海を盗んだ男

 最初に気付いたのは、入院明けの港湾労働者だった。

 彼はコンテナ船の荷物をクレーンで積み下ろしていたが、船の喫水線がやけに深いことに違和感を覚えた。コンテナの中身はいつも通りのはずなので、コンテナひとつの重さもそうは変わらないはずである。

 積んでいるコンテナの数に対して船が重すぎる。

 積荷の誤魔化しや密輸入の可能性もあるので、彼は自らの気付きを業務日誌に記して提出した。しかしその次の日も船は妙に喫水が深かった。

 あまりに違和感が続くので、業務日誌への報告を取り消し、入院している間に自分の感覚が狂ったのだと合点した。

 あるいは彼以前にも異変に気付いた人間はいたかもしれないが、その誰もが自分の不手際による勘違いであるとして、都合の悪いデータを闇に葬り去っただろう。だから、海水が徐々に軽くなっている、という結論を是として騒ぎ立てる者は誰一人いなかった。

 ともあれ港湾労働者の報告は彼の上司に無駄な仕事を増やし、上司の愚痴は酒場でとある水族館スタッフの耳に入る。そして、スタッフの脳裏に、彼が強いられていた海水の計量という、なぜか上手くいかない作業が失敗する原因が、重量計の故障のせいではないかもしれない、という危惧を生んだ。

 なにせそのスタッフは重量の狂いを揉み消して、必要なテストを飛ばして作業を進めてしまっていたので、もし万が一、海水の塩分濃度や成分比に何かの異変があったとすればそれは自らの責任になるのである。まずあり得ない話だが、頭を離れない杞憂を晴らすため、彼は懇意の研究室に海水を持ち込んだ。

 近くの海岸から採取した海水の精密検査という、はっきりいって馬鹿馬鹿しい依頼を、面倒ながらも引き受けた学生は、弾き出された数値の狂いを見て、当然ながら機械の故障を疑い、容器の変質を疑い、自分の勘違いを疑った。他の学生を捕まえて行った検証の結果、そのどれもが否定された。

 海水の塩分濃度に異常はなく、成分構成にも異常はない。機械も同様である。ただ、その重さだけが計算に合わない。

 海水温も、周囲の気圧も、思い至る全ての要因を精査しても、計算の狂いを埋めることは出来なかった。

 この奇妙な現象を、学生はもちろん、研究室の実質的な主である助教も扱いかねた。

 同じ採取地点で改めて汲んだ海水にも同じ計算の狂いが生じ、数キロ離れた別の地点の海水でも結果は同じであった。

 遠方の研究室の知り合いを宥めすかして付近の海水を用いて同様の検査を行わせ、困惑した声で問い詰める折り返しの連絡を受けてようやく、研究室の面々は異変の発生を認めるに至った。

 事態は共有され情報は人伝に拡散された。伝えられた誰もが疑いを抱き、様々な検証が試みられたが、事態を否定できる者も現れなければ、原因を特定できた者もいなかった。多くの者がその異常の存在を信じず、何らかの詐術であると主張する学者が幾人も居たが、彼らさえも黙らせる奇妙な出来事が起きた。

 極地。見渡す限りに広がっていた流氷が、一夜の内にほとんど全て消え失せたのだ。無論、そのような異常事態を引き起こすような気温上昇はなく、流氷の消失以外には平穏無事な日常が、現地には広がっていたのである。そしてその日の内に、水中撮影機材が撮影した海底に沈む流氷の姿がSNSで拡散された。

 当然ながらその映像はCGや特撮技術を用いた荒唐無稽なデマであると断じられ、多くの人々はその通りに認識し、如何なる公式機関からも事態に関する声明や発表の類が出されることはなかった。

 事態を隠蔽する情報規制を抜きにしても、世界中の研究機関の取り組みにもかかわらず、発表できるような成果は特にあがりはしなかった。唯一分かったことがあるとすれば、海水の比重は変化しているが、流氷の比重に変化はない、ということだけだ。

 このことから、個体の水が液体の水より比重が大きい理由である結晶化が、常温下、液相においても発生するようになったのではないか、という仮説が立てられたが、なぜそうなったかに関しては一切説明がつかず、また、コップの水に投じた氷が今まで通り浮かび上がることへの論理的な説明も出来なかった。

 事態の影響は、思わぬところにも表れていた。

 地球の自転速度が、変化しているのである。

 認めがたくも動かざる事実として、海水の比重は変化した。比重が小さくなった以上、質量が保存されるのであれば海水の体積もまた大きくなっていなければならない。だが、海水位は変化していないのである。

 そしてその分の質量が地球上から失われたと仮定したとき、余剰となる運動エネルギーと自転速度の変化はちょうど釣り合っているのであった。

 地球外の存在から水を盗まれているのだ、という言説が囁かれるようになったが、ではそれは一体何者か、そのようなことができる相手にどう対抗すればよいか、という問いに応えるものは居なかった。そうこうするうちに海水の軽量化は進み、もはや鋼鉄で出来た船は海に浮かばなくなった。

 様々な対抗策が講じられるものの、やはり海上輸送は致命的な打撃を受け、多くの国家がエネルギー危機等々により連鎖的に崩壊に向かった。もはや破局は時間の問題と思われたその時、唐突に海水の軽量化は止まり、そして、大気中の二酸化炭素の濃度が低下し始めた。

 そして一刻の猶予もない文明崩壊の瀬戸際、人々はそのニュースを瓦礫の中で受け取った。

 世界中を狂乱の渦に叩きこんだ異常現象は、思いもしない形で解決を見た。とある青年が窃盗容疑で逮捕されたのである。

 その動機と恐るべき手口をここに記すことは紙面の都合上出来かねるのだが、とにかく後の調べによると彼は盗んだ海水から生成した水素と大気中から得た炭素を用い、月の裏側でおびただしい量のプロパンを生み出していたのである。

 察しの良い読者諸氏であれば、既に気付いている方もいることだろう。











 そう、彼こそかの有名な、海盗プロパン産生なのだ!!!(あまりに見事なオチにあなたは椅子から転げ落ちる)

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