詠う女
増田朋美
詠う女
ある日のことであった。その日も、製鉄所で杉ちゃんが、いつもどおり着物を縫う仕事をしていた。水穂さんは、今日はなんとなく安定しているらしくて、それとも薬が効いてくれているのか、静かに眠っていた。製鉄所には、何人か利用者が居て、彼女たちは、思い思いに勉強したり、仕事したりしていた。最近製鉄所の利用者は、減少しているが、その中で抱えている問題は、より大きなものが多い利用者が増えて居る気がする。その中に、河合美希という女性がいた。彼女が持っている問題というのも、なんとなく複雑だ。一応両親も居るし、祖父も居て、美希の実家はそれなりに恵まれていると思うのだが、彼女に幸福感は乏しい。きっと、彼女の両親だって、それなりに、愛していると思うけど、彼女は自分のことを邪魔な存在だといって、止まらないのであった。
その日の昼前のことであった。いきなり、インターフォンの無い玄関から、
「こんにちは、桂です。あの、今日レッスンの約束してありましたよね?お約束どおり、参りましたよ。今日は受講生を連れてきました。八木橋操くんです。お父さんと一緒に来てくださいました。」
という声がして、桂浩二が、製鉄所にはいってきた。杉ちゃんは、着物を縫う手を止めて、はあ、今日はレッスンの約束なんてしてあったかなと思ったが、どうやら浩二が勝手にそれを持ってきたらしい。杉ちゃんは、急いで眠っていた水穂さんを揺すって起こした。
「浩二くん一体どうしたの?」
杉ちゃんは、部屋にはいってきた浩二に急いでそういうと、
「ええ、彼の演奏を聞いていただきたいんです。彼というか、まだ五歳の男の子ですが、とてもいい演奏をするので、ぜひ右城先生にも聞いていただきたくて。今日は、お父様と一緒に来ていただきました。」
と、浩二は、二人を紹介した。小さな男の子と、まだ30代くらいの男性が浩二の後にはいってきた。
「はじめまして。あの、操の父の八木橋祐二と申します。」
若い男性は言った。
「こちらが息子の操です。今は、富士市内の保育園に通っています。ピアノは、特に有名な先生についているというわけでは無いのですが、なんだか保育園で習っていた楽曲を、空で覚えてしまったようで、それを聞かせてもらおうと、桂先生が言うものですから。それでこさせてもらいました。」
「きっかけは、僕が保育園で演奏させてもらったときなんですけどね。保育士さんが弾いていたピアノを空で覚えてしまう子供が居ると話して居たものですから、ちょっと弾かせて見たところ、すごく上手だったんです。それで、右城先生に聞いていただきたくて。その少年が彼だったんですよ。」
浩二はそう付け加えた。
「そうなんですか。じゃあ、早速聞かせてもらおうかな。じゃあ、操くん、このグロトリアンのピアノで、弾いてみてくれ。」
と、杉ちゃんが言うと、操くんといわれた少年は、ハイと言って、ピアノの前に座り、思い出のアルバムを弾き始めた。まだお別れする季節ではないのに、去年の卒園式で覚えてしまった曲を勝手に弾いて居るだけだという。それでも音の間違いはないし、コード進行だって間違ってはいない。
「なるほど、なかなかうまいじゃないか。」
「空で覚えてしまったといえば、すごい記憶力ですね。もしかしたら、ピアノをやってみたら、うまくなるかもしれないですね。」
杉ちゃんも水穂さんも、そういう事を言った。
「もしよろしければ、ピアノを習ってみてはいかがですか?ピアノはね、習うと楽しいですし。それができるようになれば、ちょっと自慢もできるのではないですかね。」
浩二が八木橋さんに言うと、八木橋さんは、どうしようかと考えるような顔をした。
「お月謝は、どうします。右城先生。少なくとも、操くんは、月に一度か二度は来ることになると思いますよ。」
「そうだねえ。じゃあ、ワンレッスン制で、一回3500円でどう?」
水穂さんが答えるより早く杉ちゃんが、そう言ってしまった。そうか、それくらいの額ならと八木橋さんは、考え直してくれたらしい。
「そうですか。わかりました。ありがとうございます。右城先生が教えてくれるなんて、思いもしませんでした。よろしくおねがいします。」
と、八木橋さんは、もう一度頭を下げた。操くんも、ピアノの椅子から降りて、
「よろしくおねがいします。」
と、可愛らしい声で言った。
「いえいえ、こちらこそ。水穂さんにとって、役割ができて、それはいいっていうもんだ。じゃあ、後は教材だな。何を持ってきてもらうことにする?」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんは、
「そうですね、ピアノの初期導入材として、トンプソンの小さな手のためのピアノとか、そういうのがいいですね。」
