零れた光

縹まとい

零れた光

 静かに目を閉じ“それ”を受け止めようとする。

 耳に響くのは煩いまでの静寂、肌に感じるのは心の底まで冷やす薄闇。


「…………うそ、だ」


 そう、こんな事は嘘だ。嘘に決まっている。でなければ、コレはきっと悪夢だ。

 しかし現実に対し分からないフリなど出来はしない。自分が一番そうでないと分かっているのだから。

 こんな結果などを望んではいなかった。

 もっと違う未来を思っていた。


 否。


 何も考えてなどいなかったのかもしれない。私はただ、己の力を試す場に喜んで出向いたに過ぎない。

 そう……家族の為、国の為、そんな大義名分を掲げていい気になっていたに過ぎないのだ。

 そこで私は何をした?

 何って、そんなの決まっている。戦争なんだ……やることなど決まっているだろう? 次から次に現れる対峙する敵国の兵士を殺しただけ。

 そう、自分と同じ様に家族や国を背負っている“人間”を殺しただけ。

 けれど誰が私を責められる?

 殺さなければ私が殺されていた。私は死ぬわけにはいかない。だって国では、家では、家族が私の帰りを待っているのだから。


 必ず生きて帰ると約束したのだから。


 だが指先一つも満足に動かせなくなり、ボロボロになって懐かしい道を辿って来てみれば……帰ってみれば……待っているはずの国も家族も、もう既にこの世に存在してなどいなかった。

 私の目の前に広がるのは、焼き尽くされた瓦礫の山、山、山。

 背中から急激に襲いか掛かって来る脱力感に、両膝を地面に落とす。ジャリ……と、嫌な砂の音が鳴った

 この光景を見れば何が行われたかなど一目瞭然だ。

 もしかしたら、私が砂だと思ったモノは細かく砕かれた誰かの骨かも知れない……。そう思った途端、更に全身の力が抜け落ちた。


 私が悪いのか?

 私が何をした?


 誰に、私の愛した家族と国を奪う権利があるというのだ?


 何故、私の家族なんだ?

 何故、私の国なんだ?


 この世界には何千何万と沢山の人間が居て、沢山の家族が在って、国が在る。それだけ沢山在りながら、何で、私の家族や国が無くならなければならない?


 他の家族でも国でもいいではないか。


 何故、何故、何故、どうして、こんな事に?

 誰が決めたんだ?

 誰が選んだんだ?




 ど  う  し  て  。




 行き場の無くなった視線が、ふと、左手首に巻かれた赤い糸に止まる。私は左利きだ。だから娘は、私が家族を忘れないようにと“それ”を見て思い出すようにと巻きつけて結んだ。


『絶対に、外しちゃダメだよ? お父さんは一生懸命になると、みんなの事、忘れちゃうんだもん。だから、コレを見たら、私たちを思い出してね?』


 忘れるものか、忘れて堪るか。私はお前たちの為に行くのだから。

 小さくフワフワと柔らかな手が、武術の訓練の為に固くゴツゴツとなってしまった私の手に触れた。その温かさが甦る。


『お父さん!』


「う……う……っ……うわぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!」


 嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ!!

 こんなのは、嘘だ!!


「誰が……ダレが……っ!!」


 心が痛い。

 まるで内側から己の腕で喉の奥を掻き毟っているようだ。

 息が詰まる。苦しくて、痛くて堪らない。


「誰が……誰が……こんな……誰が…………」


 こみ上げる嗚咽を噛み殺しながら、かつて家だった瓦礫を掻き分ける。黒く焼け落ちた梁などを力の限り押し退ける。

 だが、こんな所に何が残っていると云うのか。それでも私は“何か”を諦める事が出来なかった。

 そう……もし、此処で家族の亡骸が見つからなければ、上手くどこかに逃げ切れたのかもしれないなどと、甘い幻想を抱かずには居られなかった。


 でも思い出してみろ。お前は、どうだった?

 何処か場所を忘れてしまった町で、お前は何をした?

 同じ事をしたではないか。

 その時、お前は女だから子供だからと見逃したのか?


 思い出せ。


 お前は、一人も残らず焼き尽くしたではないか。

 仲間が居たからと、自分には罪が無いなどと思えるのか? 自分が火を放ったのでは無いから、と、言い逃れをする気なのか?


 そんなのは詭弁でしかない。


 コツリと指先に固い煤けた物が触れた。その感触に、思わず背筋が凍りつく。

 震える手がソレを探り出し、目を瞑ってゆっくりと指先で輪郭を辿る。伝わってくる情報は私の掌にすっぽりと納まる程に小さく、固い物だと云う事。

 恐れが、だんだんと確信へと変る。

 元は白かっただろう、小さく固い塊。ぽっかりと空いた黒い眼孔に映るものなど、最早何も無い。


『お父さん』


 戦場で、光を失う瞳を腐るほど見てきた。

 命は本当に瞳に宿る光として“そこ”に確かに存在していた。しかし、この子にはその失う光を宿すものすら無い。

 ただ、虚ろに穿たれた黒い眼孔。

 私は何故かそれを目にしながらも、涙を流す事は無かった。悲しすぎて、辛すぎて、それすら叶わない。

 私の体は自然と動き出し、小さな骨を見出した場所へと再び腕を潜らせた。きっと、私の妻はココに居る。そんな、理由の無い確信が私を突き動かしていた。

 私の妻は、彼女は、とても穏やかで芯の強い女だった。常に笑みを絶やさないふっくらと肉付きの良い頬、優しい目元。少し童顔ではあったが、美しすぎもせず愛嬌のある顔をしていた。

