鰐のやり口

尾八原ジュージ

鰐のやり口

 ある日仕事から帰ると、一人暮らしのアパートに妹がいた。正確に言えば、妹を名乗る鰐がいた。鰐というか、人間の体に鰐の頭がくっついた、人間とも鰐とも言い難いなにかだった。

「おかえり! お姉ちゃん」

 鰐はリビングのテーブルの脇からぱっと立ち上がり、軽い足取りで私の方にやってきた。私は靴を脱ぎかけたまま固まっていた。

「お仕事お疲れ様。寒かったでしょ。シチュー作ってあるよ。お風呂も洗ってあるから、先に入る?」

「え? あんたなに? 誰?」

 ようやく頭が状況に追いつきかけたときには、目の前に鰐の顔がある。灰色の硬そうな鱗、大きな口の中にずらりと並んだ白い牙。動物園で見れば愛嬌を感じるはずの顔が今は不気味でしかない。ついでに言うなら私には確かに二つ下の妹がいるが、こんな爬虫類面ではない。

「わたし? 何言ってんの、ひな子だよ。妹のこと忘れちゃったの?」

「ひな子? あんたが?」

「お姉ちゃんこそ、今日はどうしちゃったの?」

 鰐は若い女の声でそう言って、鰐の顔でにっこり笑う。私は鰐の笑顔というものを人生で初めて見た。ひな子の笑顔に似ているだろうか、と考えたけれど、そもそも彼女の嘲笑でない笑顔をあまり見たことがないと気づいた。

 部屋の中はなんとなくすっきりしていて空気が清々しい。どうやら掃除機をかけて、換気もしてくれたらしい。そこにクリームシチューのいい匂いが漂っている。

 私はとりあえず靴を脱いだ。逃げ出すわけにはいかなかった。ここは私が家賃を払っている私の部屋なのだから、鰐などに乗っ取られるわけにはいかない。もしも私が逃げ出したら、鰐はあとで部屋を荒らすかもしれない。仲間を呼んで巣作りしたり、卵を産んだりなぞするかもしれない。想像すると頭がカッと熱くなり、自分の中で怒りが恐怖を凌駕したことを私は悟った。

「ご飯食べる」

 決然と告げると、ひな子を名乗る鰐は「はーい」と嬉しそうに返事をして、新妻のようにいそいそと準備に取り掛かった。

 こうなったら寛いでやると決めて部屋着に着替えながら、ちらちらと鰐の方を見た。体格はひな子に似ていた。着ているものの趣味もまぁ、ひな子っぽくはあると思う。ただ頭が鰐なのはもちろん変だし、第一ひな子はあんなふうに私に優しくない。着替えを終えた私は、鰐の背中を見ながら実家に電話をかけた。

「もしもし、母さん?」

『あら、さわ子。ひさしぶりじゃない』

「ひな子、いる?」

『? いるけど珍しいわね。変わる?』

「ん。いや、いいの。普段どおり?」

『別に普段どおりよぉ。あっ、ひな子下りてきた。ねぇー。ちょっと』

 母がひな子を呼んでいる様子なので、私は電話を切った。この期に及んでまだ彼女と直接話したくはないのだった。ひな子だって同じ気持ちに違いない。

 私たち姉妹は絶望的にそりがあわない。ひな子はたぶん、私のことを憎んですらいるだろう。

「おまたせ~」

 鰐が二人分の夕食をテーブルに並べ終えて、私に声をかける。

「冷蔵庫に賞味期限やばげな鶏肉があったから、勝手に使っちゃった。ごめんね」

 鰐はシチューをすくったスプーンを器用にふうふうと吹き、ほくほくした顔で鶏肉を食べる。私も口にシチューを運んだ。はっきり言って美味しかった。


 翌朝になっても鰐は部屋にいた。

「そもそも何でうちに来たの?」

「へへへー。お姉ちゃんに会いたくなったんだもん」

 とおどけて言うところなどは、全然まったく人間のひな子と似ていない。それでも注意して見ていると、端々に妹の面影があるので私は混乱し、そして困惑する。たとえば話しながら頬を掻く癖だとか、歩き方だとか、十何年もひとつ屋根の下で暮らした相手なら、いくら嫌いでも覚えている。