と、言った。八木橋さんは、それはどういうものなのか、スマートフォンで調べたりしている。
「じゃあわかりました。すぐにそれを用意させますから、よろしくおねがいします。えーと、先生のお名前は、」
「ええ、浩二くんは右城と言いましたが、右城は旧姓で、現姓は磯野です。磯野水穂と呼んでください。」
水穂さんは、八木橋さんに言った。
「で、レッスンの曜日とか、希望する日はある?」
「ええ、基本土日、仕事が休みなので、その日にこさせていただければと思います。」
杉ちゃんがそう言うと八木橋さんはすぐに答える。
「わかりました。じゃあ、土曜日にしましょうか。それではその日にいらしてくだされば。」
水穂さんがそう言うと、
「了解了解。じゃあ、水穂さんも、必ず、ご飯を食べて、ちゃんと生徒さんと向き合ってね。」
と、杉ちゃんが、そういう事を言ったのであった。
「どうぞよろしくおねがいします。右城先生、ではなくて、磯野先生ですね。どうぞこれから、操のレッスンをお願いします。」
八木橋さん父子は、丁寧に頭を下げた。
「ようし、交渉成立だ。バンザーイ!じゃあ、土曜日に来てね。」
杉ちゃんたちがにこやかに笑っているのを、遠くの部屋から、河合美希が眺めていた。あの、八木橋裕二さんという人が、どこか似ているのだ。自分の事を以前、思いっきり認めてくれた恋人に。もちろん、公私混同はだめだけど、なにか懐かしいというか、なにか嬉しいと思ってしまった。あの人が、もう一度現れたんだと。
美希は、なにか気持ちを感じさせると、ノートに走り書きのように文章を描く癖があった。よく、誰かに話したくても、家族は忙しすぎて、自分の事なんて聞いてくれなかったから、ノートに描くようにしている。それも長ったらしい散文ではなくて、短くまとめられるように、こういう形式で描くようにしているのだ。その技法は、中学校で習っただけのものであったが、美希にとって、それは、自分の気持ちを正直に話すための手段でもあった。
「そら寒み、空青き日に、現れる、愛しき人と、よく似たあの人。」
美希は、そうノートに書き込んだ。美希は、自分の居室の中から、操くんを連れて帰っていく八木橋さんをそっと見送った。具体的に何月何日に何があったと書き込むよりも、こういう書き方のほうが、覚えられるものだ。その歌を書き終えたあと、美希は、今日の日付を横に書いておく。
美希にとって、土曜日は、なんだか待ち遠しくなった。土曜日の、11時に、操くんを連れて、水穂さんのもとを、八木橋さんが訪ねてくる。操くんは、早速ピアノの弾き方を覚えてくれたようで、簡単な曲はすぐに演奏ができる様になった。五歳の男の子にしては、結構な出来栄えだ。ちゃんと真面目に練習もやってくる。八木橋さんが彼に教え込んでいるのかは不明だが、操くんは、音楽の才能があるのではないかと思われた。
その日も、水穂さんに、ピアノのレッスンを終えて、八木橋さんと操くんはありがとうございましたと言って、四畳半を後にした。
「おい、これ忘れてるぜ。あの親子。」
と、杉ちゃんが、一冊の本を手に取った。多分、操くんがよんでいた本だと思われる。子供ようの絵本であった。
「あとで宅配便で届けさせましょうか。」
水穂さんがそう言うと、いきなり、美希が水穂さんのところにやってきた。
「あの、それ私が届けます。」
美希は、水穂さんから子供用の本をとった。
「そうですか。じゃあお願いします。八木橋さんに届けてあげてください。」
と、水穂さんは、美希に言ったので、美希は喜び勇んで、急いで製鉄所の建物を出た。多分、昼飯前の時間なので、二人はどこかのカフェでご飯を食べているのではないかと思われた。製鉄所近くにあるカフェと言えば一軒しかないことは、美希も知っていた。美希は急いでその店に向かって走った。美希が店に入ると、親子はやっぱりそのカフェに居た。
「あのすみません。操ちゃん、この本を磯野先生のところに忘れていきましたよね。先生が、心配してたから、届けに来ました。」
美希は、八木橋さんに本を渡した。その本は、よくあるTVアニメの本とかそういうものではなく、ちゃんとストーリーがある子供向けの絵本であった。作者はレオ・レオニという有名な絵本作家らしい。確か、大人でも読める絵本を描く作家だという。タイトルは、青くんときいろちゃんという本であった。愛し合うという内容を描いた本であるが、自分がもし、この本のように、八木橋さんと一緒にいられたら、なんて一瞬思ってしまったほどである。
「本当にありがとうございます。お姉さんにありがとうをして。」
と、八木橋さんがにこやかに笑っていったが、操くんは目の前にあるランチを食べることに夢中になっていて、返事も何もしなかった。
