菖花の見送り その5


「鈴花がなんとしても捜し出そうとしていた姉のお前が、後宮に残していく妹を案じる気持ちは、わたしもよくわかるが」


「あの……っ!?」


 身動みじろぎする鈴花を逃さないとばかりに、抱きしめる珖璉の腕に力がこもる。


「お前が案ずるような事態には決してならぬと誓おう。わたしはもう、二度と鈴花を手放す気はない」


「こ、珖璉様……っ!」


 迷いなく言い切った珖璉の宣言に、じんと胸の奥が熱くなる。


 珖璉から伝わる熱と嬉しさと恥ずかしさで頭がくらくらしそうだ。


「ありがとうございます。珖璉様の頼もしいお言葉をうかがって、心から安堵いたしました」


 珖璉の行動に目をみはって固まっていた菖花が、花が咲くような笑みを浮かべる。


「これで、心おきなく故郷へ帰ることができます」


 ぎゅっ、と菖花が鈴花の手を握り返す。


「鈴花。くれぐれも無茶はしないでね。あなたはときどき、思いもかけない無茶をするんだから……。珖璉様がついてらっしゃるから大丈夫でしょうけれど、無理をしてはだめよ?」


「……確かに鈴花は、ときどきこちらの想像の埒外らちがいの行動をとるからな。さすが姉だけあって、鈴花のことをよくわかっている。わたしも重々気をつけておくことにしよう」


「ね、姉さんっ!? 珖璉様も!?」


 まさか双方から言われると思わず、すっとんきょうな声が飛び出す。


「ええ、珖璉様。くれぐれも妹をお願いいたします。……鈴花、元気でね。故郷へ戻ったら、無事に着いたとすぐに手紙を送るから、待っていて」


「うん……っ! 私もいっぱい手紙を送るね! 姉さんも、どうか元気で幸せに……っ!」


 腕をほどいてくれた珖璉の胸元から飛び出し、体当たりするように菖花に抱きつく。


「ふふっ、鈴花ったら、本当に甘えん坊なんだから……。珖璉様に呆れられてしまうわよ?」


「だ、だって……っ」


 珖璉に呆れられるわけにはいかない。だが、口から出るのは涙混じりの情けない声だ。


「ほら。今生の別れというわけでもないのだから、可愛い笑顔を見せてちょうだい」


 励ますような菖花の声に、抱きしめていた腕をほどき、顔を上げて精いっぱいの笑顔を浮かべる。きっと、とんでもなく変な顔になっているに違いないが、今はこれが限界だ。


 にじんだ視界の中で、柔らかな笑みを浮かべる菖花のまなじりに、光る涙が浮かんでいるのは、きっと鈴花の見間違いではないだろう。


「大好きよ、鈴花」


「私も、姉さんのことが大好き……っ!」


 別れを惜しむように、最後にもう一度抱きしめあう。


 そのまま、どのくらいの間、抱きしめあっていただろう。


「……ではね、鈴花」


 鼻にかかった声を出した菖花が、顔を隠すように深々と頭を下げる。


「珖璉様にも、たいへんお世話になりました。お見送りまでしていただき、誠にありがとうございます」


「気にするな。幾久しく健やかに過ごせ。……鈴花のことは、任せてくれ」


「はい。お頼み申します」


 さらに深くこうべを垂れた菖花が、身を起こし、きびすを返す。


 荷物を背負った細い背中にすがりつきたい衝動を、鈴花は唇を噛みしめてこらえた。


 菖花が両開きの扉を薄く開けて、身をすべりこませるように出て行く。


 二年間、奉公していた後宮の外へ。


 春の朝の明るい陽射しを浴び、許嫁いいなずけが待つ故郷へと旅立つ姉の後ろ姿を、鈴花は祈りをこめて瞬きもせずに見守る。


 ぎぃ、とかすかな軋みを立てて門扉が閉まり。


「ふ……っ、くぅ……っ」


 姉の姿が見えなくなった途端、こらえきれなくなった嗚咽おえつがこぼれ出る。


 姉は、故郷で許嫁と幸せに暮らすために帰るのだ。だから、泣く必要なんてない。


 頭ではわかっているのに、胸がぽっかりと空いたような寂しさを埋めようとするかのように、あとからあとから涙があふれ出す。


「鈴花……」


 名前を呼ばれると同時に、肩を掴まれ振り返させられる。抱き寄せる珖璉の腕に、鈴花はあらがうことなく従った。


 何も言わぬままの珖璉が、ただただあやすように鈴花の背中を撫でてくれる。


 寂しさも何もかも融かしてしまうようなあたたかく大きな手のひら。


「す、すみません……っ」


 早く泣き止まねば、いつまで泣いているのかと珖璉に呆れられてしまう。

 ぐすっ、と鼻を鳴らして身を離そうとすると、逆にぎゅっと抱きしめられた。


「謝る必要はない。二年ぶりにようやく会えた姉との別れなのだ。心穏やかでいられぬのは当然だろう。……すまぬ。お前のことを考えるなら、もう数日、後宮でゆっくりさせればよかったな」


「いえっ、そんな……っ! 姉さんが後宮に何日もいるわけにはいかないのは、ちゃんと承知しておりますから……っ!」


 苦みを帯びた声に、とんでもない! とふるふるとかぶりを振ったところで、鈴花は自分がすがりついているのが珖璉が纏う絹の衣だと気がついた。


「す、すみませんっ! 絹のお召し物ですのに……っ! 濡らしたり汚したりしていませんかっ!?」


 もし汚していたら、どんな叱責を受けるだろう。ばっと身を離そうしたが、珖璉の腕は緩まない。


「涙くらい気にせずともよい。落ち着くまでこうしているといい」


「で、ですが、この状態は落ち着くどころか、その……っ!」


 珖璉に抱きしめられているのだと意識した途端、ばくばくと鼓動がとんでもなく高鳴ってくる。


「それに、お前の泣き顔を他の者にさらすわけにはいかぬからな」


「す、すみませんっ! 泣いていたら何事かと思われちゃいますもんねっ!?」


 珖璉の侍女に抜擢ばってきされた鈴花は、ただでさえ後宮中の宮女達からよい感情をもたれていないのだ。


 泣きはらしたみっともない顔で廊下を歩いては、どんな嘲弄ちょうろうを受けるだろう。


 鈴花だけならばよい。「あんなみっともない小娘を侍女にするなんて」と、主である珖璉にまで迷惑をかけるような事態になったら、どれだけ謝罪してもし足りない。


「も、申し訳ありませんっ! みっともない顔を……っ」


「みっともない?」


 うつむきながら早口に詫びようとすると、珖璉のいぶかしい声が降ってきた。鈴花を抱きしめていた腕がようやく緩む。


 ほっとした鈴花がふところから手巾しゅきんを取り出し、顔を背けてぬぐおうとすると。


「何を言う? お前は泣いていても愛らしいぞ? だが……。わたし以外の者に愛らしい姿を見せてやるのはしゃくだ」


 不機嫌そうな低い声と同時に、大きな手のひらに頬を包まれ、強引に顔を上げさせられる。かと思うと。


「ひゃあっ!?」


 ちゅ、と濡れた頬にくちづけられ、鈴花はすっとんきょうな声を上げた。


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