風と愛嬌

 境内は、子供たちの遊び場にもなっていました。楽しそうに遊ぶ姿を、きつねはいつも寝転がって、見守っていました。


 その中に爽香はいました。天真爛漫な笑顔、長い漆黒で艶のある髪、溌溂な声。きつねは「愛嬌の塊みたいな子だな」と思いました。

 きつねの姿は、人間たちには見えません。境内にはいろんな人が集まるようになっていました。1年に1回はお祭りも開かれます。


 九十九つくもとなった筆や紙ときつねは戯れて過ごしていました。一時期は筆などが収められていましたが、いまでは鉛筆などが学業成就の祈願として納められるようになっていました。


「まだこの新しい文具たちが精霊になるには、時間がかかるな」


 新しい遊び相手ができることは嬉しく、待ち遠しい。早く遊べるようにならないかな、ときつねは思いました。楽しそうに遊ぶ子どもたちを見ていたからです。


 村の子どもたちは、境内を遊び場にし、学業の成就を願い、そして大人になると感謝の気持ちや、豊穣と村の発展を願って、足しげく神社に通うようになっていました。


 ところで、この神社に植えられた一本の百日紅さるすべりの木が、きつねは大のお気に入りでした。

 筆や紙などの文具が収められ、長い歳月を経ていまでは学業成就や豊穣を祈願される神社。そこに「すべる」というのは、あまり縁起がよくないとも言われます。


 事実、九十九つくもの文具の精霊たちは、せっせとこの木を登って遊ぶのですが、枝も幹もつるつる。よじ登ってよじ登って、ようやく花にたどり着こうかというとき。みなすってんころりんと転がり落ちてしまうのでした。


 その様子が大変おかしく、きつねはその様子をみて笑い転げていました。登った九十九たちもまた、落ちた後には面白くって笑ってしまうのです。実は、九十九たちが思いと業を背負って、ここで滑るからこそ。祈願した人たちは、滑らずに済むことができていたのでした。


 きつねもまた、九十九の様子をみて木に登ろうとします。勢いよく飛び乗ったものの、つるつるの幹と枝であっという間にひっくり返ってしまい、それから笑い転げました。


 神社には、きつねや九十九、子供、村人たち。いろんな人の笑顔で満ち足りた空間だったのです。


 その顔ぶれは、時代とともに移ろいゆきます。爽香さわかたちの子供の世代も、小学校高学年となり、めっきり神社で遊ぶ機会が少なくなりました。新しい子供たちの遊び場になっているのです。


 きつねはその子供たちを九十九と見守りながらも、「あの愛嬌で輝いた笑顔はもう見れないのかな…」と心の隅で思っていました。


 久しぶりに爽香の姿をきつねがみたのは、爽香が歳のころ16になった初夏のことでした。大人の洗練された女性の一端を彷彿とさせる姿になった爽香。きつねは驚きました。あの長くて、艶がのった黒髪は、いまはばっさり短く切られていたのです。それでも、品に満ちたような黒々とした髪が、夏の風に乗って優しく揺られます。



 爽香は一人でした。遊びに来たわけでもないようで、お社の賽銭箱の横に座り、ぼーっと朱に染まる夕空を見上げていました。そして間もなく、お社を後にして帰っていきました。


 それから、爽香はほとんど毎日、お社を一人で訪れるようになりました。空を眺め、何かの思いにふけり、帰っていく。爽香が来てくれたことをきつねは嬉しく思いましたが、悲しくもなりました。ただただ、そっと見守っていたのです。


 やがて、爽香はスケッチブックとボールペンを持ってくるようになり、せっせと神社の中を描き始めました。それは、お社であったり、狐の像であったり、そこから見渡せる村の風景であったり。一枚、またい一枚とボールペンで描かれた風景画は増えていきました。


 きつねは何も言えず、ただただ百日紅の木の上から、爽香の様子を見守っていました。


 「きつね・・・さん?」


 あどけない顔の爽香が、百日紅の上で眠っていたきつねを見上げていました。

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