。

 ザクロは椿の腕を掴んでぐいぐいひっぱると、さっき椿の部屋だと紹介された部屋に椿を押し込んで、ソファに座らせた。猫脚の、個室よりもリビングが似合いそうなふかふかのソファだ。

 女は椿の膝にぽいぽいっと着替えを投げて、「着替えなさいな。」なんて一言。確かにウエストを締め付けるコルセットにもふわふわ広がるドレスにも辟易していた所だ。椿はザクロを警戒しながら着替えたが、いざ髪を下ろそうとしてピンがこんがらがった。どうしようも出来ずもたついていれば、ザクロはしかたのない子ね、と言いながらブラシを持って椿の背に立った。意外にも、髪を梳かす動作は優しく丁寧だ。


「私のことは、そうね。ザクロって呼んでちょうだい。」


 出し抜けにそう言われて、椿はオウム返しにした。


「ザクロさん。」


 ザクロはコロコロ笑って、ヘアピンを全部はずしたのを確認するとどこからかヘアミストを取り出して吹きつけた。アロマの良い香りが広がって、今更だけどどうして自分を誘拐した人の一味に身の回りの世話をされているんだろうと疑問に思う。だけど椿はもう眠たくて、疲れていて、ザクロの手付きが優しくて。このまま首を切られて死んでもしょうがないなんて考えていた。


「偽名にさん付けなんかしなくていいのよ。松葉菊、だっけ?あいつのことも菊でも松でも適当に呼べば良いのよ。ううん、そうね。そんな上等な感じじゃないわ。もっと中途半端な感じ。――――マツバ。そうね、マツバって呼ぼうかしら。松の葉っぱなんていかにもちっぽけでどこにでも落ちてそうで、あいつらしいじゃない。」


 はい、できた。


 ザクロは椿の髪の手入れが終わると、ボスンと勢い良く椿の隣に腰掛ける。きれいな足を組んで肘掛によりかかるザクロはやっぱりマツバのことが嫌いなようだった。「あなたもマツバとかゴミクズとかポンコツとか、適当に呼んだら?」どうでもよさそうに言ったザクロはドレスを脱いで髪をおろして化粧を落とした椿に満足そうに頷いてみせた。


「ね、椿ちゃん。何か欲しいものはある?あなたの生活のことを任されてるのよ。あいつのことは嫌いだけど、雇われだもの、仕事はちゃんとするわ。」

「やとわれ。」


 頭の悪いオウムのように繰り返せばザクロは気に入らないという風に鼻を鳴らして頷いた。


「そうよ。あいつ、金だけはいっぱい持ってるんだから、何でもねだっちゃいなさいな。」


 金だけは持っている。

 その言葉は椿に重くのしかかった。お金に困っていないなら、やっぱり怨恨だろうか。油断させておいて、やっぱり殺してしまうつもりかもしれない。

 手にかけるのは、椿かもしれない。椿をエサに使って父を。鹿賀原を。メイドの皆をーーーー順番に見知った顔を思い浮かべればぶるりと寒気が身を襲って、両腕で身体を抱えた。


「・・・おびえてるの?平気よ。ここは安全で、誰もあなたを傷つけやしないわ。」


 誘拐しておいて何だけど。ザクロはそう言って、立ち上がると牛乳をレンジであたためはじめた。個室に冷蔵庫と電子レンジってどうなんだろうと考えたけど、ひと一人誘拐する人達のことなんて分かんないや。そういえばここは何だかひどく寒い。窓の外をちらりと見たけれど、地上からずいぶん遠いようだった。


「ごめんね、椿ちゃん。」


 ザクロは冷たい女性に見えて、情にあつい人なのかもしれない。声音といい表情といい、ずいぶん椿を気遣ってくれる。


「マツバは、どこにいるの。」

「このマンションにはもう居ないわ。今頃どのアジトに居るんでしょうね。」

「あじと。」

「全国に、ここみたいな部屋をたくさん持ってるのよ。」

「————ここから出してもらえないの。」

「ごめんね。それだけは聞けないわ。」


 申し訳なさそうに、だけどきっぱり謝るザクロは、視線を電子レンジに向けたままこう言った。


「マツバはね、あなたが逃げても、どこまでも追いかけるわ。」


 そして瞳を伏せて、謝罪の言葉をもう一度椿に聞かせた。 


「――――――ごめんね、椿ちゃん。」


 それはきっと椿のためではなくて、ザクロ自身のための謝罪だったのだろう。椿はぼんやりそんなことを考えながら、電子レンジがごうごううなるのを聞いていた。

 

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マツバとわたしの3日間 まび @mabipeco

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