 声もよく似ている。「今日は土曜日だね」というとき「ね」で空気が抜けるところ、欠伸のときに出る「はっ」という音、好きじゃないだけにかえってよく覚えている。鰐の大きな口から出てくるそれらは、人間のひな子のものよりもいくらか愛らしく、正直結構好ましい。

「お休みなら、どっか外でランチしない?」

「は? その頭で?」

「え? なんか髪型おかしいかな」

 いやあんた鰐じゃん、髪ないし……と言いかけて私はふと口を噤む。頭の中で何かが私を嗜めるのだ。そんなことを指摘するなんてひどく無作法だよ、という何者かの咎めるような声。その正体はわからないながら、私はそれに従うことにする。もしもマナー違反をして、鰐を怒らせたら大変だ。あの牙の並んだ大きな口でガツンと噛まれるかもしれない。今更のように私は命が惜しくなった。

 身支度をして、私は鰐と外に出た。道行く人はこの鰐を見てどうするだろう……と心配したものの、何か言われたり、通報されたりすることはなかった。ただ、ぎょっとしたようにこちらを見る人も少なくないので、やっぱり鰐は鰐であるらしかった。皆私と同じように、指摘するのはよくないことだと思っているし、鰐のことが恐いのだろう。

 可愛らしいカフェを見つけて入り、私はロールキャベツを、鰐はチキンソテーを注文した。店員が「辛めの味付けなのですが、よろしいですか?」とためらいがちに確認し、鰐は「大丈夫です」と澄まして答える。

「お姉ちゃんにはお世話になってるから、今日はわたしのおごりね」

 そう言ってバッグから出したお財布にはちゃんとお金が入っているし、私は何がなんだかわからなくなって、(まぁいいや、鰐にも社会生活があってどこかからお金を得ているんだろう)と思うことにした。

「そうだ。あんた、仕事はどうなの?」

「ん? まぁぼちぼち」

 誤魔化されてしまった。でも曖昧に答えるその顔が何となく悲しそうに見えて、私は「あ、そう」と応えるだけにしておいた。鰐にも色々あるんだろうなと思いながら店を出て歩き、通りがかったセレクトショップの店先を冷やかす。私がカナリアイエローのセーターを勧めると、鰐は姿見の前で何度もそれを体に当て、散々迷った挙げ句、「今月これ買うと厳しくなっちゃうからな〜」と言って買わずに帰った。鏡の前でちょこちょこ動く鰐を見るのは、なかなか愉快で新鮮だった。

 帰り道、歩く鰐の鼻先にふと雀が止まった。ぎょっとして立ち止まると、雀はすぐに飛び立った。鳥に止まられるなんてあまりにも鰐っぽい絵面すぎる、と恐る恐る見ると、鰐はくすぐったそうに笑っていた。途端に張りつめていた糸がぷつんと切れたような気がした。


