終章 くちづけだけでは足りぬ


「あの――、っ!?」


 上げようとした抗議の声は、ふたたび落とされたくちづけに封じられる。


 いったい何がどうなっているのかわからない。

 混乱と恥ずかしさで思考が沸騰して融けていく。


「幻ではないと、理解したか?」


 ゆっくりと面輪を離した珖璉が、鈴花の目を覗きこむ。


「はぇ……? その、本当に……?」


 いまだに信じられず、惚けた声で呟くと、珖璉の唇が悪戯っぽく吊り上がった。


「信じられぬというのなら、お前が信じるまでくちづけてみるか?」


「っ!? お待ちくだ――っ」


 鈴花が止めるより早く、珖璉の唇が鈴花のそれをふさぐ。


 身動ぎして押し返そうとするが、引き締まった長身はいわおのようにびくともしない。


 ぎゅっと目をつむると、珖璉の熱と香の薫りが押し寄せてきて、溺れてしまいそうな心地になる。


 このままでは息ができないと怖くなったところで、ようやく唇が離れた。


 はっ、と荒い息を吐く鈴花の耳に、からかい混じりの珖璉の声が届く。


「どうだ? 幻ではないとわかったか? 実感できぬというなら、いくらでも――」


「わ、わかりました! わかりましたからもう……っ!」


 悲鳴のように叫ぶと、「そうか」と珖璉が満足そうに頷いた。

 ほっとしたのも束の間。


 ちゅ、と三度くちづけを落とされる。


「こ、珖璉様っ!? わかりましたと申しあげましたでしょう!?」


 思わず目を開け睨み上げると、珖璉が口元をほころばせた。


「ああ、聞いた。幻ではないとお前が知ってくれたのが嬉しくて、くちづけたくなった」


 悪びれた様子もなく告げられた言葉に、絶句する。


 そんな風に甘やかに微笑まれたら、あぶられたろうのように、とろりと融けてしまいそうだ。


「鈴花」


 飴玉あめだまを転がすように名を紡いだ珖璉の面輪が下りてくる。


「ん……っ」


 下唇を柔らかくんだ珖璉の唇が、顎を辿り、首筋へと下りてゆく。

 熱を宿した吐息が肌を撫でるだけで、甘いさざなみに身体が震えてしまう。


「ひゃっ!?」


 首筋にくちづけられたくすぐったさに、すっとんきょうな声を上げたところで。


「……失敗したな」


 珖璉が、ひどく苦い声で呟いた。


「すぐに後宮に戻るつもりで《宦吏蟲》を入れたままにしておいたが……。抜かせておけばよかった。泂淵が手ずから喚んだ《宦吏蟲》でなければ、無理やりかえせたというのに……。ぬかった」


 ぎゅ、ときつく眉を寄せた珖璉は、この上なく悔しげだ。というか。


「こ、珖璉様っ!? いったい何を考えてらっしゃるんですか!?」


 一瞬で思考が沸騰した鈴花をよそに、珖璉が真剣極まりない声で告げる。


「せっかく想いが通じたというのに、くちづけだけでは足りぬ」


「で、ですが……っ」


 あうあうと羞恥に泣きそうになりながら、珖璉を見上げる。


 珖璉の気持ちは、涙がこぼれそうなほどに嬉しい。けれど。


「こ、珖璉様と両想いになれただけで光栄で、嬉しすぎて……っ。今でももう、どきどきしすぎて、心臓が壊れそうなんです……っ! ですから……っ」


 どうか珖璉が不愉快に思ったりしませんようにと願いながら告げると、珖璉が喉の奥でかえるが潰れたような声を上げた。


「くそっ! 今ほど己の迂闊うかつさを呪ったことはない……っ! 何の生殺しだ、これは!?」


「珖璉様……?」


「どうする? 泂淵に抜かせてから後宮へ戻るか? しかし、官正としてさすがにそれは示しがつかん……っ」


 鈴花にはよく聞こえぬ低い呟きを洩らす珖璉を、おずおずと呼ばうと、黒曜石の瞳にひたと見据えられた。


「よいか? もう少し、言動には気をつけよ。……でないと、先にわたしが狂ってしまいそうだ」


「くる……? ええっ!? どうなさったんですか!? ご無理がたたって体調を崩されたんですか!? あっ、禎宇さんを呼んできたらよいですか!? それとも泂淵様でしょうか!?」


