私は記憶へ遡る
魚麗りゅう
私は記憶へ遡る
私の時間はいつもこうやって過ぎていった。そんな感慨がある。きづくといつもぽつんとしている。時間のながれは私に対して不愛想。そんな疎外感が、ある。いつの頃からか。それでも孤独ではなかった。私には両親がいて。包みこむように愛してくれている。でもこの悲しみはなんだろう?この痛み?はなんだろう?ずっと私の深奥につき纏う。どうしてこんなにも、生きていることに実感がないのだろう?自分の肉体を傷つけることで、私の感覚は目覚めるだろうか?そんな衝動が、私にはある。振り子のように、私の内面は揺れる。そんなある日、同級生から好きと言われた。そんな予感はあったけれど、まだ私はこの場所にいたかった。私に対して好きと思う。その揺れが、今の私には嫌だった。何を嫌悪しているのだろう?自分でも不思議だった。この場所にいたいと思うだけなのに。それなのに、私の感情が揺れる。新しい変化に、私自身が準備できていない。正しく、私は流れているだろうか?不安だけが、ある。過ぎてみなければ、きっと今の決断なんて見えてこない。今目の前のことに、私が揺れている。その揺れに向き合わなければいけない憂鬱。だから私は、まだこのままでいたかった。自分の輪郭を、まだ明確にはしたくなかった。まだパパとママがいて、それで私でいたかった。それで今までうまくいっていたし、これからもそうするつもりだった。それなのに、なぜ?という怒りに近い感覚が、私自身から溢れてくる。私の流れを、意識で感じることに、無性に苛立たしかった。綺麗になりたいと思う。可愛くなりたいとも思う。ただそれによって、周辺の私に対する視線の変化に、私の内面が対応できずにいる。このままでいたい私と、容姿は変化したいという私。洋服は私を静かに高揚させる。そんな私を両親は、愛してくれているから。だからこの時間のまま、今は過ぎて行きたかった。私は答えを出さなければいけなかった。好きと言われたから。今まで向き合ったことがない感情に、私が苦しんでいる。そんな自分に、不潔感がある。だから私は、服を纏いたいのかも知れない?どうか入ってこないで。なんとか私は、冷静に立っていられる。人の流れのなかで。すれ違う、無感情の人達のなかで。私にはまだ、この場所でやらなければいけないことがあるから。きみのことが好き。私は素直に、嬉しくなかった。パパとママには言わなかった。まだパパとママとの繋がりを、切りたくなかった。純粋に、パパとママの子供でいたかった。繋がりが切れてしまいそうで。それが怖かった。自分の生身が溢れてくることに、恐怖心がある。私はどうすればいいのだろう?たまに行われる自慰も、私が思春期にはいったことを自覚させる。そんな気配を、悟られたのだろうか?性に対してきっと私は、嫌悪感がある。パパとママのそれを、見たことがあるから。あの時の私の心臓は、あの時を記憶している。あの時の心臓の鼓動が、好きと言われた時の鼓動に、何気なく似ているような気がする。私はどうすればよかったのか?幼い時の私が、今の私に問い掛ける。そして私は今の自分に、どうすればいいのか、問うている。自分を傷つけてしまえば、楽になれるかも知れない。私は初めて、自分を突きつけられているような気がする。感覚の世界から、抜け出さなければいけないのかも。自分の言葉を持つことに、恐怖心がある。私はまだ、自分の輪郭に触れたくなかった。でもどうやら、明確な準備ができないまま、私の外側は動き始めている。このまま生きてしまえる気もする。どうすればいいの?私。取り敢えず付き合って、数週間で別れた。好きとかいうことではなかった。きっと私は情報に洗脳されている。だから付き合ったのかも知れない。大人がお金の為に、巧妙に作り上げた情報。私は本当に、私の意志で、生きているのだろうか?最近そんな疑問に、何気なく苦しくなる。付き合ったけれど、好きという感情には出会えなかった。それでも、私の目の前にはやるべきことがある。そのやるべきことも、私にとって、本当にやるべきことなのか?疑問がある。疑問を抱えたまま、今の私は忙しなく生きている。生きていることに、不安。私はいずれ、パパとママから離れなければいけない。でも今は、まだ私のパパとママでいて欲しい。ただあの時から、両親に対して嫌悪感がある。私はパパとママに対して、かわいい娘でいると思う。だから自分の成長に、嫌悪感があるのかも知れない。視点が激しく変化することに、今の私は戸惑っている。まだ。パパとママを、一人の男と女としては、見たくなかった。私は愛されているのに、孤独を感じている。好きで生まれたわけではなかった。卑怯な思考だって、そんなことは理解している。そこまで私は馬鹿じゃない。でもなんだろう?この孤独感は。パパとママはいずれ死ぬ。そんなことは、感覚では理解している。だって当たり前のことだもん。私はそれまでに、自立をしなければならない。だから懸命に勉強をしているのだ。今は、パパとママに守られている。私は世の中で、生きていかなければならない。今は、その準備をしている。私はまだ、何者でもない。それがもどかしい。好きとか嫌いとか。今の私には、どうやら不必要だったらしい。だから、数週間で別れてしまったのだろう。自分のままでいればいいのに、それが難しい。やってみることで、自分の輪郭に触れることが出来る。私は恋愛?をやってみた。今の私には不必要だと理解出来た。私の立っている場所が、少しだけ明確になったような気がする。勉強の他に、考えなければいけないことが無数に蠢いていて。気持ち悪くなる。友達との距離感。両親のこと。将来のこと。私はきっと、まだ何も知らない。それなのに、輝かしい未来を夢見ている。その夢も、はっきりとはしていない。だから息苦しさを感じて、ありもしない自由を求めたくなるのだろう?そんな自分が生臭くて嫌になる。だから、あるがままに受け入れようと思う。私は自由に生きたいと思う。でも今は、自由に生きられる力がない。反抗しても仕方がない。私は同級生の男を稚拙に感じる。今は地道に自分を高めるしかない。私は自分を守らなければならない。最近、熱い人が苦手になった。日常はもっと、淡々と生きられると思う。熱いと続かない。だから私は別れた。男というものを、少しだけ学んだような気がする。この反省から、もっと自分の基本のレベルを上げなければいけないと、気づいた。きっと私の内側に、あの子と同じような波長が流れていたのだろう?だから近寄って来たと考える。私はもっと、自分の内面を磨かなければならない。私に対する悪意に対しても、もっと強くなりたい。自分を俯瞰で見れば、こんなにも不安定。いま私は、どこに立っているのだろう?今の私には、パパとママが必要。パパがママをまさぐり、ママの極力抑えた獣のような声が、未だに記憶にこびり付いているけれど。私だってこんなにも目のまえのことに苦しんでいる。人の気持ちを考えなければいけないことは、知っている。でも今の私は、立っていることに、精一杯。精神的にも肉体的にもね。大人になれば、もっと楽になれるのだろうか?
