富士見東高校生徒会長村里怜の書契

片桐 椿

11月 等価交換

代償のない等価交換 前編

 なあ、会長。一つだけ妙な話をしてもいいかな。俺だって自分の事で無ければ信じられないような話なんだけれど……お前だったら馬鹿にしないで聞いてくれると思うんだ。相談ってわけではなくてただ聞いてほしくて……。そう、お前がよく相手にしているような不思議な事だ。

 もう随分と使っていないけれど、俺は魔法が使える。それを使う為には、俺は代償も生贄も払う必要がない。ただ心の中で念じるだけでいい。

 時間よ止まれ、と。



一連の出来事の始まりはきっと小さな古本屋だった。その日はいつも一緒に帰っている学年も誕生日も同じ兄弟、まあつまりは双子だが、あいつが委員会の会議に出席していたから俺は一人で夕方の通学路を歩いていた。……いや、友達が居ないわけじゃない。断じて。揶揄うなよ、お前だって知っているだろ? クラスにも部活にも友達はいるが、たまたま予定が合わなかったんだよ。それに……、俺もまあ一人で歩く事は嫌いじゃない。通学路から少し逸れてそれまで知らなかった店を探すと新たな発見があって楽しいんだ。だから俺はその日も、人気の少ない道へと誘い込まれてあの古本屋を見つけたのだ。


 第一印象は流行っていない古書店。いつ潰れてもおかしくないようなその店は、掃除もロクにしていないのか通路まで埃を被っているのが外からでも分かった。歩いたら足跡がつきそうなくらいだ。興味を惹かれて年代物のスライドドアをがらりと開ける。中はいくつかの高い棚にぎっしりと本が詰められていて息苦しささえ感じた。その先からいらっしゃい、と気の抜けた声が聞こえてくる。何となく少し気まずくなって棚を確認した。そこにあったのは教科書にも載っているような名作や題名だけで難しそうな本ばかりで、言ってしまえばとても退屈だった。これは潰れそうなのも頷ける、と目線を下げるとそこにはとりわけ埃を被った一冊の本があった。引っ張られるように手に取り、表紙を見る。題名も作者も書いていないその本を、俺は気づいた時には買っていた。理由は自分でも分からない。今月お金無かったのにと後悔してももう手遅れで、鞄にはしっかりと本が納められていた。今更あの本屋に戻る気もしなくて、家に帰ってから暇つぶしにその本を読む事にした。たまたま課題も無かったからいいだろう。別に本なんて好きじゃないのに、とやや大きめの独り言を呟きながらその本を読み始め、俺はそれをその日の内に読了した。


 ーー読了した、はずなのだ。不思議な事に俺はその本の内容を全く思い出せなかった。一節すらもだ。気が散っていた訳ではない。俺は間違いなく他の事は何も気にならないくらい本に集中していた。カーテンを閉めていない窓の外にはもう完全に月が出ていて、帰りが遅い両親の代わりに兄弟が夕飯の支度を終えたところだった。



「ねえ、晴斗。さっきは何を読んでいたの?」


  薄味の肉じゃがを摘んでいると目の前から声がかけられた。声の主、つまり俺の双子の昭斗は左手に箸を、右手に味噌汁のお椀を持ってにっこりと首を傾げた。……いやいや、十七にもなって双子の兄弟にする仕草じゃないだろう。そんなんだから中学の卒アルの「あざとい人ランキング!」で一位とか取るんだよ。これ見よがしにため息を吐く。


「別に大したものじゃないよ。今日古本屋で買ってきた本」

「へえ……。そう、なんだ」


 すうっと瞳孔を細める昭斗に嫌な予感がする。こうなるとこいつは中々面倒だ。この顔の昭斗は俺が隠している事なんて一つ残らず暴いてしまう。それでも、何となくまだあの本の事は話したくなかった。


「一応最後まで読んだけど、もう内容も覚えていないくらいつまらなかったよ。これは資源ごみ行きかな」

「その割には僕が何回呼んでも返事しなかったよね」

「それは……ほら、音楽聴いていたから。紐がないタイプのイヤホンあるだろ? 買ったんだよ」


 ずっと欲しかったワイヤレスイヤホンを昨日買った。それは本当だ。昭斗にはまだ話していなかったし誤魔化せるんじゃないか。もっとも、さっきはイヤホンなど着けていなかったから耳元を見られていたなら簡単にバレる嘘だ。

 様子をうかがう。昭斗は目を伏せて右手を顎に当てた後、興味を無くしたように肉じゃがを取り分けた。


「別に、それならそれでいいんだけどさ」



 そもそも、前提がおかしい。俺は速読の技術もないし本が特別好きなわけでもない。五百ページはありそうなその本を一日、それも放課後の数時間で読み切るだなんてありえるか?

夕飯の片付けを終えてからもう一度その緑の表紙を開いた。今度こそは集中して内容を覚えようと意気込む。それでも次に気づいた時にはまた数時間経っていて、今度も何も覚えていなかった。


 同室の昭斗に電気を消されてしまった部屋で、背筋が凍るようだった。二回も読んだのに何も覚えていない? しかも、本の内容だけでなく読んでいる間の記憶も何一つない? あり得るわけがない。二段ベッドの上からは規則正しい寝息が聞こえてくる。昭斗は寝る前は一言かけるタイプだし、きっと今日もそうしたはずなのだ。多分何度も声をかけて、それでも俺が反応しなかったからヘソを曲げて部屋を暗くしたはずなのだ。でも、俺にはその記憶はない。


 この本だ。この得体のしれない物体のせいで何やらおかしなことが起こっている。


 まじまじと表紙を見る。深い緑の装丁は、本に詳しくない俺でも分かるくらい古い物だ。きっと何十年、いやひょっとしたら何百年も前に書かれた本だ。ゆっくりと撫でると埃が手についた。