「違う。彼奴あやつ等を呼ぶ必要などないから落ち着け」


 珖璉の下からい出そうとしたところを止められるが、落ち着いてなどいられない。


「で、ですが……っ! 夕べ、茶会へ向かわれていた珖璉様はひどくやつれてらっしゃって、おつらそうで……っ! 少しでも珖璉様のお役に立ちたくて、私……っ」


「だから! そんなに愛らしいことを言ってわたしを惑わせるな! 抑えが利かなくなるだろう!?」


 叫ぶなり、珖璉がぎゅっと鈴花を抱きしめる。

 荒れ狂う激情を抑え込むかのように、強く。


「こ、珖璉様っ!?」


「少し口を閉じていろ」

「で、ですが……っ」


 心臓が、壊れそうなくらい高鳴っている。鼓動の音が珖璉にまで聞こえてしまうのではなかろうか。


 身動みじろぎすると、今度は「動くな」と命じられた。


「そ、そんな……っ」


 困り果て、情けない声を上げると、「……そういえば」と、珖璉が何やら思い出したように呟いた。


「結局、お前の願い事とやらは何だったのだ? まだ教えてもらっておらぬ」


「えっ!? あの、大丈夫です! もう……っ」


 ふるふるとかぶりを振ってごまかそうとしたが、珖璉の追及は緩まない。


「聞きたい。それとも……。願いを言うのもはばかられるほど、お前から見たわたしは頼りないか?」


 「そうだな、お前が宮女達にいじめられているのにも気づかず、のうのうとしていたわたしに……」と急に落ち込み始めた珖璉に、鈴花はあわてて声を上げる。


「ち、違いますっ! もう願い事は叶いましたから……っ」


「叶った?」


 心底不思議そうに鈴花を覗きこんだ珖璉を、おずおずと見上げる。


「だ、だって……。私の願い事は、これからも珖璉様のおそばにいられますようにって――、っ!?」


 最後まで告げるより早く、下りてきた唇に口をふさがれる。


 噛みつきたいのを、無理やり理性でこらえているようなくちづけ。


 頭の芯まで、くらくらする。心臓が、壊れてしまいそうだ。


 はっ、と荒く吐き出された珖璉の呼気が肌を撫でるだけで、きゅぅっと胸が痛くなる。


「これは……。理性が保つうちに方策を考えねば、わたしがもたんな……」


 珖璉がこの上なく苦い声で謎の言葉を呟く。

 だが、それより。


「ど、どきどきしすぎて、私の心臓のほうが先に壊れそうなんですけれど……っ」


 半泣きで訴えると、目をみはった珖璉が、ふはっと吹き出した。


「そうか……。では、お前の心臓が壊れぬよう、慣れてもらわなくてはな」


 ふっ、と珖璉の吐息が耳朶じだにかかったかと思うと、ちゅ、と耳にくちづけられる。


「ひゃっ!?」


 耳だけではない。首筋に、額に、頬に、唇に。

 優しい雨のようにくちづけが降ってくる。


「お前が嫌がることはせぬゆえ……。ゆっくりと、慣れてくれればよい」


「あ、あの……っ!?」


 おろおろと声を上げると、「鈴花」と宝物を呼ぶように名を紡がれた。甘く名を呼ばれるだけで、胸の奥に小さな明かりが灯る気がする。


 嬉しくて幸せで……。このまま気が遠くなりそうだ。


 おずおずとまぶたを開けると、柔らかな熱を宿した黒曜石の瞳と、ぱちりと目が合う。


「大切で可愛い……、愛しい鈴花」


 融けるように甘い囁きとともに落とされたくちづけを、鈴花は喜びとともに受けとめた。



                          おわり


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