 その日の夜、本当にひさしぶりにひな子から電話があった。もちろん、人間の方だ。

『何で昨日母さんに電話したの?』

 やっぱり鰐の声にそっくりだなと思いながら、私は「別に」と答えた。鰐は鼻歌を歌いながら夕食の支度をしている。

『うそ。何もなくないでしょ。鰐でしょ、鰐。最近増えてるんだってよ、鰐が』

「ちょっと、変なこと言わないでよ」

 こんな話、鰐に聞かれたら何と思われるかわからない。にも関わらずひな子が「鰐が鰐が」と繰り返すものだから、私は電話を切ろうとした。

『待ってよ、今度そっち行くから。鰐があたしを騙るなんて許せない。絶対逃さないでよ、鰐』

「ちょっと、鰐ワニ言わないでよ!」

 思わず声を荒らげてしまった。私は慌てて電話を切った。いつの間にか鼻歌は止んでおり、鰐がこちらを見つめていた。長い口の先が震えている。

 私は彼女に近寄り、どうしたらいいのかわからないままに「どうしたの」と声をかけた。鰐は口を噤んで俯いている。

「大丈夫。あんたを追い出したりなんかしないよ」

 もう夜だしね、と私は窓の方を見た。鰐が鳥目かどうかは知らないけど、こんな時間に追い出されたらきっと困るだろう。そんな酷いことはしたくない。

 鰐は震える声で「さっきの電話、何だったの?」と尋ねた。

「何でもない。私の嫌いな人だった」

 嘘ではなかった。ひな子のことはずっとずっと嫌いだ。ひな子、いつから私のことを馬鹿にするようになったんだっけ。私のものなら何でも勝手に盗っていいと思うようになったのはどうしてなんだろう。

「本当に何でもないの。ね、ひな子、ご飯食べよう」

 そのとき私は初めて鰐にひな子と呼びかけた。ひな子はすべすべした人間の手で私の手をきゅっと握り、「うん」と頷いた。


 数日が平和に過ぎた。休日の早朝、インターホンがけたたましく鳴った。

 窓の外を見ると表は薄暗く、空はまだ濃い青色だ。覗き窓をのぞくと、人間のひな子が立っていた。

 鰐のひな子は、床に敷いた布団の中でまだすやすやと眠っている。そんなことにはお構いなしに、インターホンは何度も鳴らされた。

 私は観念してドアを開けることにした。いずれこういうときがくると思ったのだ、とため息をつきながら。

「鰐は?」

 挨拶もせず、妹は中に入ろうとする。私はそれを押し留めながら「静かにして」と小声で言った。そんな言葉はまるで聞こえなかったみたいに、妹は「鰐がいるんでしょ? どこなの?」と無遠慮に辺りを見渡す。

「やめてよ、勝手に入らないで!」

 思わず大きな声を出してしまい、私は口を押さえた。遅かった。パジャマを着た鰐のひな子が、部屋の入り口に立っていた。

「ほらいたじゃない! こいつがあたしのふりをしてるんでしょ?」

 人間のひな子は無遠慮に鰐が鰐がと繰り返す。目を釣り上げ、口から唾を飛ばして恥も外聞もない。パジャマを着たひな子の肩が震えているのを見て、私は突然酷い悲しみを覚えた。それと同時に怒りが燃え上がった。

「うるさい! 鰐だから何なの!?」

 私は叫んだ。

 そのとき鰐のひな子が大きな口をがぱっと開け、人間のひな子の首を飲み込んだ。ギロチンの刃が落ちるように口が閉じた。

 頭を失った人間のひな子が、首から噴水のように血を吹き上げる。どちゃっと音を立てながら胴体が倒れ、フローリングの床にみるみるうちに赤い液体が広がっていく。

 これにはさすがの私も啞然としてしまった。鰐じゃん。あまりに鰐のやり口じゃん。気がつくと膝が震えていた。

 鰐のひな子は両手で目を塞ぎ、口元から血をぽたぽた垂らしながら「だって、だって」と繰り返している。と、見る間に指の間から涙がぼろぼろと溢れ、ひな子は大口を開けて泣き出した。私は恐怖を忘れ、慌てて慰めに向かった。妹が泣いているのだから、私が慰めなければならない。

「よしよし、大丈夫」

「ごめんなさいお姉ちゃん。だって、だって酷いんだもの、このひと」

「ほんとね。ひな子が悪いんじゃないよね。落ち着いたらふたりで片付けしよう」

 ひな子は嗚咽しながら頷いた。

 ふたりで死体をお風呂に運んで、床を一所懸命拭いた。掃除をしながら私がちらっと顔をあげると、ひな子もこちらを見ていた。不思議と愉快な気持ちがこみ上げてきた。私たちは自然と笑いあった。

 もはや鰐かどうかなんてどうでもいい。妹のひな子がいれば、私はそれでよかった。

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