静かな夜。音は無いのに、記憶から聞こえる。私の中に眠っているすべての記憶と真正面から向き合うことは、今の私には無理だろう?今の私はそんなに強くない。そんな弱虫な自分が嫌い。だから目の前のことに、真剣になるしかない。だけど無思想に、馬鹿な男の子みたいに、がむしゃらにやるのはイヤ。だって頭が悪いもの。そんなふうに現実を生きることは、きっと未来に恥ずかしい過去になることを、今の私は知っているから。無思想な行動に、私は気を付けなければいけない。思春期特有な行動を、私は恐れる。分別は、すでにきちんと持っている。私は理性で、その衝動を抑えなければならない。思考は高速で動くのに、精神レベルは思春期をまだ超えられない。息苦しい。何を私はこんなにも焦っているの?自分で自分が分からない。無意味に腹立たしい。私は早く、卒業したかった。学校からも、この場所からも。友達はいるけれど、仕方なく一緒にいる。だって一人でいるよりは、いいでしょう?こんな自分自身が、嫌いだった。私の居場所はここではない。そんな確信があった。毎日何気なく、苦しい。この場所から救い出して欲しい。そんな願いがある。まだ死にたくはなかった。だってパパとママが悲しむもの。私はまだ、何も見えてはいなかった。見えては、いたのかも知れない?だって記憶として、残っているもの。それを私が都合よく、理解しているだけ。視点を変化させれば、不可思議に感情は揺れ始めるだろう?このまま生きてしまえばいいものを。私は気づかなくていいものを、見ようとしているの?パパとママの行為に気づいて、見たように。人の本質は、きっと動物。パパとママのように。きっとパパとママも、パパとママを演じているだけ。私だって、娘を演じている。最近そんな気がしている。私にだって我がある。私の大好きな家族は、きっとこのままの距離感では、維持出来ないだろう。そんな予感がある。だから私は、ぎりぎりしがみ付きたいのだろう?私は今まで幸せだった。私はパパとママから少しずつ、離れなければいけない。感覚の外側へ、抜け出なければ。都合よく、パパとママの後ろに隠れた。これからは、自分の人生に責任を持たなければいけない。まだその覚悟はないけれど。まだ子供のような。でも性に目覚め、自慰はしている。恋愛の真似事だってした。しっかり勉強はやっている。それが今の私。日常は過ぎている。私は自分の変化に苦しんでいる。自身から溢れる疑問に、明確に答えを出せていない。悩みながら歩いている。そんな状態。当たり障りのない会話に、今の私は疲れている。友達ってなんだろう?そんな疑問にさえ、苦しんでいる。私の生まれるずっとずっと前の人も、私と同じ年頃には、同じような苦しみが、溢れてきたのだろうか?私の周辺にいる友達?とは、きっと大切な部分が繋がっていない。きっと友達が死んでも、私から、涙は流れないだろう。そんな確信は、ある。ひとりぼっちではない。でも孤独。だから居心地悪さを絶えず感じているのだろう。こんな自分が惨め。友達とは何か?そんな単純なことにさえ、まだ私は答えを出せてはいない。弱い人に、近づいたこともある。自分を守るために。そんな自分が、今になって嫌になる。私の記憶は、そんな自分を忘れてはいない。そんな過去の自分と向き合う時、私はのた打ち回りたくなる。私は卑劣だった。そんな自分を噛み締める。ギュゥ~ッと。どうかうまく、昇華されますように。普通に生きていたって、こんなにも痛みを感じる。私はもっと、苦しまなければいけないのだろうか?人の気持ちをどれくらいの割合で、自分の中に入れればいいのだろう?私の気持ちだって、大事だよね?こんなことは、誰も教えてくれない。自分の軸が、曖昧になってしまったような気がする。私は今、どこに立っているのだろう?なんの為に、こんなに勉強をしなければいけないのだろう?考えなければいけないことが、あり過ぎて。心臓が不安の鼓動をする。冷静になれ、私。私は何の為に、生まれてきたの?誰かに影響された、そんな疑問に、私が不覚にも戸惑う。考えて、分かることなのだろうか?よく分からない。それでも、私の目の前には、やるべきことがある。だからきっと、やらなければいけないのだろう?何かが見えてくるまで、取り敢えずはやろうと思う。何げなく、それでも充実している、ような気はしている。それで今はいいではないか?きっと何かが、見えてくるだろう。焦っては、いけないような気がする。自分を俯瞰で見る目は、今の私は未熟。それも、鍛えなければいけない。今の私は何も知らない。世の中も、人の怖さも、自分のことなんてさらに分からない。このまま生きていけるだろうか?生きているだけで、それだけで不安。いつからこんな不安定な気持ちになったのだろう?誰もが経験する不安なのだろうか?いろんな言葉が日常に溢れていて、何となく、信用出来そうな気もするし。一体、どの言葉が真実なのだろう?自分で自分がよく分からなくなった。私は正しく生きているだろうか?自分がよく理解出来ていないから、こんなにも苦しくなってしまうのだろう?愛とか好きとか、今はよく分からない。ただ。性の衝動はある。それに私は気づいている。今までだって、そのままで楽しかった訳ではなかった。人との距離感に、私なりに苦しんでいた。それが曖昧に過ぎていただけだ。私は自分の言葉を持たなければいけない。それは理解している。でも。思春期の学生の身分で出てくる言葉を、私自身は信用したくない。だって私から出てくる言葉なんて、私自身の言葉ではないもの。それは感覚で分かる。だから私は今の自分に心地悪いのだ。物真似で生きている、今の私。今は模倣することしか出来ない。模倣することで、自分の輪郭を手探りしている状態。自分は何者かを探っている状態。今の私は、世の中がとてつもなく大きな存在として目に映る。どうやって生きていけばいいの?そんな不安を抱えている。今は自分を正しく捉えることが出来ない。
ここまで読んで、止めた。ずっと昔の、私のノート。結婚し、私は家を出た。すぐに離婚して、出戻った。何げなく断捨離していると、出てきた。今は今で、私の目の前には不安がある。過去は過去で、目の前には不安があった。何だか滑稽。過去の自分は、何やら生臭かった。今、父は他界している。この家で、私は幸せだった。私が結婚して、すぐに亡くなった。父が死んだことに、びっくりした。人は必ず死ぬ。そんなことは知っていた。痛かった。その痛みは、未だに癒えてはいない。父が死んだことによる、不安。きっとなるようにしか、ならないのだろう?好きで結婚した筈なのに、でも私は離婚した。未だに好きというものが、よく分からない。何も成長してはいない?大人になれば、理解出来ると信じていたかも。時間は淡々と過ぎた。私は今、どこに立っているのだろう?過去から現在までを、繋げる作業が必要なのかも知れない。そこには嘘の記憶もいくつか混じっているだろう。今の私は、ある程度の自分の言葉を持っている。大丈夫。記憶へ、潜降していける。私は現実に対して疲れている。現実に対して疲れた。現実の中での私は、こんなものだった。思春期の私は、世の中を恐れていた。今はそれ程の恐れはない。それは、世の中を、経験したからだろう。自分の世の中での輪郭は、こんなものだった。遥か昔に、思春期は過ぎている。思春期で感じた不安は、過ぎている。それでもこうやって、生きているではないか?それでも私は生きてきた。そんな些細な自負はある。生きているだけで、こんなにも内面は激しく流れる。感情が不安定に歪み、自身の存在がより不安になる。あの時から、私の内側はこんな状態。相対的な価値観に、今の私は疲れている。私はどうしたい?私はどう生きたい?相対的な価値観に拘っているから、いつまでも私は満たされた気持ちにならないのだろう?歳を重ねることに、恐怖を感じる。何気なくね。現実に対して疲れているのではなく、私は自分に対して疲れているのではないのか?自分にならなければいけない。もう、自分にならなければならないギリギリの時期なのだ。
笑いたくもないのに、笑った。そんな過去の自分が今になって、映像となって頭の中を流れる。友達の受験の失敗だって、本当はどうでも良かった。だって私には関係ないもの。友達とはこういう時、こういう態度をするものだと想像して、忠実にそれを再現しただけ。それにはテレビや映画が影響した。結局人ってなんだろう?今頃になって、素朴な疑問に苦しめられる。それでもお腹は空くんだよね。どんな時も、どんな状態でも。友達がいなくても、生きてはいける。でも食べ物がないと、生きていけない。食べ物を買うにはお金が必要だから、だから私はどんな時も働きにいく。行きたくない時も、少しくらい体調が悪くても。今の私は男に頼らなくても、生きていける。何の為に勉強するのか?その答えが今、出たような気がする。そういう意味では自由なのかも知れない。誰とでも、仲良くする必要はなかった。合わなければ、適切な距離を取ればよい。それで良かった。私は私の人生に、責任を持たなければならない。世の中に対して、私は正しく生きているだろうか?すでに私は学生ではない。学生の時のコンプレックスで、今まで頑張れたような気がする。どうやら私は克服したらしい。弱い群れの中で笑わなければいけないほど、今の私は弱くはない。ある程度は戦える体力は、今の私にはある。自分をそんなに責める必要はなかった。過去の私、そして今の私。過去の私に、今だったら言ってあげられる。そんなに世の中は、悪い感じじゃない。転職は何回かしたけれど。自分に合わないなら、逃げてしまえばいい。出来ないものは出来ないし。合わない人とは合わなかった。自分を攻撃してくる人は、どこにでもいる。時には、闘わなければいけない。人の視線は瞬時に変化する。その怖さを、今の私は身をもって知っている。時には闘い、時には逃げる。そんな自分の中の狡猾さを、今は許せる。思春期の潔癖さは、今の私にはない。ひとかけらもない。生活を繋げていかなければならない。そんなことに拘っていたら、疲れる。うまく繋がるし、うまく離れる。今はそんな距離感が、心地いい。いけない?過去の私は、今のそんな私をどう評価するだろう?
