菖花の見送り その1


 夕暮れの中、『昇龍の儀』が終わり、官正の衣服に着替えた珖璉とともに後宮に戻ってきて、約一刻。そろそろ就寝の支度を、というところで鈴花は緊張しながら珖璉に声をかけた。


 ちなみに、禎宇と朔はまだあれこれ後始末があるということで、出て行ったきり戻ってきていない。


「あ、あのっ、珖璉様!」


「うん? 何だ?」


 卓に向って書き物をしていた珖璉が、微笑みを浮かべて鈴花を振り返る。


 甘やかな微笑みを目にしただけで、ぱくんと心臓が大きく跳ねる。


 恋心を自覚して以来、銀の光に包まれていなくても珖璉がまばゆくて正視できないほどだったが、先ほど想いを告げてからは、さらにいっそう輝くばかりになった気がする。


 今ですら、王城でのやりとりは恋心がこうじすぎて見た幻ではないかと内心、不安になっているほどだ。


「そ、その……っ」


 どきどきしてしまって、言おうとしていた言葉が喉で詰まって出てこない。うつむきがちにもじもじと意味もなく袖口をいじっていると、珖璉がさっと椅子から立ち上がった。


「どうした? 何かあったのか?」


 鈴花の前まで歩んできた珖璉が、そっと片手を伸ばし、鈴花の頬にふれる。あたたかな手のひらに頬を包まれるだけで、ぱくぱくとさらに鼓動が速くなる。


 甘やかに微笑む珖璉と視線が交わり、それだけで気が遠のきそうだ。


 しっかりしろと自分を叱咤し、鈴花は必死で口を開いた。


「あのっ、珖璉様にお願いがあるんですっ!」


「願い?」

 おうむ返しに呟いた珖璉の笑みが甘さを増す。


「お前が願いごととは珍しいな。何だ? わたしに何を望む? お前の願いというのなら、わたしの力の及ぶ限り叶えてみせよう」


「えぇっ!? いえっ、そんな! 珖璉様のお手をわずらわせる気はまったくなくて……っ!」


 予想外の反応に、鈴花はふるふるとかぶりを振る。が、頬を包む珖璉の手は離れない。


「お願いというのは、その……っ! こ、今夜のことなんです!」


 告げた瞬間、珖璉の動きが凍りつく。


「今、夜……」


 珖璉の形良い唇から、かすれた声がこぼれ出る。こくりと鈴花は力強く頷いた。


「は、はいっ! その、明日には姉さんが故郷に帰ってしまうので、今夜はおそばを外させていただいて、姉さんの部屋で眠らせていただけないかと……っ! あの、珖璉様……?」


 不意に、身体中から絞り出すように深いため息をついた珖璉に、鈴花はきょとんと首をかしげる。


「どうなさったんですか……?」


「……まったく、お前は心臓に悪い……」


 鈴花の頬にふれていた手で、次は己の額を押さえた珖璉が、疲れ果てた声をこぼす。


「えぇっ!? あのっ、大丈夫ですか!? 禎宇さんを呼んで来たらよいですか!?」


 『十三花茶会』の後、一足先に朔に珖璉の私室に連れて来てもらった鈴花はぐーすかと寝こけていたが、珖璉は禎宇達と後始末に走り回っていたはずだ。


 しかも、珖璉は『昇龍の儀』にも参加して、大勢の前で《龍》を喚んだのだ。疲れているに決まっている。


「ちょっと待っていてくださいね! すぐに禎宇さんを探して……っ!」


 身を翻し、駆け出そうとすると、「待て!」と珖璉に腕を掴んで引き留められた。


「ひゃっ!?」


 たたらを踏んで、後ろに倒れそうになった身体を、珖璉に抱きとめられる。ふわりと衣に焚き染められた爽やかな香の薫りが揺蕩たゆたった。


「大丈夫だ。禎宇を呼んでくる必要などない」


「で、ですが……」


「そもそも」

 後ろから、鈴花の顔を覗き込んだ珖璉が、悪戯っぽく笑う。


「お前の場合、禎宇のところに辿り着く前に、迷子になってしまうだろう?」


「そ、それは……っ」


 かぁっと頬が熱を持ったのは、図星をつかれたからなのか、間近に迫った銀の光をまとう面輪がまばゆいからなのか、鈴花にはとっさにわからない。


 と、柔らかく微笑んだ珖璉に、あやすように頭を撫でられた。


「わたしは何事もないゆえ、大丈夫だ。すでに後宮にいないことになっている菖花を何日も留め置くわけにはいかぬゆえ、明朝には出立してもらうが……。故郷へ帰れば、会う機会もなかなかないだろう。せめて今宵だけでも、姉妹水入らずで過ごすといい」


「あ、ありがとうございます……っ」


 思いやりに満ちあふれた言葉に、じんと胸の奥が熱くなる。


 菖花は今は、珖璉の私室のそばの空き部屋に滞在している。後宮でも最上位に近い官正の珖璉の私室がある辺りは、下級宮女や宦官達が暮らす棟とは異なり、造りもゆったりしている。


 前に禎宇にちらりと教えてもらったところによると、珖璉の私室の周りの部屋が空き部屋になっている理由は、珖璉が官正として着任した当時、なんとかして珖璉とお近づきになろうとする者達が、珖璉のそばに自室を得ようとして、ひどく争ったためらしい。


 結果、一種の緩衝地帯として空き部屋になっているということだ。


 珖璉が言ったとおり、後宮を辞したように書類を細工され、芙蓉妃ふようひの身代わりを務めていた菖花の姿を他の誰かに見られるのは具合が悪い。


 大勢の前で禁呪を使った茱栴と異なり、博青と芙蓉妃のことは限られた者しか事情を知らぬのだ。


 後宮が落ち着き次第、芙蓉妃は実家に帰されることになっているが、表向きはあくまでも、精神的にもろいところのある芙蓉妃が、皇帝のお渡りがないことを苦にし、自ら妃嬪の位を降りたいと申し出たという形になる予定だ。


 真実を知る者のひとりである菖花は、今夜だけ後宮で過ごした後、明日の朝には故郷へ帰ることになっている。


 珖璉が言う通り、菖花が故郷へ帰れば、後宮に残る鈴花とは、ほとんど会えなくなってしまうだろう。


「まもなく禎宇や朔も帰ってくるだろう。わたしはひとりで大丈夫だ。気にせず、菖花のところへ行ってくるといい」


 鈴花を抱きとめていた腕を放した珖璉が、ぽふぽふと頭を撫でて促す。


「ありがとうございます! では、お言葉に甘えて姉さんのところへ行ってきます!」


 ぺこりと一礼すると、鈴花はいそいそと菖花のところへ向かった。


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