代償のない等価交換 後編
賽の目状に切った豆腐を赤い調味料の中に投入して一混ぜする。すぐにいい匂いが充満して、俺は大きく息を吐いた。奇妙な出来事の連続にそろそろキャパオーバーしそうだ。どういうことかは分からないけれど、どうやら俺は時間を止められるようになったらしい。初めは夢かと思っていたが二度も同じことが起これば流石に無視は出来ない。俺は時間を止められる能力を得た、これは確定していいだろう。でもいつ、どうやって?
思い浮かぶのは数日前に買ったあの本だ。内容は今でも思い出せないが、もしも時を止める方法が書いてあったのだとしたら。あの本自体に魔法のようなものが掛かっていて、読んだ人の記憶を消してしまうのであれば。そのせいで俺は訳もわからず時を止めることが出来ているのだとしたら。
ーー馬鹿馬鹿しい、そんなことあるわけがない。なら、今日の出来事をどう説明する?
他に心当たりなんて無い。このまま何も分からない状態でいたくはないし、一応後でまたあの本を調べる必要があるかもしれない。全く、あの古本屋に行ってから振り回されてばかりだ。俺は時間を止める事なんて興味なかったのに。普通なら健全な男子高校生がそんな能力を得たら教室なんかで時間を止めて楽しむのかもしれないけれどうちの高校は男子校、そして少なくとも俺には男色の気はない。クラスメイトを止めても俺に何のメリットも無いじゃないか。少年を助ける事が出来たのは良かったけれど、それでもこの先あの力を使う事はもう無いだろう。
火を止めて、麻婆豆腐を皿に装った。自分で一から味付けをした割には美味しく出来て満足した。薄く湯気が上がっているそれを食卓へと運びながら、そういえばこんな時間まで昭斗が二階から降りてこないのは珍しいと思った。
「昭斗、もう夕飯出来たけど」
部屋の外から声を掛けるが返事はない。さっきも調子悪そうだったし、寝ているのかもしれない。ドアを開ける。もう七時を過ぎているのに部屋の電気はついておらず、嫌な予感がした。部屋の中央に昭斗は立っていた。昭斗は全く俺に気づいていない様子で、無表情で古びた本を読んでいた。ベッドの下に隠しておいたはずのあの本だ。定期的にページを捲る他には昭斗は身動きすらしない、はっきり言えば異様な集中力だった。携帯電話が足元に転がっていた。
「……昭斗?」
何度呼んでも聞こえていないようで反応しない。ぞっとする。恐らく、先週俺も同じようにあの本を読んでいた。記憶が無い間、こんな風に一心不乱に本だけを見ていた。呆然と見守る俺の前で昭斗の手が最後の数ページを捲った。本を閉じる音がして我に帰る。
「読み終わった、のか……?」
昭斗は不思議そうに本を見やる。その姿はいつも通りで、ようやく息がつけた。
「昭斗も読んだんだな、その本」
びくりと身体を跳ねさせて、昭斗が俺の方を見る。俺に今まで気づいていなかったようだ。軽く手を振って夕飯出来てるけど、と小さく声を掛ける。
「ねえ、晴斗……。これは、何?」
小刻みに震えている昭斗は、きっと俺と同じ体験をしている。
「とりあえず、食べよう。俺もよく分かっていないけど、ゆっくり話したい」
昭斗が青ざめた顔で頷いた。
食卓はいつになく重苦しかった。元から俺達は会話が多い方ではないけれど、今日はいつもの沈黙とは意味が違う。特に昭斗は自分に何が起きたのか掴みかねているようだった。当然だ、表紙を開いたと思えば次に気づいた時には本を閉じているのだ。混乱するに決まっている。
グラスに注いでおいた水に口をつけた。喉が酷く渇いた。話を切り出そうとした時、昭斗が先に声を上げた。
「ねえ、晴斗。あの本は何?」
その声はもう震えてはいなくて、俺以外ならきっと騙されてしまいそうなくらいいつも通りだった。
「あれは……、先週古本屋で買ってきた本だよ」
「それはもう先週聞いた。僕が聞きたいのはそういう事じゃない。わざわざ言わせないでよ、分かってるんでしょ?」
箸を置いて昭斗はその手のひらを見つめた。困ったように眉根を寄せている。
「僕はあの本を読んだはずなんだ。家に着いてすぐ、多分四時半頃。そして今読み切った。あんなに分厚い本を、三時間も掛からずに読んだんだ。しかも、しかもだ。何にも思い出せないんだよ。流し読みなんかは絶対してない。ちゃんと全ての言葉に目を通したのに、何について書かれた本かさえも、分からないんだ。ねえ晴斗。あれは、何?」
言葉に詰まりながら絞り出すようだった。その動揺は痛いくらい分かる。俺も経験した恐怖だから。
