第2話 意外な出会い
いつものことだ。朝の五時だった。愛奈から俺の携帯に電話があった。
「朝、チロルの散歩に行きたくなちゃった。七時に出発よ」
寝ぼけまなこの俺は、ベッドからなんとか返事をした。
「わかりました」
チロルはダックスフントで、愛奈のペットだ。
こんな生活も二年のがまんだ。しかし、二年は長い。
ジャスト七時に出発できるように、俺は早めに行って、車の準備をしておいた。玄関の前に車を止めて、待っていると、愛奈がチロルを抱きかかえて出てきた。
愛奈は、赤いセーターに白い薄手の短いダウンジャケットを着て、黒のパンツスタイルだ。スタイルがいいので、かなり目立つ。
「今日は天気がいいから、少し遠出をしたいの」
「はい」
なんでも従わなければならない。
俺は一時間ほど運転をして、有名な庭園のある公園に彼女を連れていった。
「ここで待っていてね」と愛奈は言うと、チロルのリード紐を握って、車を止めた駐車場から散歩に出た。
やれやれ、これでしばらくは自由な時間となる。俺は車のリクライニングを倒して、少し仮眠することにした。
うとうとし始めたときだった。車の助手席のドアが急に開いた。
「優起きて、チロルがいなくなっちゃった」愛奈が血相を変えて叫んだ。
愛奈が屋台のクレープを買っているあいだにいなくなったのだ。少しのことなので、近くのベンチに紐を繋いでおいたと愛奈が泣きそうな顔で言った。
チロルのいなくなったベンチから、俺と愛奈は
探すこと二時間、かなり広い公園なので、どこに行ったのかとうていわからない。あんな胴長のワンコでも、盗む奴がいるのかな。警察に届けるしかないかと思い始めてときだった。
俺の目の前を、胴長のワンコを連れた子供と老婦人が歩いているではないか。よく見ると、チロルだ。首輪が間違いない。
「すいません、その犬を探していたんです」俺は駆け寄って言った。
「まあ、良かった」老婦人が安心したように笑った。
老婦人の孫が、紐をぶらさげて迷子になったチロルを家に連れて帰った。それを見た老婦人が、きっと飼い主は探しているのに違いないと思い、公園に飼い主を探しに来たのだと言った。
俺は深々と頭を下げ、老婦人と孫にお礼を言った。携帯で愛奈にさっそく連絡をすると、チロルを抱きかかえて駐車場に向かった。
車の前で、顔をくしゃくしゃにした愛奈が立っていた。
「大丈夫、元気ですよ」と俺は言うと、愛奈にチロルを渡した。
「良かった。本当に良かった」
愛奈は嬉しそうに、チロルを抱きしめている。
これくらい人間様も大事にしてほしいと、俺は内心思った。
「帰りましょう」と俺が言ったときだった。愛奈が車にチロルを入れると、俺に向かって言った。
「優、ちょっと待っていて」
「あ…… はい」まだ、なにか用があるのか。
車の運転手席で待っていると、愛奈が白い袋を持ってきた。
愛奈は助手席の扉を開け、俺の隣に座った。ちょっとどっきりした。こんなこと、初めてだからだ。
「これ食べよう」
愛奈は、袋から二つのカップめんを取り出した。
「コンビニで買ってきたの。赤いきつねと緑のたぬき、どっちがいい」愛奈が笑みを浮かべて言った。
俺はこのとき、愛奈が綺麗であることに気がついた。
「うーん、それじゃ、たぬきだ」
二人は並んで、カップめんを食べた。
「腹がへっていたから、うまい」思わず俺は言った。
愛奈は手を止めると、俺を見つめた。
「優、初めて会ったとき、覚えている?」
「それは…… 愛奈さんのお宅でしたよ」
愛奈が不思議な眼差しを向けた。
「違う。三年前に会っている」
三年前、そんなことあるはずがない。
愛奈の目が潤んだ。
「私がお父さんと喧嘩して、泣きながら家を飛び出していったときのことだった。雪が降っていて、傘もささず、ぬれてコンビニに飛び込んだ」
「コンビニに…… ?」
「そのときの店員さんが、私にカップめんをサービスしてくれた」
俺はあっと思った。
俺は大学生のとき、コンビニでアルバイトをしていた。そのコンビニにはときどき、訳ありの客が来る。いじめにあった子供とか、親とうまくいかない子、失恋した人なんかだ。そのときの雰囲気で俺にはわかった。だから、俺はささやかな親切のつもりで、俺のポケットマネーで他の客にはわからないように、カップめんをサービスしていたんだ。
俺の自己満足だったかもしれないが、そのとき、みんな嬉しそうな顔を一瞬見せてくれるのだ。
「あのときの客だったんだ」
愛奈はうなずいた。三年前なら、彼女は高校生だ。今の愛奈なら一度会えば忘れないけれど、高校生だったから記憶に残らなかったんだ。
「あれから、カップめんが好きになった」
「どうして俺だと、気がついたんですか?」
「私は忘れなかった。あの日のこと。父と三度目の
そんなことが、愛奈にはあったのか。
「だから…… 優を、訪ねた父の会社で偶然見かけたとき、すごく嬉しかったの」
「それで、俺をお世話役にしたんですね」
「そうなの。本当はお礼を言いたくて…… 元気を出して、きっといいことが生きているうちに、ありますよって、優が言ってくれた。それで思いとどまった」
俺はしんみりした。
だが、これまでのことは恩を仇で返されたような気がしないでもない……けれど
「そうですか。それを聞いて、俺も嬉しいです」俺はなんかいい気分になってきた。
「優はアメリカに行くのね」
「そのつもりです」荒川部長との約束は守ってもらうぞ。
愛奈は明るい笑顔になった。
「私もアメリカに行こうかな」
「えっ」俺は一瞬絶句した。
アメリカでも、俺をこき使うつもりかよ。
了
お嬢様のお好きなもの 槇野文香 @jyurak2571a
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