沈黙
それからというもの、きつねは、お社に爽香が来てからお話するようになりました。じつは、その周りにはきつねのお友達の九十九たちもいたのですが、精霊とはいえ霊験微弱なので、爽香には見えなかったのです。
それでも、百日紅のお社に奉納されいるのはかつてから使われてきた文具たち。九十九もまた文具の精霊なので、ボールペンを大切に扱う爽香に癒されていたのでした。
「そんなに毎日、絵を描いていて楽しいか?ずっと見てきた景色だろう?」
「楽しいよ。ずっと見てきた景色だけど、私にしか見えていなかった景色だから」
「そんなものかねぇ…」
他愛もない会話ですが、他者と話すというだけでこんなに楽しく感じるものなのか、ときつねは嬉しく思っていました。そして、いつも気分が沈んでしまうのです。
「いままでは、村や田畑の実りを見守る日々だった。でも爽香がここに来て、話すようになってからは鮮やかに世界が塗り替えられていってる気がする」
「きつねさんは神様なの?」
「そんな大したものじゃないよ。ただの長生きなきつねなだけさね。人間の心臓を食べたりもしない」
「そっか」
爽香はさらさらと笑った。
「私ね」
ふと風が病んだ。
「この当たり前の季節も、この当たり前の風景も。どれも私がここにいたんだっていうことの証明みたいに思えるんだ」
きつねは爽香を地べたから見上げた。スケッチブックにさっさとペンを走らせるいつもの爽香の顔があった。
「写真も風景を切り取るものだけどさ。あるものをそのまま切り取るんじゃなくってさ。筆やペンって、現実のものをみて、自分が生み出した自分だけの世界の産物だよね」
そう思う。ありふれた時間も季節も。いつもあるように見えて、その実、絶え間なく流れている。そして流れた時間はもう二度と戻ってこない。
なのに、人間たちはそんなことを気に掛ける余裕がなく、日々の生活を送るのに精いっぱいだ。だからこそ、人間より時間の余裕がある私は豊穣をみまもり、手を貸した。でも、それよりも。有限の時間をもっと精一杯生きてほしいけどな。
「私だけが感じたこと、私だけが考えたこと。それは紛れもなく、私がこの時代、ここで生きてたって証拠だよね」
なるほど。心の機微を含めた頭の中に形を与えてやれるのは、紙と筆だけだわな。
きつねは妙に感心しました。そして言いたくなった言葉をぐっと飲みこんだのでした。
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