「あくまで俺の予想だけれどさ。あれは多分魔術書か何かだと思う。おかしな事を言っているのは分かってるんだけれど、そうとでもしないと辻褄が合わない。それに俺は……」
もう一度水を飲む。向かいにいる昭斗もグラスを持っていた。
「俺は、時間を止められるようになった」
「……時間を?」
「そうだ。今日の五時間目と放課後。止まってほしいと願うだけでいい。詠唱も代償もいらない。多分あの本には、その魔法の使い方が書かれていたんだ」
「五時間目、放課後……。そうか、そうだったのか……」
昭斗が深呼吸をした。顔を上げた昭斗は、さっきまでとは比べ物にならないくらい晴れやかな表情をしていた。別人みたいだ。
「なんとなく予想してはいたけれど、全て分かったよ。そういう事だったんだね」
「そういう事?」
「うん。ああ、そうだ。晴斗はまだ時間を止める気はある? 僕も一度だけ止めてみたいんだけど、いいかな?」
「俺は……」
口籠る。もう能力を使う気はほとんど無かったが、その圧力にぞっとした。笑っている癖に眼は捕食者のように隙なく俺を見つめている。初めて兄弟に恐怖心を覚えた。
「……俺は、もう時間を止めるつもりは無いよ。もちろん命の危機でもあれば使うかもしれないけれど。それに、昭斗も止めたいんだったら俺に聞かなくても止めてみればいいだろ」
「そう。じゃあ能力を使うよ。後悔しないんだね」
「は、ちょっと待って……」
含みのある言葉に気づいた時には遅い。昭斗は指先を合わせてまっすぐ俺を見ていた。
「……僕は晴斗のことを咎めないし、ましてや恨んでいる訳じゃないよ」
「……どういう意味?」
「ごめん、でも一度だけだから。……時よ、止まれ」
右手から箸が転げ落ちて、意識が闇に呑まれた。
次に意識が浮上した時には目の前は赫が広がっていた。酸化したような黒ずんだ赫の中、所々に人一人くらいの大きさの塊が見える。ごうごうと台風の中にいるような音に混ざって甲高い悲鳴が聞こえてくる。そして何よりも、鼻が捻じ曲がりそうな匂い。甘ったるくて、苦くて、すえた様な匂い……気が変になりそうだ。
「なんだ、ここ」
ひとりごちてすぐに後悔した。口を開いたら余計にこの酷い空気を吸わなければならない。むせ返って顔の鼻から下を手で押さえる。
「何かお困りかしら、お兄さん」
浮世離れした世界の中、凛とした女性の声が聞こえた。振り返ると、一面の赫の中では異様な程に艶やかな藍色の衣を纏った女性が、上品に口に手を当てて微笑んでいた。
「ようこそ、死の淵へ。生きているお客さんだなんて珍しいわね」
興味津々と言った様子で俺の顔を覗く彼女はかなり背が高く、大体2mはあるように見える。色素が無いのか不自然なくらい真っ白な長い髪が風になびいている。整った顔の真ん中、この視界と同じくらい朱い瞳が、俺を見て鋭く光っていた。その特徴一つ一つが現実離れしている。
彼女は俺の不躾な視線を意に介さず、この景色が当たり前かのように、歌うように話し始める。
「貴方はどうしてこんな所まで迷い込んだのかしら? ここに来るべきは三千世界の大悪人。貴方のような無害でつまらない生者など、面白くともなんとも無いし、帰れるものならば早くおかえりなさい」
くるり、とターンすると長い袂が揺れる。その姿は何故だかとても奇妙に感じた。
「そんな事、言われても……。俺は、どうして自分がこんな場所にいるのかも分からないし。そもそも、『生きている人間』? まるで、ここが死者の国だとでもいうみたいに……」
「そうよ」
彼女は俺の言葉を遮ってはっきりと断言した。いや、でも、そんな事言われても。
「信じられないという顔をしているわね。でも、ここは紛れもなく死者の国。正確には貴方方のいう地獄といった所かしら。善良な魂は此方には来ない決まりなの」
「だったら、俺は死んだ……のか?」
「いいえ。確かに生者が来るのは珍しいけれど、全く無いわけではないわ。私も長い間ここで番人をしているのに貴方の他に一人くらいしか会った事がないのだけれど」
そう言うと、彼女は形の良い眉を寄せて俺の顔を注視する。美人に見つめられるなんて慣れていないから、少し緊張する。
「そういえば、あの子に似ているわね」
「……は?」
「いえ、こっちの話よ。とにかく、残念だったわね。私には貴方を元の世界へ戻す事は出来ないの」
彼女が手を振り上げると、目の前には大きな、大量の熱湯を湛えた黒い釜が現れた。地面から釜の縁まで梯子が掛かっている。規格外のサイズだ。……例えるならば、人間を茹でる事も出来そうなくらい。