 いつも、私の背中を優しく押してくれて温かな帰る場所を守ってくれていた。そんな女が、自分の娘を置いてなど行ける筈が無い。

 恐らくあの水仕事で少し荒れた白く柔らかな手で、死のその直前まで娘を守り続けただろう。

 再びコツリと指先に固い感触が走った。私の家族は既に皆、骸になって居た。しかし果たして、それを骸と呼んで良いものか迷う。


 煤や灰、泥に汚された二つの骨。

 生前の面影など何処にも無い。


 そんなモノを、私は骸と呼べるのだろうか? 私にそんな資格など在るのだろうか?


「……う……う……っ……うぅ……」


 国の為、家族の為と、沢山の人の命を奪ってきた……私に。

 数え切れない程の人々の瞳から命の輝きを奪い、濁らせた、この、


「う……ぁ……あ……うわぁぁぁぁ!!!!」


 人の命を奪って良い理由とはナンだ?

 何を以ってしてそれを正義と位置付ける?

 私は正義を行ったのだろう? だったら、何故、これほどまでに胸を掻き毟る痛みが生まれる?

 腕に抱き、胸へと力の限りに私は二つの塊を押し付けた。何故と問う声も、漏れ落ちる涙も嗚咽も涸れる事は無い。


 何時しか頬を嬲っていた冷たい風は、白い結晶を孕んで私の周りで渦を巻く。





 そして、私は――――…………。





「あぁ、そうだったな。帰ったら義父や義母の所に行こうと約束したな。忘れてなどないさ。はは、そんなに急かすなよ。そうだな、土産は……」


 私の眼前に焼け落ち崩れた家屋が元の姿を取り戻し、賑やかな街の流れが再開する。ざわめく人々、温かな春の日差し。

 目の前には、愛しい我が子と妻の姿。


『お父さん!』

『アナタ』

「あぁ、行こう――――……」


 カラカラと音を立て、足元に転がる“何か”。

 空を掻く様に持ち上げた私の手を酷く冷たい小さな柔らかい手と、少し荒れた優しい手が導く。


「そうだ、前に言ってたな。どうせなら義父や義母も呼んで山で暮らそう。そうすれば、お前の好きな草木染が存分に出来る。みんなで、ミンナで……静かに、暮らそう」


 戦のない、静かな世界で。






 数年後、新国王の命を受けて勇猛果敢と謳われた部隊の隊長を探しに来た青年が居た。その者は件の戦の折、その隊長の配下に属し何度も命を救われていた。


『躊躇うな! 動くものは味方以外、全て敵だ!! 死にたくなくば、躊躇うな!』

『はい!』


 何度も腕を引かれ、よろめく身体を支えてくれた恩人。今、こうして自分が在るのもその人のお陰だ。

 様々な紆余曲折はあれど、ようやくその人の消息を掴む事が出来た。新国王も、その人に是非会いたいと仰っている。あわよくば、もう一度その人と隊を組む事が出来るかも知れない。

 男の足取りは軽く、険しい山道すらなんら苦痛ではなかった。


 ────……そう、あの光景を見るまでは。


 山道がようやく途切れ、一軒の小屋に辿り着く。キョロリと周囲を見渡せば、裏手より蒔きを割る規則的な音と、穏やかな笑い声が“一つだけ”聞こえてくる。

 青年は少し躊躇った。噂で伝え聞いたには、確かココで暮らす男は一人だった筈。しかし、いま自分が耳にしている声は、明らかに誰かと会話をしているのだ。

 そっと、木の陰から捜し求めた人物を眺め見た。

 男の足元には見事に割られた薪が転がり、流れ出た汗を拭いながら小屋に向かって何事かを話している。

 だがその先には、男の視線の先には、開かれた小屋の入り口がぽっかりと暗く口を空けているだけで人の気配は全く感じられない。

 無性に嫌な胸騒ぎがした。

 きっと、自分は直ぐに隊長へ声を掛けるべきなのだろう。しかし、何故だ? どうしてもその一歩が踏み出せない。


 小屋の入り口の見える茂みに身を隠し、ジッとひたすらにその様子を見守る。どこかが、オカシイのだ。言葉では上手く言い表せない、でも、どこかがオカシイ……。

 すると、男の背後でガサリと葉を踏み分ける音が鳴った。


「お若いの、そこで何をなさっておるのかね?」


 男は思わず護身用に何時も持ち歩いている短剣の柄に手を掛ける。


「なになに、脅かそうと云うのではない。その様な物騒な物は仕舞われるが良かろう。……お若いの、あの男に用でもあるのかね?」


 男は返事をすることを躊躇った。しかし、自分に声を掛けてきたその初老の男の身なりから彼が神職者であるコトが分かると、言葉なくゆっくりと頷いた。


「そうか。……だったら、会うのは止めて置く方が宜しかろう。あの者は、今では己の夢の世界でのみ生きて居る。今は幸せそうに笑って居るが……また直ぐにでも、己の殺めた亡霊によってもがき苦しむ姿になろう。その姿を見んうちに、早くお帰りになられた方がご自身の為……」