そして、恐ろしくなってその本をベッドの下に押し込んだ。風呂に入る気力すら起きない。明日は早く起きて朝風呂をしよう。そう決めて布団に潜り込んだが、その日はどうしても朝まで一睡も出来なかった。それっきり、俺はあの本の事を忘れていた。



 その後だ、時間を止められるようになったのは。


 次の週に物理の小テストがあった。範囲は力学で、苦手ではないにしろ計算に時間がかかる面倒な分野だ。必死に手を動かすも弁当を食べた後の頭はいつもより働かず、無情にも「筆記用具を置いてくれ」、という担任の声が聞こえた。

 ああ、あと数行で答えが出るのに。あと一分あれば。もしくはーー時間が止まればいいのに。

 子供染みた願望を息に乗せて吐き出すと、不意に視界がぐるりと回った。重い頭を手のひらで支えて教室に目を向ける。その視界の先。


 目に映る全てが動きを止めていた。教師もクラスメイトも、全員が一時停止ボタンを押したように中途半端な姿勢で固まっている。静かだ。何の音も聞こえない。教師の声や風の音だけじゃない、自分の鼓動さえ聞こえないような静寂……。


「……は?」


  瞬きをすると全てが嘘だったように世界は何事もなく動き始めた。理解できずに動けないでいる間に、書きかけだったテスト用紙は一番後ろの席の生徒に回収されていった。



「そんなにぼーっとしてどうしたの、晴斗」


 放課後。俺達が入っている茶道部は火曜日しか活動がない。そして今日は木曜日、授業が終わってしまえば学校に用はない。教室の前で待ち合わせて二人で帰路を辿っていると昭斗が笑いながら肩を叩いてきた。確かにあの出来事で上の空だったかもしれない。……でも、昭斗だってどこかがいつもと違う。はっきりどことは言えないけれど、……何かに怯えている?


「昭斗こそ何かあった? 変だけど」

「あれ、分かっちゃう?」


 昭斗は悪戯を思いついたような笑みに芝居掛かった仕草で両手を広げた。肩にかけていたトートバッグがずり下がる。


「授業中、ちょっと居眠りしちゃってさ。今夜は雪かもね」


  興味のない授業はすぐ眠くなる俺とは違い、昭斗はどの教科もよく教師の話を聞いている優等生だ。それなのに居眠りだなんて。珍しい、それは確かなんだけれど。


「自分で言うなよ、嫌味な奴だな」

「そう? でも晴斗も同じ血が流れてるんだよね、ご愁傷様」


 一瞬だけニヤリ、と人前では絶対にしない悪どい顔をして昭斗はトートバッグを掛け直す。透けて見えた悪人面は数瞬の内に跡形もなく引っ込んでいた。いつもそうだ。俺なんかよりずっとやばい物を腹に飼っている癖に、普段からいかにも自分は無害な存在ですと見せかけている。俺以外は誰も気づかないのだ。会長といえども知らなかっただろ? ……言ってよかったのかって? お前は口が軽い方ではないしあいつの本性を知ったところで悪用はしないだろ。第一、昭斗は昔から外面だけは良いから悪評を流そうとしても信じる奴はいないよ。


「そういうところ、本当に俺の兄弟だと思うよ」

「今日は随分褒めてくれるんだね。ありがとう」

「そうやって何でもポジティブに捉えられるなら幸せだろうな。……ん?」

「……あ」


  遠慮のない軽口の応酬を繰り返していると、右側の道路の先に小さな影が見えた。俺の視線を辿って昭斗も気づいたようだ。

 ここから十数メートル前方、車道のど真ん中に小さな少年がいた。小学校入学前に見えるその幼い少年は、ボールを追って道路に出たらしい。頼りない足取りでゆっくりと歩くその背後を白いトラックが走っていた。猛然と向かってくるその影はあと数秒もしないうちに少年にぶつかるだろう。


 考える前に体が動いていた。足が速い方では無いけれど、とにかくどうにかして助けないと。突き飛ばせばあの子は助けられるかもしれない。そうすれば……。


「止まれ、晴斗!」


  昭斗の叫び声が聞こえてハッとした。止まれ、その声に連想されるように午後の数瞬間のことを思い出す。ああ、そうだ。もし今あの時と同じことが出来たなら。


「どうか止まってくれ」


  誰にも聞こえないようにその呪文を唱えると、目眩と共に世界は途端に停止した。


 さっきと同じだ。眼に映るもの全てが動きを止めている。違うのは俺がこの状況を既に体験したことがあるということだけ。なるべく音を立てないように、しかし早足で少年の元へ向かう。単なる予想だけれど、あの時は俺が声を出したから時間が動き出した可能性がある。だから、今回は絶対に最後まで何も言わない。何が起こっているのかはわからないがチャンスがあるのなら少年を助けたかった。

 少年を抱えて数メートル先の歩道に移動させる。声を出そうとして、このままでは俺が瞬間移動したように見えてしまうことに気づいて元いた場所まで戻った。最後にもう一度道路に目をやり、このまま時間が動いても問題ないことを確認して、


「戻れ」


 声に反応して世界が動き始めた。トラックは勢いを緩めずに、少年がいたはずの空間を通り過ぎていった。


「今の、どうして」


 隣から茫然とした声がした。昭斗はやけに青ざめた顔をして震えていた。言い方は悪いが、「知らない少年が交通事故に遭いそうな瞬間を目撃しただけ」には見えない。もっと深刻なことがあったかのような。


「……何があった?」

「ごめん、何でもないんだ。本当……」


 昭斗はどこかふらふらとした足取りで俺を置いて歩いて行った。疑問に思いながらもその時の俺は詳しく訊くことはしなかった。

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