「本当にすみません。わざわざ届けてくださって。本来なら郵便かなにかで送ってもらっても、良かったのに。」
「いえ、いいんです。あたしは、こういうことしかできませんから。こういう事があったら、なんでも使ってください。」
八木橋さんの落ち着いた声に、美希は有頂天になった気持ちで、そう帰したのであった。本当はもっと長くいたかったけど、それはできやしなかったから、静かにそこを立ち去った。なんか帰り道は、スキップしたくなるけれど、美希はスキップができなかった。それは美希の持っている発達障害のためでもある。幼い頃から、小学校や中学校で、他の生徒とは違っているという感じはした。そのせいで高校は、順位の低い高校しか行けなかった。それを自分の家族は、嫌な気持ちに思っている。高校を卒業しても、どこかへ就職することはできなかった。どの仕事も、自分にはこなせそうなものがなかったのだ。それで、母親が見つけてくれたこの製鉄所に通うことにしたが、そのまま家に居たら、あの働くことが人生の全てであると豪語している祖父に、なんて怒鳴られるかわからない。毎日通う場所が無いということが、これほど辛いということに、美希の祖父は、わかるはずもないだろう。
美希は、早く病名を持ちたかった。それがあれば、障害者手帳もとれるし、そうなれば、あの頑固な祖父も、自分のことを諦めてくれるはずだ。そうしてくれたほうがいい。美希にとっては、早く何とかしろ、働けと言われること以外、辛いセリフは無い。
そんな事を思い出しながら、美希は製鉄所に帰った。製鉄所に帰るとすぐにノートを取り出して、鉛筆を取り、こう書いた。
「初めての、言葉を交わしし、われとなれ、心通じて、いと嬉しけれ。」
これが、一番の記録なのだった。
「どうしたんですか。」
美希がそれを眺めていると、水穂さんが美希に声をかけた。
「なにか嬉しそうにしているじゃないですか。」
「いえ、何でもありません。あたしは、ただ、嬉しい気持ちになったから、そう言っただけのことです。」
美希がそう言うと、水穂さんは、にこやかに笑った。
「命短し恋せよ乙女、ですか。」
「まあ、まあ、水穂さん、すぐにそういうことを言うなんて。あたしは、そんな事を思っているわけじゃありませんよ。」
美希は、水穂さんにそういうのだが、水穂さんはにこやかに自分を見つめている。水穂さんの顔は、たいへん美しく、他の女性の心を掴んでいるのであるが、美希にはどうしても、印象に残らなかった。そういうふうに、美希は、ちょっと一般的な人から感覚が違っているところがあった。それを製鉄所の人たちは、からかったりすることはなかったが、一般的な人から見れば、ちょっと変な人と美希を見るかもしれない。
翌日の土曜日、また、八木橋さんはやってきた。美希はまた、彼を自分の部屋からじっと見ていた。自分なんてきっと、この人には合わないだろうなと思う気持ちもあった。多分、それを眺めているだけで良いのだ。美希はそれでいいと思っていたけど、恋というのは、自分が思っている意識以上に、相手のことを思っている場合もある。
レッスンが終わって、操くんたちは帰ることになった。その日は、忘れ物はしていかなかった。美希は、操くんたちが帰っていくのを、また見送った。すると、八木橋さんのスマートフォンがなった。だれだろうと思っていると、
「ああもしもし、ああ、今操のレッスンが終わったところだよ。お前も、そろそろ納得して、操のことをちゃんと考えなさい。」
と八木橋さんが言っているのが聞こえてくる。美希は、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。そういう事を言っているんだったら、八木橋さんには奥さんが居るんだ。きっと、そういう言い方をするんだったら、もしかして、私みたいな頭の弱い人ではないか。美希は、なんとなく予想してしまうくせがあった。一度行った施設で職員がそういう言い方をしているのを覚えている。美希は施設をやめたのもそのせいだった。みんな上から目線で、お前らを助けてやっている、お前らは俺たちなしでは行きていけないんだから従え、という目つきで自分たちを見る。これがもし、足や手の動かない人であれば、それもある程度許容しなければ行けないかもしれないが、美希は、ちゃんと体も動かせるし、考えられるんだから、もっと人間として見てほしいという思いがあった。だから、そういう言い方をする人は、本当に嫌いだった。八木橋さんは、そういう生き方をしてしまう人では無いと思っていたけど、そういう事をする人であったとは。美希は悲しくなって、涙をこぼした。なんで、そういう嫌いな種族に私の好きになった人が居るのだろう。なんで、、、!