自分の肉体と、うまく付き合っていきたいと思う。精神で、無理やり体を動かして。引き換えに得たものは、それほど価値あるものとは思えない。残骸が、内側に山のように出来た。それによって気づきもあって。無駄ではなかったと、自身に言い聞かせている。それに対する攻撃的なイメージが溢れてくることに、今の私は苦しんでいる。きっと同じようなことがあったなら、今の私だったら闘えるだろう。いつかの為の、シミュレーションもしている。それを引き出しに、忍ばせている。気づくと生き延びる為の準備をしている。私は生きようとしている。俯瞰で見る自分は、何気なく逞しい。何だか笑ってしまう。こんな逡巡を繰り返して、今まで私は生き延びてきた。すでに、亡くなった友達もいる。それを考えたら、今まで生き延びてきたことは、相当運が良かったのだろう?私は私を生きなければならない。もう、自分に無理はしたくはない。本当に好きではなかった人と、私は結婚をしたのかも知れない。今はこの疑問が私を苦しめる。過去は、今を生きる私を苦しめる。だから思い通りの未来が、中々やってこないのかも。今に対して、私の内側は満たされていない。だから他人を、検索してしまうのだろう。そして今の自分を強引に納得させる。そして眠る。思春期のような、息苦しい反抗心はないけれど。今の自分を納得させる、人様の不幸を必要としている。もう。大過なく生きて行きたい。それには退屈を我慢しなければならない。その退屈を誤魔化すために、人様の不幸が必要なのだ。自分だって、チャンスがあったらしてみたい。きっと私は心のどこかで望んでいる。だから芸能人の不幸で、心のバランスを辛うじて保てている。私の離婚も、きっと誰かを癒しただろう?私は生き延びようとしているし、癒しも求めている。自分のことを、不思議な生物だと思う。素直にね。満たされているようで、満たされていない。それでも、生まれた時より少しは、精神が高まっただろうか?むしろ、後退したような気も。人の幸せが、今はどうしても喜べない。私はどこに向かっているのだろう?考えて、答えのようなものを出し、それで取り敢えずは納得し、少しずつ進んでいる。毎日が、この繰り返し。私は正しく考えられているだろうか?視点が間違っていないだろうか?内面を些少でも、修正しなければ。その積み重ねの先に、何かが見えてくると信じたい。まだぎりぎり、私は私でいられる。無理だと察知したら、逃げてしまえばいい。逃げながら、考えればいいだけだ。私はそんなに強くなかった。ただ、私以下にならないようには、注意している。弱い人に近づくことで、取り敢えずの、自分の居場所を確保することは、もう辞めよう。今更になって、過去の私の行動が、今の私の孤独な時間を苦しめる。大人には、お酒があるから。そうやって自分から逃げ続けることも、出来るだろう。今までは。勢いで生きてこられたけれど、これからは無理。私はいい意味で、立ち止まってしまった。今の私には刺激ではなく、思想が必要なのかも知れない。パパとママに甘えていた時間は、まだ私の深奥に流れている。私は大人の振りをして、今まで生きてきたのかも。このまま私を暴き続けたら、築き上げた輪郭が、崩壊してしまうかもね?そんな恐怖がある。私は何気なく震えている。私は、危険な賭けをしている?変化を求めているのに、変化後を怖がっている。でもこのまま生きていたら、行き詰まる。時間は流れて大人になって、ここまで来たけれど、達成感が何もない。俯瞰で見渡せば、お金という対価で相対させれば、それ程の価値はなかった。それでも。自身の軸を上げることは出来たと、自覚できる。過ぎてみれば、こんなものだった。私は、変化しなければならない。そんな危機感が、今の私を苦しめる。日々、過去が内側に堆積していく。まだ、答えを出していない疑問の上に、遠慮なく堆積していく。だから今になっても、私の感覚はパパとママに甘えていた時のままなのだろう。時間は過ぎた。堆積した過去を、私は昇華しなければならない。止まっている時間を、流れさせなければ。内側のある場所が、澱んでいる。それが現在へと影響を及ぼしている。記憶と向き合い、撃破していかなければ。まだ生きなければならない。私はある時期から、外側の流れに合わせて、漂っていただけだ。そういうものだと、諦めていたから。それが大人になるということだと、知ったかぶりをしていただけ。もうそんな自分に疲れた。おもしろくもないのに、もう笑えない。本当の自分の気持ちに、向き合ってこなかった。抑え込んでいた。離婚した原因は、きっとそこだろう。気づき、結果私は離婚した。離婚することで、ある地点から自由になった感覚はある。私には、吸収率のよいスポンジのように、現在生きている時代の価値観が染みこんでいる。それのせいで、私は自分から離れすぎていたのかも。生活は繋げていかなければならない。これは仕方がない。離婚し、私は自分へと少しだけ修正できた。視線の変化に、心は多少は傷んだけれど。子供が出来なかったことが、安堵と言うか、そのことに、今の私は救われている。こんな不安定な状態では無理だったと、ぎりぎり交通事故を回避したような、そんな感覚。順調に生きさせたい親の価値観と、それでも私は私でしか生きられない苦しさ。堆積した過去に遡ることで、逆に光が見え始めているような気もする。現実は、こんなものだった。人の気持ちを考え過ぎて、疲れた。人の気持ちを受けいれる範囲を、新たにアップデートしなければ。今は自分と向き合いたい。子供がいたらと想像すると、素直に恐怖を感じる。普通として生きるのも、何気なく大変。結婚して見え始めた世界があり、離婚してこっちの世界に出戻った。そして今の私は安堵している。少しずつ、こんな私でも慎重に生きている。親の想像とは違っているけれど。私の周りにはたくさん人がいるけれど、その殆どの人と、繋がってはいない。自身の内面を観察し、気づいてびっくりした。繋がっていないから、何があっても感情が揺れない。上っ面。そんな単純な短い言葉で、ほとんど説明出来てしまう。今の私は孤独でもなく、寂しくもない。実家に出戻り、日常は静かに過ぎている。こんなものでしょう?生きるって?違うの?税金だって、きちんと支払っている。私は私でしか生きられなかった。偽物の言葉に踊らされて、疲れた。過ぎてみれば、ここには私だけがポツンといる。私だけが、結局残った。思春期の頃は、音楽でそんなポツンとした自分を鼓舞できたけれど。今の私は自分の輪郭を知ってしまった。過去に聴いていた音楽では、懐かしさはあっても今の私を癒せない。もう、鼓舞されたくない。与えられたことは、生活の為に仕方なくやる。必要最低限だけ、利用されたい。何も知らなかったから。だから目の前に見えているものも、見えてはいなかった。私は長い時間を掛けて、自分に戻ってきた。何も知らなかったから、知りたいと思った。自身の衝動に、素直に従った。両親には感謝している。そして私は自分に戻ってきた。やっと自分になれたような気がしている。やっと若く、なれたような気がする。なんだろう?この不思議な感覚。今、生まれたばかりのような、そんな感覚がする。過去と向き合うためには、強度のある自分が必要だった。その強度ある自分を造るための時間が、今までだった。社会人になって、疲れた時間の連続を無意味だと思っていたけれど、そうではなかった。私には意味があった。だからこうして過去の記憶と向き合える。私は自分を完成させなければならない。誰とでも繋がれない。私は生きなければならない。どうせ生きるなら、高度に生きたい。だから私は警戒する。自分を守らなければならないから。私には、私の視線や価値観がある。それを世の中と相対させ、うまく折り合いをつけなければならない。もう、感覚だけでは生きられない。自分に対して意味のある生き方をしなければ。私には、私の体調がある。もう無理はしない。無理矢理精神で、動かすようなことはしない。だから熱い人は嫌い。素直に離れる。誰とでも関わらなくても、生きていける。私は私として、適正な距離を取ればいい。近づき過ぎもしないし、離れ過ぎもしない。無礼に侵入してきたら、攻撃する。普通に生きていくだけでも、自分に対してこんなにも自戒が必要。自分が強くならなければ、潰される。私は私を生きなければならない。そこをとやかく、言われる筋合いはない。不安定な自分を絶えず修正し続けなければならない。与えられた、目の前の仕事はやらなければならない。その他に、内面のその修正も、秘密裏にやらなければ。今生きる時代の空間に、私の精神と肉体が存在している。これだけで、意味があることではないの?この時代に生まれてしまった。だから、仕方なく生きるしかない。私だって、それでも一生懸命に生きている。私は私の輪郭でしか、生きることは出来ない。