「私もそう地位が高い訳ではないから勝手な事は出来ないの。例え貴方が迷い込んでしまっただけだとしても特別扱いは出来ない。この意味、分かるかしら」
「つまり、俺は今から、あの中で茹でられる……」
「そう。大丈夫よ、前に来た子もすぐに帰る事が出来たから。きっと気づいた時には戻れるわ」
無意識に後ずさりする。数歩下がった所で、さっきまでなかったはずの壁に行き当たる。あり得ない。この世界も、女性も、何もかも。人を茹でる? 正気じゃない。しかし彼女はいたって真面目だった。
「釜の中は……とにかく熱いから、運が良ければすぐに気絶出来るわ。意識を失った死者を覚醒させるのも私の仕事だけれど、今回は無しにしてあげるから。勇気を出してあの中に飛び込めば、気づいた時には元の世界よ」
運が良ければ。彼女は確かにそう言った。ならば、運が悪かったら……いや、やめよう。正直頭が追いついてないけれど、俺に選択肢は無さそうだ。なら、とっととこんなよく分からない世界からは去るに尽きる。
梯子を一段ずつ登る。その一番上から釜を覗き込む。もう既に熱い。湯気が後から後から昇ってくる。爪が食い込むほど、拳を強く握り込む。
「精々頑張りなさい。もうこんな所に来ては駄目よ」
その声を聞きながら、俺は煮え滾る湯の中に飛び込んだ。
暑い、熱い、あつい。身体中に熱した針が刺さっているようで、痛い。熱さから来るものか痛みから来るものか分からない汗が全身から吹き出して、熱湯に溶けていく。何も分からない。顔面が湯の中に埋もれた。目蓋を閉じてもその上から眼球を熱の塊で打たれているようだ。叫び出したい衝動に駆られるが、自由に身体を動かすことも出来ない。息すら満足に吸えていないのに、気絶出来ない。どうして、俺がこんなところに。生きているかも分からなくなりそうだ。それでも、絶えず襲ってくる熱さと痛みで自分がまだ生きていることを確認する。辛い。辛い! 生者が来るところではないとあの人が言っていたのにどうして俺が。すぐに気絶できると言っていたのに。それに……待て。そういえば、あの人はなんて言っていた? 永遠の責め苦の中で、突然背筋が冷える。彼女は「俺に似た生者を見た」と言っていた。それが、昭斗のことだったら? 縺れた糸を一つ一つ解くように、思考が整理されていく。身体は熱さを感じているけれど、思考だけは冷静に働く。そうだ、あの時、俺が時間を止めて少年を助けたあの時。昭斗は酷く怯えていた。もしも、あの時。俺が時間を止める代償として昭斗がこの責め苦を味わっていたとしたら。時間を止める能力には対価は要らないと思っていたけれど、俺の代わりに昭斗が払っていたとしたら。
犠牲を払わずに得られるものなどあるはずが無い。理解していたはずなのに考えもしなかった。そうか、あの能力は使う人自身ではなく別の人が贄となることで発揮されるのか。
灼熱の中で、少しだけ心が痛む。昭斗は俺を恨まないと言っていたし、それは嘘ではないはずだ。あいつはこの程度の地獄なんて心から楽しむような狂気じみた奴だ。それでももう二度とあの能力は使わないようにしようと心に決めて一層身体を縮こまらせる。相変わらず全身が熱に苛まれている。嫌だ。もう十分代償は払っただろう。焼き切れそうな痛みの向こうに、何かが弾けた。
声が聞こえた。
目眩に似た感覚と共に意識が浮上する。目の前は見慣れた普段の食卓だった。赫い世界も、轟音も、変な匂いもしない。少し冷めた晩餐が並ぶだけのいつも通りの現実だ。
その日常の向こう側から、昭斗が何処か満足気にこちらを見ていた。
「なあ兄弟、楽しかったか?」
昭斗は八重歯を見せてそう笑った。
「それ以来、晴斗君はその魔法を使っていないのかい?」
「もちろん。時間を止めても何がある訳でも無いし、昭斗の報復も怖い」
「昭斗君も使っていないんだね?」
「そうだよ。多分、止まった世界はつまらなかったんじゃないかな。あいつ、妙に好奇心が強いし。一回世界を止めたら満足したんだと思う」
「そう、ならいい。その能力を使わなければ危険はないだろうけれど……僕の方でも色々調べてみるよ。教えてくれてありがとう」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
「いやいや、当然だよ。だって僕は、生徒会長なんだからね」
そう言って、同級生村里怜は笑った。
富士見東高校生徒会長村里怜の書契 片桐 椿 @Iris524
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