第53語 中臣鎌足

生没年:614〜669 鎌子 藤原鎌足 仲郎

中臣御食子の子

中臣真人(定恵)・藤原不比等の父


 7世紀初頭 大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)あるいは大和国大原(奈良県明日香村)で誕生したと伝えられている(614年?)。平安時代に成立した歴史書(『大鏡』)には 遠く常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とするものもある。

 父は 中臣氏第一門の祖 中臣御食子みけこ。中臣氏は、鎌足の父の代から三門に分かれていた。

 鎌足は 御食子の長男として 初め"鎌子"という名で正史に登場するが、その名は 物部尾輿おこしとともに排仏を行った中臣鎌子と同名。字を"仲郎"といい、兄弟関係や母については 不明な点が多かった。

 藤原氏の祖であるにも関わらず、鎌足の前半生は詳しくは分からないが、若い時分 遣隋使帰りの学問僧に儒学を学んだとされている。また、中国の兵法書『六韜りくとう』を暗唱するほど読み込んでいたとも伝わっていた。

 鎌足が活躍したと考えられる期間は、7世紀半ばから彼が亡くなるまでの間(第35代 皇極女帝の末期〜第38代 天智天皇の後期)だが、第37代 斉明女帝期には 鎌足は ほとんど歴史の表舞台に登場せず、鳴りを潜めていた。この時期は ちょうど朝鮮半島情勢が悪化の一途を辿った頃であるが、鎌足はこれと深く関わっていて、活動していたのではないかとの見解も存在していた。

 鎌足は その後、第38代 天智天皇の時代に亡くなっているが(669年)、死に際して 天皇に「生きては軍国に務無し」と述べたと記されている。にもかかわらず、当時の最高冠位であった"大織冠"を授けられ、また"藤原"の姓を賜った。

 ちなみに、織冠を授かったのは 私の知る限り、鎌足と百済王子 余豊璋よほうしょうの2人のみであり、ついでに言えば、この時代 姓を賜るということは 元いた氏族からの独立の意味合いを有していた。

 鎌足の墓は、大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある阿武山古墳だと一説には考えられているが、その古墳からは 織冠とみられる冠が発見。そして、被葬者は 腰椎等を骨折していたことも X線写真の分析で分かっている。鎌足は その死の少し前に落馬しており、死の直前には 藤原氏の館に雷が落ちた記録も存在していた(姓を賜る前)。


 中臣鎌足を百済王子 余豊璋に擬する見解が存在している。

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