何気なく孤独。何気なく寂しい。自分だけが苦しんでいる。私はすでに、思春期ではない。私はあの時、何気なくの、感覚の世界で生きていた。あの時の私は、自分の言葉を持たなかった。だから他人の言葉を必要とした。大量に内側に入ったその言葉に、社会に出ることで、自分の経験が入ってくる。私は混乱していたのかも知れない。過ぎてみれば、こんなものだった。私には、死なずに生きようとする、パワーがあった。自分に対して、不思議に思う。私は私なのに、私が自分を借りているような感覚がする。人間とは何だろう?自分の、この不思議な感覚は何だろう?内面に潜行することで、堆積されている記憶と出会った。さらに潜行すると、そこは静かで繋がりを感じさせ、私を癒す。この場所に辿り着く為に、今迄の出来事は、必然としてあったのだろうか?そう思えてくる。不安だから、知りたいと思った。私は私を、必死で生きていたではないか?人を知らなかったから、人を美しく見過ぎた。過去の自分より、今の自分は多少は人を知っている。だから今は、人に対してそれ程感情は揺れない。人の視線や感情は瞬時に揺れる。その防御スキルも、レベルアップしている。誰とでも、仲良くなんか出来ない。闘えそうならそうするし、駄目そうなら逃げる。長い時間を掛けて、私は自分を守るスキルを磨いた。私は私を、生かさなければならない。社会に対して正しく生きていれば、抹殺されることはないだろう?もう少し、生きられるかも知れない。もっと静かに。もっと淡々に。日常は、それでも普通に過ぎている。私は私を生きる為に、焦っている。このままの自分では嫌。だから私は焦っている。次のレベルへ上がりたい。これが今の私の素直な気もち。生きることに、疲れてはいない。目の前の現実に疲れているだけ。転職で環境を変えて、ストレスは軽減されたけれど、出会う人のレベルはそれ程変化していない。私という人間は、所詮こんなものだった?軽く、そんな落胆がある。いもしない人を、私は求めているのだろうか?現実は、こんなものだったと、受け入れなければいけないのだろうか?私が見えている世界は、真実だろうか?こうして自分の限界まで考えなければ、不安でしょうがない。私は私を生きなければならない。結局、この言葉にぶち当たる。生きられるかも知れないし、生きられないかも知れない。生まれてきてから、結局私は自分に問い掛けている。それでも私は今現在生きている。なぜ生きるのか?そんなことは分からない。本を読んでも、分からなかった。でも私はこうして生きているではないか?ここにこうして生きていることに、意味があるのではないか?今はここで、私の思考は止まっている。これ以上掘り下げることは出来るのだろうか?私は私を生きなければならない。今生きるこの時代を、私は私なりに、生きなければならない。与えられた命は限られている。この命を、正しく使いたいと考える。私は私の命を、正しく使っているだろうか?それを正しく測定できる、機械があれば欲しいけれど。私は今まで、コンプレックスで頑張れた。それは自分にとっての努力だった。ただそれだけのことだった。誰とでも、繋がりたくはない。今迄の私は、誰とでも繋がろうとして疲れた。それが正しいことだと信じていたから。でも疲れた。誰とでも繋がれない。私はそれを、残酷な現実として、受けいれなければならない。思春期の私を、今の私は明確に否定できる。自我を確立するためにその時期は、必要だった。その衝動が静まって、現実の世の中をある程度泳いだ私。不必要な苦労は、しなくても良かった。自分に対して、もっとシンプルに生きられる。そんな事実を知った。私は私を生きればよい。自分を生きるしかなかった。仕方がないから、私は今生きる時代を生きている。それでいいではないか?今はそれで、自分を納得させている。今迄、疲れた。そんな感慨しかない。私だって、それでもこんな感じで生きている。いけない?ダメ?私は自分の命を、正しく使っている?それでも少しずつ、懸命に生きているよ?今日も、うまく頭の中が纏まらない。それでも自分を戒めて、何とか自分を納得させて、生きているよ?死は、きっと私のすぐ傍にいる。でも私は死なないだけ。学生の時だって会社員の今だって、このぎりぎりの感覚は変わっていない。目の前には、私の現実がある。きっとこれからも、こんな感じで生きていくのだろう?逃げるし、闘うし、都合よく裏切るし。私は神様ではないし。それでも世の中に対して、正しく生きたい。そうでなければ、世の中から弾かれてしまうし。個としてだけ生きることは、出来ない。その厳しい現実を、世の中を泳ぐことで知った。私は、世の中でしか生きられない。だから世の中で、より輝くことを考えなければならない。世の中に対して、正しく輝いている人と繋がりたい。誰とでも、繋がりたくはない。淡々と、周辺の景色は流れていけばいい。まるで車の助手席に座っているみたいに。すべての人に反応する体力は、今の私にはもうない。私には、私の限界がある。それを補うために、私なりのコミュニケーションが必要。ただそれだけのことだった。私の立ち位置にあったコミュニケーションでいい。一々付き合うのはイヤだ。感染防止でよかったことは、飲み会が無くなったこと。断るにも気を使うしね。無くなってしまえばその必要もない。私の輪郭の外側の流れは、変化している。私は素直にその流れに身をまかせたい。生きているだけで、私の外側も内側も、こんなにも変化する。いつでも裏切れる準備はしてある。自分の足元さえ見失わなければ、自然と不必要な人は流れていくけれど。繋がらない。でも仲良くする。この距離感が、思春期の頃は、理解できなかった。今ではこんなスキルが身についている。生活を繋げていかなければならない。だから私は仕方なく働く。これでいいよね?だってどんな日も、どんな時も、お腹は空くもの。なんか……疲れた。偉そうな人とか難しいこととか。そういう類いのことは、そういうカテゴリーの人にやってもらえばいい。誰とでも繋がらない。だって自分が壊れてしまうから。
今は、孤独な時間が心地いい。経験することで、消える幻想がある。幻想を求めて、ソワソワしていた自分が懐かしい。実際に恋愛することで、恋愛に対する幻想が消えた。結婚することで、男に対する幻想が消えた。だから今の私は、落ち着いていられるのかも知れない。不必要なものだけれど、そういうものには何か魅力があって、純粋な若さを持っていた私は、惹きつけられた。感覚の世界に、酔っていたのかも知れない。もう疲れた。そんな感慨が、今の私に満ちている。健康で、大過ない生活を続けていきたい。今はそんな境地。実家には、八人の猫たちがいる。家族だから、人。みんな保護猫。この家に、居ついてしまった。母が子供のように愛している。母と私は、その日常に忙しい。それでも清潔を、維持しなければならない。離婚するつもりはなかった。でも離婚した。こんな大勢な猫たちと生活するつもりは、母と私にはなかった。それでも今現在、一緒に生活している。あるがままの現実を、受けいれるしかない。これが私の現実なのだ。過去は少しずつ昇華され、過ぎていく。実家に出戻り、母にストレスを感じながら、それでも一緒に生活している。母に対するわだかまりは、今現在でもある。家を出ても、結婚しても、そのわだかまりは消えることはなかった。消えることなく、私を追い掛けてきた。過去の嫌な記憶が未だに追い掛けてくるみたいに。他人との繋がりなら、躊躇なく切ってしまえる。人を美しく見過ぎた時間が、私の中で終わろうとしている。それは自分でも、良い兆候だと感じる。人の不幸を俯瞰で見られる。それは私だって、生身の人だから。多少の痛みを、私だって知ったから。生身で生きているから、完全な俯瞰が出来る存在にはなれない。私の視線は、そっくりそのまま私に還ってくるのだから。世の中は、激しく変化している。それはそれで、素晴らしいと思う。でもその変化に、私の今の感性は疲れている。生まれた時から、私の本質は何も変化していない。その本質の外側が歪んで、苦しかっただけ。私は、私としてしか生きられない。自分に気づいていくには、長い時間が必要だった。親は当然に私の幸せを願った。私には、私の価値観が溢れてくる。内側で、絶えず苦しかった。価値観と価値観のぶつかり合い。それでも、目の前には、やらなければならない、私の現実があった。戦争のない国に生きているけれど、私だってこんなにも一生懸命に生きているよ?私は私を生きなければならない。父は、死んでしまった。親は必ず死ぬという曖昧な嘘のような観念が、事実として、私に突きつけられた。私は現実に疲れていた。そんな状態なのに、父が死んだ。母と私は頑張った。父が死んで何年も過ぎたのに、感覚として、父が生々しく存在している。