菖花の見送り その4


 病気になった宮女を隔離したり、埋葬されるまでの遺体を安置する浣衣堂かんいどうは、後宮の中でも人気のない一画にあり、日中でも訪れる者はまずいない。うっそりと生える木々の葉が、三月の朝の風に揺れ、さやかな音を立てるばかりだ。


 どこかはわからぬが、近くに桃の花が植えられているのだろう。風に乗って、甘い薫りがほのかに鈴花のもとへ届く。


 主に遺体を後宮から搬出するのに使われるのだという小さな門は、今は鈴花と珖璉、旅装束に身を包んだ菖花以外は誰もいなかった。


 珖璉が教えてくれたところによると、ふだんは門番の兵士がひとりいるのだが、今は人払いしているのだという。


 本来は後宮にいるはずのない菖花の姿を余人に見せないためだと言っていたが……。


 きっと、鈴花と菖花が心おきなく別れを惜しめるように、気を遣ってくれたに違いない。


 その証拠に、鈴花が菖花と別れがたくてぐずぐずしていても、珖璉はずっと黙って見守ってくれている。


「姉さん……っ」


 菖花は故郷で、自分は後宮の珖璉のそばで過ごしていくのだと、夕べちゃんと決意したはずなのに、いざ大好きな姉と別れなければならない時が来ると、寂しくて切なくて、泣き出してしまいそうになる。


「鈴花ったら……」


 両手で菖花の手をぎゅっと握りしめていると、困ったように笑った菖花が掴まれていないほうの手でそっと鈴花の頬にふれた。


「そんな顔をしないでちょうだい。大丈夫。今生の別れというわけではないのだもの。確かに、会える機会はなかなかないでしょうけれど……。私が奉公に来た時も同じだったでしょう?」


「そ、そうだけど……っ! でも……っ」


 答える声が嫌でも潤む。


 二年前、菖花が後宮へ奉公に行く日も、こんな風にいつまでも菖花の手を握りしめてべそべそしていて、両親にひどく叱られた。


 故郷へ帰って結婚する菖花が心配しないように、笑顔で見送ろうと思っていたはずなのに、これでは二年前から全然成長していない。


 珖璉は黙って見守っていてくれるが、もしかしたら内心では呆れ果てているかもしれない。


 笑って見送らなければと思うのに、口を開くとぼろぼろと涙がこぼれ落ちそうで、鈴花はぎゅっと唇を噛みしめ、言葉のかわりに菖花の手を握りしめる。


「大丈夫。奉公していた頃以上に、こまめに手紙を書くわ。婚礼の日取りが決まったら必ず伝えるから……。お祝いに来てくれるでしょう?」


「うんっ! 絶対、ぜったいに……っ!」


 菖花は故郷に許嫁いいなずけが待っている。誠実で優しい青年は姉とお似合いだ。


 珖璉が姉に渡した金子きんすは、今回の事件に対する口止め料だけでなく、婚礼の祝いも加味されて、かなりの金額だと聞いている。きっと、故郷に帰って落ち着けば、すぐに婚礼を挙げることになるだろう。


 婚礼衣装に身を包む菖花は、きっと妃嬪のように綺麗に違いない。


 何があってもお祝いしたいと、鈴花はこくこくっ、と大きく頷く。


「絶対に、お祝いしたいっ! で、でも……っ」


 一度後宮に奉公に入れば、故郷に帰られるのは年に一度の休みの時だけだ。珖璉は鈴花が休みを取ることを許してくれるだろうか。


 不安を隠せないままに、隣に立つ珖璉を振り仰ぐと、不意に大きな手に優しく頭を撫でられた。


 驚きに目をみはった鈴花の目に飛び込んだのは、とろけるような珖璉の笑みだ。


「もちろん、祝いに赴くに決まっているだろう? わたしの大切な鈴花が慕う姉君の婚礼なのだからな」


「っ!?」


 甘やかな笑みに息を呑む。『大切な』と告げられただけで、鼓動がみっともないほどぱくぱくと騒ぎ出す。


 珖璉の笑みに見惚れたのは鈴花だけではなかったらしい。菖花が詰めていた息を吐いたかすかな音に、鈴花は我に返って姉を振り向いた。


「珖璉様のお心遣いに深く感謝申しあげます」


 楚々そそとした仕草で、深々と頭を下げた菖花が、面輪を上げると正面から真っ直ぐに珖璉を見つめる。


「鈴花は……。幼い頃から二人で支えあってきた、本当に大切な妹なのです。わたくしなどが官正である珖璉様にお願いできる立場でないのは承知しております。それでも――。鈴花を大切にしていただけると、信じてよろしいですか?」


「ね、姉さんっ!?」


 驚愕にすっとんきょうな声が飛び出す。


 いつもしとやかで控えめな姉が、まさかおくすることなく珖璉を見つめ、挑むように問うなんて。


 同時に、これは鈴花のためなのだと――。


 後宮に残る鈴花の不安が少しでも軽くなるように、珖璉から言質げんちを取ろうとしてくれているのだと気がついて、菖花の思いの深さに、嬉しくて泣き出しそうになる。


「姉さんっ、心配しないでっ! 私、ちゃんと後宮でがん――、ひゃっ!?」


 菖花の心配を払拭ふっしょくしようと声を張り上げた途端、不意に後ろから抱きしめられた。


 ふわりと揺蕩たゆたった爽やかな香の薫りに、誰何すいかするより先に腕の主を知る。


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