 初老の男は悲しげな顔で薪を割る男を見守っていた。

 恐らく、この初老の男の言葉に嘘は無いのかもしれない。いや、恐らくそれが真実。

 男は自分も時に己の殺めた人々の姿を夢で見、うなされていたからだ。


「どうぞ、このままそっとして置いてやってはくれんかね?」


 男は無言で立ち上がると、深々と初老の男へと頭を下げた。そして、己の腰袋に下げていた金の入った袋を差し出した。


「あの方に、万が一の時に使ってください」

「お名前を窺っても?」

「いえ。きっと自分の名前は、あの方には思い出したく無いものでしょう。ですからこのまま、どうぞ聞かないで置いてやってください」


 そう言って、再び深々と頭を下げて男はその場を立ち去った。

 来た時とは比べ物にならない、鉛のように重くなった足取りで。

 静かに、ただ黙々と足を動かして山を下る。しかしそれと同時に、悲しみからか絶望からか何時しかポタリポタリと温かな雫が頬を伝う。

 自分の知っている隊長は勇猛果敢な兵士だった。自ら兵を率いて、先頭に立って戦い抜いた男だった。

 だがそれと同時にとても優しい人で……毎夜、戦いの中で死んでいった全ての人々の為に祈りを捧げる人だった。

 家で家族が待っていると、娘に忘れないようにと赤い紐を手首に巻かれたと笑っていたあの人は、もうこの世に居なかった。

 男はこの時、初めて隊長を見たときの違和感に気が付いた。


 そう――――……彼の目に、以前はあった光が、輝きが存在していなかったのだ。どんよりと暗く濁り、まるで死んだ者の瞳。


 嗚咽が喉を締め付けた。立っていられず、思わず地面へと両の手と膝を付く。

 光は既に失われた。在るべき場所をスルリと抜け落ち、そこにはもう何も存在していない。

 姿は在る、そう…………それだけ。

 それに一体、どれ程の価値があるのだろう? カタチばかりがこの世に残され、共に在るべき心が失われた。

 自分の勝手な想いかも知れない、だがそれでもあの人にはまだ、教えてもらいたい事がたくさんあった。道を失いやすい自分を導いて欲しかった。

 けれどそれはもう叶わない。


「うっ……ううぅっ……」


 男は悲しみの中、自身すら気が付かなかった暗い心が目を覚ます。誰がそうした訳ではない。しかし彼の中には確実に……ある種の絶望がジワリと滲み出し、心を染め上げていく。

 ゆるりと男は立ち上がると、何故か来た道を再び引き返し始めた。まるで何物かに憑かれたかの様に、その顔には全く精気が感じられない。

 男は先ほどの場所へと再び身を隠し、息を潜めて待ち続けた。密かに、まるで自身が闇へ溶けてしまったかの様に。


 そして、時が来る。


 小屋の明かりが消され、人の気配がフツリと途切れた。男は獲物を狙う山猫のように音を立てず、素早い動作で小屋の内部に滑り込む。

 暗く闇に沈んだ室内に鋭い視線を彷徨わせ目的の者を探し当てた。その人は、自分の知っている時のまま、ベッドへ体を横たえる事をせずに椅子に深く凭れかかって規則正しい寝息を立てている。

 躊躇いは無かった。罪悪の念も悲しみも、まるでそこだけ抜け落ちた様にぽっかりと穴が開いている。

 懐の短剣を音を立てずに抜き去ると、素早く後ろからその人の口を左手で押さえ、仰け反らせて晒した喉へと素早く右手を滑らせた。

 迸る鮮血が室内を染め上げて独特の臭いでその場を満たす。

 一瞬だけ、その人はビクリと体を跳ねさせたが、直ぐにぐったりと力が抜けた。気が付けば男は己の両頬に再び涙が伝っていた事に気が付いた。


 これで、貴方はゆっくり眠れる。





 全てを在るが場所へと。





 男は方膝を付いて深々と頭を下げ、目の前の人物へと最敬礼をした。


「…………貴方は、もう自由です。どうぞ、お行きください」


 何者にも囚われない、穏やかな世界へと。全てが在ったその場所へと。


 男は血も拭わず、そのまま短剣を鞘に戻して来た時同様、音を立てずにその場を去った。今、己が在るべき場所へ帰る為に。


 光は失われ、地に帰った。

 己もいずれは同様になるのだろう。


 この世界はまだ、戦が溢れている。

 己の職業が在るうちは、平和な世界などありえない。

 これからどれだけの、守りたいと願う光が己の手を滑り落ちてゆくのだろう? 男はしばし己の掌を見詰めてから天を仰いだ。

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