生活の為に、仕方なくやっている仕事。明日も行かなければならない。思考はランダムに乱雑に内面を飛び跳ねる。まるで子供のように。感情は溢れては消えるを繰り返す。私とは一体なんだ?肉体があり、精神があり、内面は複雑に躍動する。それでも人として、正しく生きたいと思う自分がいる。私は自分と会話をしている時間が増えた。病んでいる?会社に行き、与えられた仕事はきちんとやっている。それで、薄給を得ている。ただそれだけのことだった。私は今まで、何をあんなに苦しんでいたのだろう?自分の足元が、はっきりと見えていなかったせい?人との距離感に苦しかったのかも?その都度自分と会話をすることで、一つ一つの疑問に答えを出していった。誰とでも繋がる必要はなかった。自分が壊れてしまう寸前で、それに気づいた。誰にでも近寄らない。私には、私なりの、私に合った距離感がある。もっともっと、楽になれるかも知れない。そんな予感がある。人の悪意に、さらに鋭敏にならなければ。どうでもいいことを意識的に感じないスキルを、私は高めなければいけない。一日分のエネルギーを、今まで不必要なことに大分使っていたようだ。もう疲れた。現実とは、きっとこんなものだろう?私は私の人生に、責任を持たなければならない。意識を外側に、飛ばし過ぎたのかも知れない。私は私の人生に、責任を持つ。猫八人に対しても、母と責任を持たなければならない。友達ごっこも仲間ごっこも疲れた。そう考えられる今の私は、次のステップに移行したのかも?多少は精神が、高まっただろうか?まだまだ、考えなければいけないことが、溢れてくる。それでも、自分なりの答えを今迄絞りだしてきた。それでも不安になって、未だに考えている。自分を生きるって、大変。明日もまた、自分を生きなければならない。冷静になって考えてみれば、私の周辺の人とは、知ってはいるけれどほとんど繋がってはいなかった。それを内面で言葉にしたことで、すっきりした。この人とは会話をするけれど、繋がってはいない。そう思うことで、楽になった。今の私は一人でも怖くない。私は未だに思春期の余韻を引き摺っていた。今の私は何気なく孤独ではない。妙な連帯感は、気持ち悪い。会社の人達とは仲間だけれど、家族ではない。必要以上に相手の気持ちを自分に入れ過ぎて、疲れた。私は人間だから、人間社会の中でしか、生きられない。そんなことは、理解している。それなのに、今になっても悩み、揺れている。答えは出した筈なのに。過去に出した答えに、今の私が揺れている。もう一度、過去に遡る。日々、そんな連続。確信が持てても、次の瞬間には揺れている。どうやら私は、少しずつしか進めないらしい。淡々と生きるしか、ないのかも知れない。仕方なく繰り返す。今はこんな感覚に心地いい。自分に対して、攻撃的な人には近づかない、繋がらない。闘う準備は、密かに準備してあるけれど。こんな感じで、今の私は生きている。繋がろうとして、疲れた。そんな過去の自分に、今になってやっと気づいた。繋がる必要はなかった。自分のことで精一杯なのに、他人の悩みを受け入れる余裕はなかった。聞きもしないのに、自分語りをする人を、これからは拒絶することにする。私の中に、嫌な人として、記憶されていた。その人に対して、今、私は言葉にした。これからは拒絶する。だって、私が壊れてしまうから。私は聞きたくなかった。だけれど聞いた。もう嫌だ。だって私には、関係ないもの。言葉にすることで、私が癒されていく。そして強度が増していく。自分と向き合うことが、今は最高に楽しい。私はもっと、自分を癒せるかも知れない。今現在の私にストレスを与える記憶は、まだまだ山のようにある。それは日常に、不意に現れる。仕方なく、生きているだけなのにね。過去の感性の余韻で、今の私は生きている。過去を昇華していくことで、今を生きる私が、より楽になるだろう?過去の記憶は、使いかた次第で若返る媚薬になる。うまく昇華できればね。今日はなんだか時間の経過に静けさを感じる。不思議だけど、平穏。ただ、こんな状態は続かないことは理解している。珍しく、内面がうまく機能している。私は生身の人。だから周辺には、自分に良い影響を与える人を近づけたい。誰とでも繋がらなくても、生きていける。自分を壊してまで、繋がる必要はなかった。自分の人生に、責任を持つ。それが結果として、世の中に正しく貢献していると、信じたい。何の力もないのに、精神は飛躍していた。私は目の前を、まずは生きなければならない。まずは生活を、継続させなければ。地球がどうとか、会社がどうとか。そんなことは、今の私には無理。きっと偉い人が、ちゃんと考えているだろう?今の私は、一生懸命、目の前の生活を繋げているよ?思い通りには、生きてはいない。今の私は、気ままに生きている。でも楽をして、生きている訳ではない。どうでもいいことに、疲れたから。だから、余分な力が抜けたのかも。誰とでも、付き合いたくはない。それが自分の言葉として、内側から出てきたことで、今迄の自分より、楽になった。まだ、私は生きられる。そんな自信は、芽生えた。自分でも不思議。私は私の人生を生きている。相対的な焦りは消えた。きっと私は、子供を持つことはないだろう。母はもう、そのことについて、何も言わない。自然の摂理に、我で逆らっているような気はする。私はどこかで、愛することをしたいと願っている。だからこそ、この世に出してやる気にならないのかも?別れたあの人との子供を、私は素直に欲しくなかった。そして世の中の現実を知っている。真面目であれば評価された平和な時代は、過去に過ぎた。もう私は、私を生きていいよね?淡々と継続するには、適正な距離感が必要。それでも、自分にとって目障りな存在はいる。与えられたことは、仕方なく出来る。目障りな存在は、視界にいるだけで、ストレスになる。殺すわけにはいかないし。だから絶えず不幸を願うのだろう。狡さがなければ、日々を継続させられない。繋がりの無さを隠す為に、言葉に気を使う。いつでも裏切れる準備は整っている。この場所に、居心地の悪さを感じている私。人は日々、変化している。近くにいる人ほど、何を考えているのか分からない。視線は瞬時に変化する。何気なく、警戒し続けなければいけない。私は私を、守らなければならない。繋がっていない人達の動きも、視界の隅っこに感じていなければならない。いつ、私に対する歪みに膨張するのか、警戒しなければ。日々を生きる人の感情は、昇華されていないため、美しくない。集まり、融合すれば、鋭利な凶器となる。大人はそれを建前で、自分にとって不都合な存在へ突き刺す。きっとそれは、日々のストレスを発散させる、大人の巧妙な手段。人にはそれぞれ波長がある。悪の波長は悪を引き寄せる。私は波長を高めなければならない。組織の中では、なるべく気配を消したほうが良さそうだ。最近、それに気づいた。悪の波長が強い人には近寄らないようにする。人の視線は毎日変化しているのだから、毎日警戒しなければならない。人にはそれぞれに、立ち位置がある。自分の立ち位置が、何気なく分かってきたような気がする。星の強い人は上に行けば良いし、それなりの人は、その場所を全うすれば良い。自分を鼓舞する言葉だって、星の強さで全く違うだろう?要は自分と会話して自分の答えを出して、その答えで生きて行くしかなかった。より良く生きる前に、食べていかなければならない。だから今は、仕方なく働いている。私には、やりたいことがある。まだ、そのやりたいことが出来る時期ではない。叶うかも知れないし、叶わないかも知れない。もう、笑いたくもないのに笑えない。もう、そんな過去の自分には戻れない。繋がりの無い環境で、でも孤独ではない。繋がっていないからこそ、私は私でいられる。大丈夫。過去より、だいぶ強くなっている。それを、実感できている。
