時の道標
穏やかな風が境内を抜けていきました。
爽香はきょうも境内で、ペンを片手にスケッチブックと向かい合っていました。きょうは油揚げではなく、一房のぶどうがありました。
ほのかな酸味のあるにおいを嗅ぎ、きつねは百日紅の枝の上でまどろんでいました。
やがて境内が朱色に染まるころ、不意に爽香の背中で声がしました。
「うまいな。大したものだ」
境内には誰もいないと思っていた爽香は驚いて振り返りました。ところがそこには、前の足をなめて毛づくろっているきつねしかいません。
「はっきり声が聞こえたんだけどな…。神社だし怖いな」
爽香はペンとスケッチブックをしまい、足早に立ち去ろうとしました。
「何、この敷地内に変なものはいない。恐れることなどないよ」
「え?きつねさん?え?なんで?喋れるの」
爽香は腰を抜かしそうになり、その場にへたり込んでしまいました。
「そう恐れおののくこともなかろう。これまでいろんなお供えものくれただろう。私の姿が見える人間なんて珍しくて、話してみたくなったまで」
つとめてきつねは柔らかな声で言いました。霊験が増してしまったため、気を配らなければ人間は声だけで圧を感じてしまうからでした。
「単なる長く生きたきつねなだけ。とりついたり、何かを奪ったり、傷つけたりもせぬよ。今さら…」
「そっか、そうなんだね。わかった。ちょっと、、動揺はしているけれど」
「そんなことより。いままで絵描きのものを何人もみてきたけど、君は本当にうまいね。名はなんという?」
「
「そうか、爽香か。私に名前は特にない。きつねで昔からこの集落に住んでいる。いままで見てきたが、絵もうまいし、君は不思議な生き方だね」
「ごめんなさい!邪魔なら、ここにはもう来ません」
「いやいや、そんなことはないよ。もしかして狐の姿が怖いのかな。人の姿もとれるし、そうしよう」
きつねは昔からちゃめっけのある逸話が数多く残っています。そしてこのきつねも例外ではありませんでした。少しからかってやろうと思ったのかもしれません。
きつねがしっぽを揺らすと、みるみるきつねは少女の姿に変わっていきました。
「どうだ?これで少しは話しやすくなったであろう」
にやにやしながらきつねは爽香に言いました。
「いや、それ私じゃん!話しやすいっていうかちょっと気持ち悪いよ!」
爽香は思わず吹き出してしまいました。
「あ、でも髪の毛は真っ青なんだねぇ、きつねさん」
「纏ってる燐火も青いからな。そこまでは変えられなかったけど、少しでも話しやすくなればよいだろ」
「ううん、もう大丈夫だから元の姿に戻って。自分と向かい合うなんて逆に落ち着かないよ」
「そんなものなのか?まぁ取って食ったりもせぬよ。ここにいつもいるから、また来るといい」
「来るけど、私の姿はやめて!」
けらけら笑いながらきつねはもとの姿に戻りました。
あたりはすっかり夕闇に包まれていました。
「ここらへんは人間が怯えるようなものはいないから、安心して帰るといい」
「ありがとう。あしたもまた、じゃなかったこれからもお邪魔します」
爽香は頭を下げて境内を後にしました。
きつねはその後ろ姿を、さみしそうに見守っていました。
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