流石に、美希はこの気持ちを和歌にまとめることはできなかった。八木橋さんたちは、そういうことに気が付かずに帰っていく。美希はそんな二人を、静かに見送った。操くんが、お母さんのことを話題にしないのが、ちょっと変だと思った。もしかしたら、操くんもお母さんの事をバカにしているかもしれないという予想が浮かんだ。美希はそうだったら、奥さんは本当に可哀相になるなと思ったが、それよりもまず、自分の今までの気持ちが怒涛みたいに押し寄せて、思わず床を叩いて泣き出してしまったのであった。
目の前に、焼き芋が差し出される。
「甘いもの食べると、疲れが取れますよ。」
そう言ってくれる男性はだれなのだろう。
美希は目を擦ってみると、目の前に居たのは水穂さんだった。
「あれほど声をあげて泣いていたから、心配だったんですよ。」
そう言ってくれる水穂さんに、
「ご、ごめんなさい、水穂さんだって体があるのに。」
と美希は思わず言ってしまった。
「いいえ、いいんですよ。いつまでも泣いていては、取り返しがつかないですからね。それよりも、彼らはまたレッスンに来ると思いますけど、美希さん辛かったら、外へ出ていていいですからね。」
そういう水穂さんは、なんで自分の事をわかってくれるのだろう、と美希は思った。「なんで私の事、、、。」
思わずそういった。
「いやあ、美希さんが、八木橋さんの事を好きなのは、なんとなくわかりました。だから、心配でもありました。まあ、美希さんのような感性のいい人は、きっと気にするなと言っても気にしてしまうのでしょうし、きっと、ご自身で踏ん切りをつけるしか無いということは難しいでしょうから。」
水穂さんは美希に言った。正しく彼女はそうなのである。世間では美希のような人間を最近、繊細さんとかそういう名をつけて、障害者に区分してくれるという動きもあるが、美希自身も、それさえなかったら普通の人間になれるのに、という気持ちはあった。学校だって、苦しかった。人が楽しくやっていることが自分には苦痛だった。社会に出て働くなんて、それも自分にはできないなと言うこともわかっていた。でも、恋をすれば、こんなにつらい気持ちになることは、正直、考えても居なかった。
「ごめんなさい私、」
美希はまた泣きそうになった。いずれにしても、これは美希が乗り越えなければならない問題の一つでもある。美希は、感じすぎてしまう。だから一般的なところに居られない。これだけでも、もしかしたら、障害と認めてくれる社会になってくれたら、どんな事が待っているだろうか。
「いえ、いいんですよ。仕方ないこともありますからね。でも、美希さんが、そこをなにかに生かせたらいいんですけどね。他にも、そういう辛い気持ちを持っている人は、居るんじゃないかと思うんですけどね。みんな口にしないだけですよ。とりあえず、なくより食べたほうがいいのでは?」
水穂さんは、焼き芋を美希に渡した。美希は黙って、それを受け取った。もしかしたら、水穂さんのような人は、本当に貴重なのではないかと思った。そういう人が居てくれるような場所は、無いのかもしれない。美希は、その当たりを歌として、書いてみたくなった。美希は礼もいわないで焼き芋にかぶりつき、端から端まで食べてしまった。そして、水穂さんに頭を下げて急いで部屋に飛び込むと、ノートを開いた。確かに、八木橋さんを思う気持ちも書かれていたが、美希はそれは捨てないで置くことにした。そしてその次のページに、鉛筆をとってこう書き込んだ。
「現れし、愛しき人は、消えれども、真の姿は、手に残るらむ。」
詠う女 増田朋美 @masubuchi4996
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