きっと誰もが、世の中のことなんて、何も知らない。手探りで生きている。こういうことをしたら、こういう反応をされる。そうやって誰もが、手探りで生きている。離婚はしたけれど、大過なく生きられていることに、静かにびっくりしている。私は自分の周辺しか知らない。自宅から会社に通い、また自宅に帰る。それが今の私の世界だ。このまま自分の世界を閉じてしまっても、生きられてしまうだろう。そんな危機感があるから、私は読書をするのかも。会社の外で、何が起こっているのか?私は知りたい。出来れば会社を出たいと願っているから。きっと、晴々として、気持ちがいいだろう?そんな気がする。私にとっての世の中は、今は会社の中。その中で、うまく泳ぐことが出来れば、世渡り上手となるのだろう。会社の外側は、無視できている。もし私が社長になったとして。社長としての世の中は、会社の外側だ。会社があって、世の中がある訳じゃない。世の中があって、会社があるということに、きっと気づくのだろう?今、私が見えているのは会社の中の世の中。この、狭い世の中の中の、私。この狭苦しい世の中から飛び出ることが出来たなら?と、私は想像している。会社が世の中から、ズレ始めている。そんな感覚がする。私は秘密に焦っている。沈没するかも知れない船に、いつまでも乗ってはいられない。いつでも裏切れる準備は出来ている。世の中にとって不必要なら、淘汰されるのが自然。私は変化を楽しみたい。だから洋服が好き。世の中からズレていれば、お洒落じゃない。私は着ることを大事にしたい。しかもお金をなるべく使わずに。だって日常を素敵にしたいもの。気分よくしてくれる洋服が好き。自分も楽しいし、それを見た他人の人も、楽しくなるみたい。毎日嫌なことばかりだけれど、着ることで、何気なく癒される。日々、不安だから。だからその不安に呑みこまれないように、私は私の洋服を着る。所詮人間は、衣食住が基本。それを満たす為には、お金が必要。安全な場所で講釈を垂れる思春期は、とっくに過ぎている。今私は、生活を繋げていかなければいけない。だから、過去のそんな視線は鬱陶しい。現実は、そんな生易しいものではなかった。人それぞれ、私と同じように、何某かを抱えて生きている。それを私は何気なく知った。それを知ったことで、何かこう、虚しさを感じるのはなぜ?私だって、真剣に生きている。その周辺で、他人だって真剣に生きていた。私は自分の幸せを求めていたけれど。勝手に彷徨い、勝手に意気消沈していたような気がする。そのことに、疲れた。過去の私は、自分勝手だった。今の私は過去の自分に対して、そう認識する。今の私は、このまま生きてしまえるだろう。でも、もう一人の私が、それを許さない。この感覚が不思議。無思想に生きていた自分が、無性に恥ずかしい。不自然に感情を昂らせて。だから不自然な言動をした。無思想な若さは醜い。今の私は、そう結論する。人は、この世に生まれる。その人間が世の中に通用する一人前の人間になるには、それなりの年数が必要ということを、生まれてからだいぶ経っているけれど、実感として、ある。私は、今、この時代に生まれてきた。それは仕方がないと、考える。だって生まれてきてしまったのだから。今生きるこの時代に、うまく適応しなければならない。なぜなら、それでも私は、私でいたいから。私の本質は、いつの時代に生まれても、このまま。だから私は、今生きるこの時代を、私として適応して、私らしく生きていきたい。そう結論する。世の中とは、きっとこんなものだろう?人とは、こんなものだろう?それでも私はどう生きるのか?が、今現在を生きる私に問われているのだろう?今まで私は、感覚で生きてきた。これからの私は、思想を元に、生きなければならない。その変化の狭間にいる。未だに過去の余韻を引き摺っている。それでも、進まなければいけない。そんな脅迫めいた、感覚がある。今は、過去の私ではない。
私は、正しく生きているだろうか?人として、正しく生きているだろうか?私の個人的な生き方が、やっと終了したように感じる。やっと自分の立ち位置が、理解出来たような、そんな安堵感がある。私は所詮、私だった。ただそれだけだった。これからは、詐欺的な鼓舞をするものに、たぶん揺れはしないだろう?そう信じたい。強い光のある場所には、必ず強い影があった。現実は、所詮現実だった。
嘘の自分が過ぎようとしている。そんな自分に、今迄、居心地悪かった。苦しかったし、孤独だった。それは、独り善がりの苦しさだった。これからは、自分にとって不必要なものを、うまく笑顔で遠ざけたい。限りある体力を、そんなものに少しでも使いたくない。自分を知らなかったから、あんなにも苦しかったのだろう?見える世界の変化に、自分で驚いている。自分を知るには、時間が必要だった。私は自分を言葉にしなければならない。弱かった時の私は、感覚で自分を誤魔化していた。もうそんな自分に疲れた。正しい言葉を使える人を、周辺に集めたい。悪意のある言葉に、もう共感はしたくない。大丈夫。今の私はそんなに弱くない。自分をさらに高めたい。高めることで、繋がりの質も少しずつ変化していくだろう。
私は記憶を遡る。一つ一つの記憶を撃破して。何のために生きるの?その答えを、記憶を遡ることで、納得が出来たような気がする。私はこうして生きているではないか?それが答えのような気がする。私は今ここに生きている。もうこれで、いいではないか?そんな恍惚とした感覚が、今、私に満ちているのだ。私は生きる。仕方なく、私を生きる。無理に生きようとして、疲れた。仕方なく生きる。これくらいの感覚が、日々を生きるリズムとしては、丁度よかった。私は自分のリズムを探していた。きっと何とかなるだろう?私も世の中も。今は内面がとても静かで心地いい。世の中と、正しく繋がっているような気がする。会社は世の中と繋がる入口だった。入口は一つではない。私は会社を転々とした。そして気づいたことがある。そこで働く人達と、繋がりたくない。この感覚に、自分でも驚いている。仕事は一緒にするけれど、他人でいたい。だって他人だもの。感染防止で飲み会が無くなって、嬉しい。友達がいなくても、仲間がいなくても、本を読むことで繋がれる。毎日会う人のことを、私は全く知らない。噂話と悪口で、何となく知っているだけ。ただそれだけの繋がりしかない。それでも仕事は出来ている。そんな曖昧な薄い繋がりの環境の中で、私は生きていたわけだ。言葉にしてみれば、すごくシンプルなことだった。あの人とも、この人とも、実際には繋がっていなかった。過去の記憶が、私を苦しめていた。誰にでも、好かれる必要はなかった。私は何度も何度も反芻する。誰にでも好かれる必要はない!私が私でいることに、とやかく言われる筋合いはない。人の気持ちを考え過ぎて、疲れた!私だって、真剣に生きている!こんなことは、誰にも言えない。精神で世の中と繋がることで、私自身から、言葉として溢れてくる。その言葉に、私自身が癒されている。日々の、人との薄い繋がりに、今は楽。それを孤独に感じたのは、私自身が稚拙なせいだったのだろう。精神が、世の中と繋がっていなかったから。感覚だけで生きている人は、今でもきっと孤独だろう?でもそれは、その人の生き方だから。私には関係のない話。人とはこんなものだった。そのことに、今の私は気づけたから。結局、自分のレベルを上げるしかなかった。別に孤独ではないし、寂しくもない。そして仕方なく生きている。これが今の私。楽しいよ?別に。実家に出戻ったけれど、経済的にも精神的にも、自立をしていると思う。不必要な情報で、私は揺れた。情報がなければ不安になるし。取り過ぎても不安になる。うまく自分を管理しなければならない。夜、静かな時間の方が忙しい。記憶を整理しなければならない。俯瞰で記憶を見ることで、一人なのに、感情が激しく揺れる。口惜しさだったり。そうやって少しずつ、免疫を強化してきた。世の中には、様々な人がいる。その実際のデータが、私の深奥にかなり蓄積されている。そのデータを整理し、分析し、自分を守る免疫に、昇華しなければならない。所詮私の根本は、好き嫌いで判断している。そんな自分を無理矢理強制しようとして、ちょっと病んだ。嫌いなものは嫌い。好きにはなれなかった。合わない人を、無理に好きになる必要はなかった。合わない会社に、無理にい続ける必要もなかった。その適切な距離感は、実際に自分で経験し、知識を融合させて、体得しなければ身に付かない感覚だった。いつの間にか、したたかに生きている。これは狡さだろうか?日々、自分を突きつけられているような気がする。私は正しく生きているだろうか?日々、逡巡している。誰とでも付き合わなくても、生きていける。これを意識で理解している今の私は強い。頼もしい。合わない歯医者も代えた。私は選べるのだ。疑問に思えばネットで検索し、視点を変える。そうやって、別の歯医者を探した。今はそれで満足している。私にとって、不必要な繋がりを切っただけ。歯医者はコンビニより多い。そのすべてが、素晴らしいわけではないのだから。誰とでも仲良くという、いつ私に染みこんだのか、今となってはわからないその言葉に、長い間、苦しんだような気がする。誰とでも仲良くは、出来なかった。また一つ、私は自由になれた。人は生まれて死ぬ。ただこれだけのことだった。その限られた時間に、自分に合わない、嫌なことはやりたくないし、嫌な人とは繋がりを持ちたくない。ただこれだけのことだった。無駄にやる気のある、若さ故の生ぐささが、やっと私から抜けようとしている。淡々と時間は過ぎていく。それは別に、悲しいことではなかった。私は私を、する。ただ、これだけのことではないの?
