お嬢様のお好きなもの

槇野文香

第1話 なんでなの

 突然のことだった。

 入社一年そこそこの俺に、荒川人事部長から呼び出しが来た。入社後わずかの俺に、人事だとしたら早すぎる。


 俺、木本優きもとゆうは藤岡ホールディングスの営業マンとして入社した。大学で経営学を学び、なんとか一流企業の藤岡ホールディングスに入社した。今はやっと研修期間を終え、駆け出しの営業マンになったばかりだ。


「なんでしょうか」と俺は荒川部長に訊いた。

  荒川部長は言いにくそうだった。

「実はね。木本君、大事な仕事を君にまかせたい」

 俺は一瞬、驚いた。

「本当ですか」

 荒川部長は真顔になった。

「藤岡CEOからのお話だ」

「まさか…… どんな仕事ですか」藤岡CEOなんて、入社式の檀上で挨拶しているのを見ただけだ。雲の上の人ではないか。

 荒川部長は急に厳粛な顔になった。

「木本君、君にお嬢様のお世話役になってもらいたい」

 空気が凍り付いた。なんのことか理解できない。


「それってどういうことですか…」

 荒川部長は横を向いて咳をした。

「藤岡CEOには愛奈あいなというお嬢様がいるんだが、その方のお世話役として、君に白羽の矢がたった」

「なんですか。それ…… 俺は営業マンとしてこの会社に入ったんです。ふざけないでください」だんだん、俺は腹がたってきた。


「木本君、これは決して悪い話ではない。二年間この仕事をしたら、君をアメリカ支社に配属させるつもりだ。国際営業部門で活躍してほしい」

「アメリカ……」俺の夢だ。いずれは国際的ビジネスマンになるのが、子供のころからの夢だった。

「そうだよ。君にとっては、いい話なんだよ」

 俺は考えこんだ。


「藤岡CEOからの話なんだよ。これを断ったら、あとのことは知らないからね」

 荒川部長は今度は恐い顔になった。俺は内心ぞくっとした。

 首にでもするぞと脅しているのか。

「わかりました。その仕事やらせていただきます」結局俺は引き受けることになった。

 そもそもなんで俺に白羽の矢が立ったのかわからない。だがこの話、断るにはかなりの勇気がいる。


               *


 俺は藤岡CEOの個人会社に出向という形式をとり、愛奈のお世話役になることになった。こんなこと、とてもじゃないが田舎にいる両親には話せない。一流企業の営業マンになったと喜んでいるのに……


 その藤岡愛奈は二十歳になる。お嬢様学校の大学に在籍していたそうだが、中退してしまったそうだ。現在はなんにもしていない。ふらふらと遊んでいるらしい。

 そんな彼女のお世話役とは馬鹿げている。藤岡CEOは娘に甘すぎる。



 初めての出勤日、俺は藤岡家の格調高い応接間に荒川部長とともに通されると、愛奈がひとりドアを開けて入ってきた。しゃなりしゃなりと気取っている。

 スレンダーなボディには、カールがかった黒髪を肩にたらしている。目はぱっちりとしているが、鼻はつんとしているのが気に入らない。


「木本優です。宜しくお願いします」と俺は丁寧に挨拶をした。

「わかったわ。優、宜しくね」と愛奈は言った。

 俺はそれから優と呼び捨てにされることになった。


 愛奈は人使いが荒かった。携帯にはじゃかすかメールは送ってくるわ、電話も時間なんておかまいなしにかかってくる。主たる業務は要するに、ガードマン兼運転手だ。二十歳はたちの分際で、高級ドイツ車に運転手付きときている。これじゃあ働く気にもならないだろう。他人事たにんごとだが、愛奈の将来が心配だ。ただの遊び人になるだけだろう。


 一ヶ月たって、荒川部長からどうだと電話がかかってきた。

「愛奈さんは、とんでもない人ですよ」と俺はうっぷんをはらすように、悪口を言いたてた。

「まあまあ」荒川部長は仕方なく俺をなだめた。

 ついでにいろいろ話をしているうちに、荒川部長はうっかり口をすべらせた。実はお世話役の仕事についたのは、俺で三人目。先の二人はすぐに逃げ出してしまったそうだ。そんな仕事を俺に押し付けるとは、いったいどういう了見なんだ。

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