ユークトバニアの英雄

@TheYellowCrayon

第1話 特殊な作戦 (Nov. 4th, 2010)

2010年11月4日午後7時00分

大西洋上空


月が明るい。酸素マスクを口元から外して顔を上に向けると、紺色の空の中心で月が白く光り、キャノピーに刻まれた細かい傷をきらきらと輝かせていた。月は左側がわずかに欠けていた。


母艦を発ってから丁度2時間。現在時、1900。次の空中給油まであと1時間。


「ユーリ、休んでいいぞ。」


レーダー員のバリシェフ海軍中尉は、そう囁いた。


「、、、はい。」


「もうオートパイロットでいいんだ。休める時に休んでおけ。」


バリシェフ中尉が後部座席から放った言葉に後押しされ、操縦桿を握る力を緩めた。緊張に囚われ、体の力を抜けずにいた矢先に舞い込んできた思いやりだった。


「ずっと低空を蛇行してきたんだ。」


それに加えるなら、ここが敵国領空であることが何よりの不安要因だ。


「ありがとうございます、中尉殿。」


操縦桿から手をゆっくりと離し、正面のHUDに絞っていた視線を外へと向けた。


漆黒で平坦なオーシアの海が果てしなく続く。空母艦載機のパイロットに赴任してからはもう見慣れた光景だが、はるか彼方まで続く海の水平線を視界の端から端まで収めようとした時、水平線がかすかに湾曲して見える。それは目の錯覚とも地球の丸みを捉えているとも言い切れない微妙な感覚だった。ただ自分の直感では、それはある種の歪みに見えたのだった。この膨大な水がそのさらに下の奥深くにあるとてつもない力によって引っ張られて、あんな線の歪みを形成しているように見えるのだった。今にも空に溢れ出して暴れそうな巨大な塊は長年、地面の高さまで押し込まれ続けて、それが本来の姿であるように波を立てて振る舞っている。


時速300kmを保ち海上低空を航行するF-14Bからは、そんな波が右も左も変わらず続いていた。その大きさが実感に変わる瞬間、何か一つの途方もない欲を抱えたものに見えるのだった。海はただ、この形しか知らないからこの形を保っているに過ぎない様に見えて、恐怖さえ感じた。


「ユーリ、エマージェンシーだ。」


「は、中尉」


「腹の様子が怪しい。」


振りが来た。


「それはエマーですね。」


「ユーリは、ウンコ大丈夫か?」


「現在異常なし。サー笑」


「マジかよ。おれは腹が痛くなってきたぞ。ちょっとクソ飛ばすから窓開けて。」


「中尉ごと飛んじゃいますよ笑

空港のトイレまでの辛抱ですね。」


「あと何時間だよ!クソ。これ以上迂回させられたらキツいぜ。」


そうだ。オーシアのレーダー網をかい括るために、編隊は当初の航行予定コースを大きく迂回していた。編隊がこれ以上の迂回航路を選択しなければ、あと約2時間で目標上空だ。目標はアピート国際空港。敵国オーシア連邦の民間空港施設。作戦目標はその周辺上空の制空権確保と空港施設に展開する地上部隊の支援。その突飛な作戦をブリーフィングで把握してから今まで何度もイメージアップを繰り返していた。


「なあ、ユーリ

おれにはさ、」


「はい。」


「この真っ黒な空に、赤い雲が見えるよ。」


「赤いクモですか?」


「ああ、

逆円錐形の雲だ。海面から成層圏までの高さがある。それが海上に無数に並んで重なり合って、巨大なレーダー網を作ってる。抜け目があるのは200m以下の低空だけ。肉眼ではなんにも見えねえだだっ広い空間だが、俺たちが一度突っ込めば火だるまにされちまうような雲海を、俺たちはギリギリで避け続けてんだ。実感わかねえよ。」


それは確かにそうだが。

中尉と自分とでは見えていたものは違ったようだ。


「その赤色に我々が飛び込んだら、もう終わりですからね。ここは透明な渓谷みたいなもんです。でも今更ですが、案外あっさり潜入できるもんなんですね。」


「当局からの情報提供があってこそだろう。こんな作戦が実行できるのも、よっぽど情報に自信があったんだろうな。」


「世界の警察オーシアの空を破れるなんて、よっぽど有能なスパイなんでしょうね。」


中尉のトークに便乗して会話を繋げた。


だが冷静に考えれば考えるほど、違和感は否めなかった。

防空網に穴があること自体は別に違和感ではない。おそらく我が国の防空網にも抜けはあり、それはオーシア以上に多いのかも知れない。だからこそ、その抜け穴を我々が正確に把握できていること自体が不思議だったのだ。


機体の速度計は320、高度計は静かに100を保っている。時折99や101にブレながらも、設定した高度で機は前進を続ける。


「このまま進行すれば、本当に敵地に着いてしまいますね。」


今更言うことでは無いようなすっとぼけをあえて中尉に振った。何が言いたいんだ?とでも返されそうだと思ったが、彼は


「そうだな、、敵地に着く。」


と言葉を重ねて返してきた。重く息を吐くようなその声に、数時間後の未来を重ねていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ユークトバニアの英雄 @TheYellowCrayon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