家族の死。精神で繋がっていたから、こんなにも痛いものなのだろう。私と母にとっては、八人の猫達は家族。そのうちの二人が亡くなった。知り合いが死んでも、こんなには痛くはなかった。お金を出さなければいけないので、それが痛かった。そんな記憶がある。私は自分の死を考える。繋がりのない人に、別に来て欲しくない。そっと静かに死んでいきたい。世間体として繋がることが、世の中で生きることだと、勝手に錯覚していた。友達ではないのに、勝手に友達だと、思おうとしていたし。みんな、周辺の様子を窺いながら、それなりの態度をしているだけだ。裸の王様みたいに。誰かが裸だと叫ぶまで、きっと続けるのだろう?今までの私のように。子供の頃から、いつも疑問だった。子供だから、大人に合わせるしかなかった。そうすることが、当たり前だと、自分を納得させた。そこから今やっと、解放されようとしている。生きられるところまで生きて、出来れば死ぬ瞬間は、自分で選びたい。私は必ず死ぬ。これは明確な事実。本当に大事なことって、これだけのような気がするけど。
過去の疑問が、不思議なくらい繋がっていく。面白くて癒される。内面が次々にアップデートされていく。それはファッションとして現れる。自分でその変化を、楽しんでいる。組織の中で生きるには、その中で生きる知恵が必要。世の中は、私自身を必要とはしていなかった。世の中は、私の役割を、必要としている。だから私は自分を表現する為に、お洒落を楽しむ。母もそれでいいと、言ってくれている。母は私にとって、戦友。でも幼き日に見た母の喘ぎは、私を傷つけたままだ。私はこんな感じで、それでも生きているよ?私に出来ることは、私の人生に責任を持つことだけ。他人の人生を助けられるだけの余裕は、今の私にはない。自分を冷静に保つだけで、今の私は精一杯。考えては進む。自分を確認しながら、進む。不安だよ?すぐに自分が嫌になるし。自分と向き合うことは、緊張感があるし。過去の自分が嫌いだから。だから逃げずに向き合いたい。繰り返しの毎日の中で、静けさの中で、私の内面は激しくのた打ち回っている。視線は感情で瞬時に変化する。その変化から、その場を逃げ出してしまいたくなる。今は、それでもいいではないか?と思える。あまりに受け入れられないなら、受け入れる必要はないではないか?過去の私に対し、今の私はそう考える。友達がいなくても、生きていける。今の私はそれを知っている。友達とは何か?今は自分なりの答えを出している。私の内面は、激しく躍動する。忘れた振りをして、このまま生きていくことも、出来る。それではまた過去を、繰り返してしまう。過去の自分が、私は嫌い。だから、地味な内面の作業を繰り返す。嫌いな自分を引き摺りだし、真正面で向き合う。その自分に対し、言葉にする。そして噛み締める。その時間へ引き戻され、心拍数が上がる。孤独な辛い作業を、よくもまあ私は継続出来たものだ。過去の私は一人が怖かった。今は静かでいられる。きっとこの地味な作業の効果だろう。誰とでも付き合わなくても、生きていける。それには自分の軸を強くする必要があった。どうでもいいことには、意識的に気づかなければよかった。今を生きていながら、過去とも闘っていた私。誰かに褒めて欲しいけれど、そんな人は、今の私にはいない。別れた人は、そういう人ではなかった。結婚が、早すぎたのかも知れない。何だったのだろう?あの時間は?あったような気もするし、無かったような気もする。それでも今、私はここにいる。それが真実だ。そして私の深奥から、言葉が溢れ続けてくる。まだ大丈夫。まだ私は生きられる。その言葉に、素直に慎重に倫理的に従おうと思う。その言葉に対し、私なりの答えを出し続けなければならない。考えろ!私。裏切る準備は出来ている。この場所に留まることは危険だと、私の感性が気づいている。猫のように臆病に、敏感に生きていきたい。危険を感じたら、素直に逃げればよい。それで良かった。何度も何度も、自身に言い聞かせる。すべての人と、仲良くは出来なかった。お互いに距離を取り、自分の足元の範囲で生きればいいではないか?過去を、何度も何度も噛み締める。何気ない日常。それでも私の内面は、何気なくはない。自分が素直に感じたことでさえ、疑問に思えてくる。言葉にすれば、リアルな反応をされるのだから。そして私は立ち止まってしまう。自分の内側の言葉と外側の言葉の間で、過去の私は居心地悪かった。私は今、どっちの世界にいるのだろう?内側か?外側か?外側を生きる私は疲れ気味。もういいよ……そんな感じ。でも目の前には現実の生活があるから。妥協して生きていること自体に、そんな自分に悔しい。頑張るのは嫌ではない。内側に入っている自分を鼓舞する言葉は、今の私を救ってくれない。感覚で生きていた時代が懐かしい。友達。仲間。夢。愛。感謝とか。孤独。寂しい。でも自分は正しい……みたいな。それに関連する音楽やら本やらドラマやら。たらふく吸収したような?その時の私は必要だったのだから。今、それらのものは、内側で我楽多になっている。それらのものは、今の私を救ってはくれない。それらのものから、今の私はポツンと取り残されているような?別に心酔してはいなかったけどね。おかしいと思いながらも、流行っていたから。私の現実に、今は戻って来た。自分から離れていた。それが過去の私だった。離れていたことで、世の中を俯瞰できた。その世の中で、私はどう生きるのか?悲観して傷ついた振りは、お腹いっぱい。この足で、少しでも動かなければならない。あるがままの現実を受け入れるには、内面の成熟が必要だった。そのことに、私は気づかなかった。勝手に傷つき、勝手に悲観していた。そんな過去の自分に、今の私は疲れている。自分を言葉にするには、勇気が必要だった。純粋に若かった時の私は、その勇気がなかった。今だから、その惨めさを受け入れられる。余韻の延長で、今まで何とか生きてきた。もうそのことに、疲れた。過去を噛み締めては、考える。そして眠る。その地道な繰り返しに、重大な意味があった。今だからそれを、理解出来る。過ぎてみなければ、分からないことがある。取り敢えず生きている。それだけでも意味があるような気がする。生きる意味を考えることに、今の私は辟易している。すでに思春期ではない。だってこうして生きているんだもの。美味しいものは食べたいし、お洒落を楽しいと感じる私がここにいる。精神は自由だから。だから丁寧に扱ってあげないと、壊れてしまう。私は世の中に対して、正しく生きているだろうか?その上で、自分も正しく輝いているだろうか?独り善がりの価値観で、生きてはいないだろうか?思春期の時のように、勝手に孤独になって、勝手に寂しさを全身から醸しだしていないだろうか?雰囲気の身なりを、私は気を付けなければならない。雰囲気の匂いに敏感な、精神に難がある人を引き寄せてしまう。私は自分を守らなければならない。人の感情は、悪にも善にも瞬時に揺れる。その揺れを、うまく避けなければならない。頑張れ!私。どんな時にも、人に寄り添い過ぎて、疲れた。私は他人に対して、親ではない。今まで、親からしてもらったことは、当たり前のことではなかった。それに今気づいた。他人との関係の中で、自分の内側を言葉にすることで、今になって気づいた私。