少女と狐

 やがて時が過ぎ、きつねの尻尾は3本になっていました。


 村人たちの顔ぶれもすっかり変わりましたが、きつねにとってはどの村人も見知った顔でした。


 孤独で寂しかったときもありましたが、少しだけ変わったこともあります。友だちができたのです。それは奉納されていた筆、紙たちなど文房具でした。


 御伽草子系の絵巻物『付喪神絵巻』に見られるよう、きつねやタヌキだけでなく、草木、道具でさえも長い年月を経ることで霊性を獲得し、自ら変化する能力を得ることができます。


 ただし、このお社では少し事情が違いました。文具たちはぞんざいに扱われて捨てられたのではなく、そのどれもがみなが感謝して奉納していったものたちです。


 いくばくかのときが過ぎ、もはや農業についてきつねが手紙を書く機会はほとんどないままでした。しかし口伝によりこの村には豊穣を司るきつねを祭り、やがては霊験あらたかということで評判となり、学問の向上を願って人々は使った文具を奉納するようになっていたのです。


 そんな文具たちも、古いものは霊性を獲得し、夜な夜な遊びまわるようになっていましたが、人に害悪を加えることはありませんでした。


 ところで、霊性を獲得していたのはきつねも例に漏れません。100歳になると尻尾が2本になり、200歳になるとその真っ白な尾は3本になっていました。纏った青い燐火を体で一振りすれば、人の姿をとることができましたが、人に化ける必要もなく、使うこともないまま術を忘れてしまいそうなくらいでした。


 別に必要ないからいいや。


 そう、きつねは思っていました。お社を守り、夜は九十九のお化けと戯れ、お供えものを頂いて村を守る。人としての姿を借りなければできないことは、ほとんどなかったのです。


 村人たちは日中、お供え物や奉納する文具を持ってきて

「なむなむ」

と手を合わせて言います。きつねは


「柏手じゃないと、ご主人は怒っちゃいそうだけどな。でも僕はどちらでもないからいいんだけど」



 と思っていました。神道も仏教も溶け混ざり、教義はあいまいなものになっていましたが、村人たちは神道を信じていたわけでも仏教を信じていたわけでもなかったのです。ただ、昔から田畑とその農業を支えてくれた善狐に感謝していたのでした。そしてきつねもそれをわかっていたからこそ、お社で寝そべったり、九十九と遊んでいるときでも、村を見守ってきたのでした。



 きつねは、人の姿になることはほとんどありませんでしたが、それでも自分の姿で村人たちを驚かせては忍びないと、常に人から姿が見えないようにしていました。


 これも霊性から得たものでした。巷ではときおり、いたちがこの術を使っていたずらをしていたりします。姿を消し、持った鎌で風にのって、さっと皮膚を切ってしまうのです。そんな恐ろしいことを!なんて思うかもしれませんが、すぐにつがいのイタチが薬を塗ってくれるため、スパッと切れても血がでることもありません。これは「鎌いたち」なんて言われています。



 きつねも同じで、他人からは見えないようにしていました。九十九たちもまた、人に見られないよう姿を消して、夜な夜なきつねと戯れるのでした。





 爽香さわかと出会ったのは、そんな巡る日々の中。とある初夏のことでした。

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