今更になって、恥ずかしい。離婚の原因は、私にもあったのではないか?そんな新たな疑問が、私に芽生え始めている。視点の変化に、私が震えている。見えていなかったことが、今になって見え始めている?何気なく、心拍数が上がる。考えることで答えを出し、その答えで自分を支えて生きてきた。離婚だってそう。自分なりに考えて、その答えを離婚とした。その考え方の根本にある、思想がもし間違っていたとしたら?きっと私はこのまま生きてしまえる。これ以上、自身を掘り下げることに、素直に恐怖を感じる。どうする?私。このままの私として生きていくのが嫌なら、掘り下げて、私を動かしている根本を造り変えなければならない。それには相当な覚悟がいる。過去と向き合うことで、今を生きる私の変化を、私自身が感じ始めている。自分とは一体何か?その不思議さを、実感している。なぜ過去と向き合わなければならないのか?私自身がそれをしたがっているから。私という存在に対して、私自身がそうしたがっている。生まれてきて、私自身がそこから始まった。環境に影響されながら、今まで生きてきた。ある程度勢いで流されてきた。そして今、私は立ち止まっている。立ち止まり、精神として、過去へ遡った。過去から現在へ、もう少しで完全に繋がろうとしている。一本の道に、やっとなろうとしていたのに。私の今まで歩いてきた道は、私が歩くべき道ではなかった?それに、今の私は気づいている。このまま歩き続けることも出来る。ただ、このまま歩き続けても、私の深奥は気もち悪いままだろう。それは確信できる。どうする?私。今まで何気なく信じてきたものが、内側で崩れてしまった。見えるとは何か?その根本が、今の私は揺らいでいる。同じものを見ていても、内面の成熟度合で映り方は違う。過去の記憶はずっと私の奥深くに眠っていて、ある程度成熟した私のそれらの映り方は、未成熟な過去の私の時の映り方とは違う。若さは無思想で、誰とでも友達になろうとする。それが正しいことだと、その時は信じていた。信じることは、つよい。でも危険であることを、今の私は知っている。未成熟なまま、世の中に飛び出ることは、危険。経験と知識を融合させる重要性を、今の私は知っている。人の悪意の膨張性は早い。逃げろ!私。たった一つの視線で人を見続けるには、限界がある。人は瞬時に変化する。その変化に瞬時に対応できる自分を造らなければならない。私はまだ、動くべきではないのかも知れない。内面の熟成には、何気なく、時間の経過が必要。自分を何とか守りながら、秘密裏に内面を高めなければならない。いつ、裏切られても大丈夫なように。自身の周辺を深掘りしておかなければ。簡単に自分を攻めさせてはならない。強くなれ!私。なぜ人は?ではなく、人とはそういうもの。それに対してめそめそしていても、時間の無駄。私は私のままでいたい。それには、つよくならなければならない。何気ない日常の中で、何気ない雰囲気の駆け引きは頻繁に行われている。私には、私なりの闘いが、日々、行われている。私のままで生きるには、緊張感と闘わなければならなかった。どうする?私。そんな問いを、間断なく、突きつけられているような気がする。それが、今の私にとっては心地いい。今の私はそれを楽しめる。誰とでも、繋がる必要はなかった。単純な、美しい言葉は麻薬。やっと今になって、その余韻さえ、体から抜けようとしている。新しい自分が、始まろうとしている。そんな感覚がある。今まで純粋に、孤独だったのかも知れない。それには重大な意味があったような気がする。より深い繋がりを持つことを、私は本能的に危険だと知っていた。今の私は偽物。繋がりを持つことで、その偽物の自分が暴かれる。そのことが怖かったのかも知れない。今の自分は本当の自分ではない。そんな居心地の悪さを、今迄の私は感じていた。そのことに、疲れていた。もう過去の自分を終わりにしたい。感覚の世界に耽溺した自分は、もうすぐ終わるようだ。大丈夫。光は見えている。私はそれでも、進んできたではないか?
簡単に繋がりを持つことは、危険。人は不安定だから。自身に基準がなければ、他人の不安定が一気に自分に流れ込む。弱かった自分と向き合うことが、これからの自分を守ることだった。私の今迄の思考は、間違っていなかった。こんなに楽に、なっているではないか?ちょっと生きて、過去に遡り検証し、考えてまた進む。どうやら人とは、こういう作業をする存在らしい。この作業の果てに、私は一体何を見るのだろう?あるがままをする。あるがままに、私は自分に疑問を持った。あるがままに彷徨った。ただそれだけの事ではないか?それでもこうして生きているではないか?この世に生まれて、その時代の価値観でしばらく流された。私に自我が芽生え、その価値観に疑問を持ち、私という存在に疑問を持った。私を愛してくれた父は、既に他界している。今は母と、六人の猫たちと暮らしている。これが今の私の現実。こんな感じで人類は、今迄いのちを繋げてきたのだろうか。私は離婚した。子供はいない。繋げる命を、私は作らなかった。些少の後悔と、自然な衝動を拒否した罪悪感が、少しだけ、人としての私を苦しめる。今の私は世の中の現実を知っている。その理屈で、心をなんとか平静に出来ている。私の判断は、正しいだろうか?別れたあの人との間に、私は子供を望まなかった。だから気をつけていた。今はその判断を、正しかったと確信できる。なのになぜ、同じ記憶に戻っていくのだろう?今の自分を納得させる為に、私は記憶を遡っていく。時間は経過していく。精神は癒されていくけれど、肉体には時限がある。母も、必ず死ぬ。猫たちも。その時私は、生きられるだろうか?既にミントとモモが亡くなっている。八人から六人になった。時間は静かに経過している。不気味なくらいに。それでも思春期の頃のように、震えはしない。だってこれが私だもの。まだ、過去の残骸は、残っているだろうか?会社に行くだけで、今迄それに気づいてきた。日々を繰り返す。その経過の中で、私は自身と闘ってきた。ここまで自分を、継続できたではないか?今はそれが、多少の自信になっている。まだもう少し、生きられるかも知れない。今はそんなに、嫌な感じがしない。少しだけ、ほんのちょっとだけ、自分を好きになれたような気がする。自分を嫌いなまま、死ぬのは嫌だ。私は私をする。
今、雨が降っている。皮膚に不快感を与える夏が、ようやく終わった。遠くで不快な声が聞こえる。私は思考を言葉にしようとしているのに。その生成を破壊する。私は家の中は好きだけれど、周辺は好きではない。誰とでも繋がらなくても、生きていける。それが今の私を楽にしている。過去の私は過ぎた。もっと遠くになればいい。いい意味で。今の私は純粋ではない。人を殺すと犯罪だから。人は必ず死ぬ。それまで何気なく待てばよくない?私は逃げる。自分を楽しみながら、どんどん逃げる。どうでもいいことで闘うのは、思春期の人に任せておけばいい。私は今、どこに立っている?
冷静に!、私。もっと狡猾に!、私。
私は記憶へ遡る 魚麗りゅう @uoreiryu
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