58 言っていただろう? 『昇龍の儀』を見てみたいと


 露台が見える柱の陰から人気のない廊下へ下がっても、鈴花は生まれて初めて見た《龍》の神々しさに、魂が抜けたようにほうけていた。


「鈴花。入ってこい」


「はぇ? あっ、はい!」


 着替えに入っていった部屋の中から珖璉に呼ばれ、鈴花はようやく我に返る。


「どうなさいましたか?」


 禎宇が開けてくれた扉から部屋に入ると、すでに珖璉は銀糸で《龍》が刺繍された衣から、いつもの絹の服に着替えていた。禎宇自身は部屋の中に入らずにぱたりと扉を閉めてしまう。


「どう思ったのか、お前の口から感想を聞きたいと思ってな。言っていただろう? 『昇龍の儀』を見てみたいと」


「お、覚えていてくださったんですか……っ!?」


 感動に声が震える。まさか、他愛のない鈴花の言葉を覚えていて、わざわざ連れてきてくれただなんて。涙があふれそうになるほど、嬉しい。


「満足したか?」


 柔らかな笑顔で尋ねた珖璉に、こくこくこくっ! と首が千切れんばかりに何度も頷く。


「すごかったです! 《龍》が大きくて神々しくて、昼と夜が混じった空の中へきらきら~って……っ!」


 どれほど感動したのか、つたな語彙ごいで必死に伝えようとして。


「あ――っ!」


 大事なことを忘れていたことに気づき、すっとんきょうな悲鳴を上げる。


「どうした!?」


 血相を変えた珖璉が駆け寄り、鈴花の両肩を掴んで顔を覗きこむ。


「り、《龍》が天に昇るのに合わせてお願い事をしなきゃいけなかったのに……っ! 見惚れて、忘れてしまいました……っ!」


 庶民の間では、『昇龍の祭り』の時に、願いを書いた短冊を灯籠の炎で燃やせば、願いが叶うと信じられている。天へ昇る《龍》が、神仙の元まで願いを運んでくれるのだと。


 その《龍》を間近で見られるなんて、願いを祈るまたとない好機だったというのに、見惚れてしまって、願い事がすっかり頭から抜け落ちていた。


 なんと間抜けなのだろう。情けなさに半泣きになりながら顔を上げると、びっくりするほど近くに珖璉の端麗な面輪があった。


「願い事……?」


 おうむ返しに呟いた珖璉が、甘やかな笑みを浮かべる。


「何を願う気だったのだ? 力の及ぶ限り、わたしがお前の願いを叶えてやろう」


「っ!? い、いえいえいえっ! 結構ですっ!」


 ぶんぶんぶんっ、と激しく首を横に振る。


「ん? 菖花は見つかったし、あとお前が願いそうなことといえば……。毎日ご馳走が食べたいとか、菓子を腹いっぱい食べたいとかではないのか?」


「そ、それも確かに素敵ですけれど……っ!」


 からかうような珖璉の言葉に、こくんと頷く。少し前の鈴花なら、そう願っていたに違いない。


「それとも……。わたしであっても叶えられぬ願いか?」


「そ、それは……っ」

 珖璉の問いに言い淀む。


 違う。この願いは、珖璉にしか叶えられない。


 これからもずっと、そばにおいてほしい、なんて。


「……本来のわたしの身分をもってすれば、大抵の願いなら叶えられるのだが……。それほどに、お前の願いは難題なのか?」


「……はぇ?」


 珖璉の言葉の意味が掴めず、端麗な面輪をぽけっと見上げる。珖璉が呆れたように小さく鼻を鳴らした。


「……わたしが《龍》を喚んだのを見ただろう?」


「は、はいっ! すっごく綺麗で、神々しく、て……」


 何かが、鈴花の頭でひっかかる。


 すべての《蟲》の頂点に立つ白銀の《龍》。人知を超えた力を持つ《龍》を喚ぶことができるのは、《龍》の血を受け継ぐと言われる龍華国の皇族だけ、で……。


 鈴花の思考を読んだように、珖璉が静かに告げる。


「わたしの本当の名は龍璉りゅうれんといい、皇帝陛下の甥にあたる。が、やんごとない事情により、身分を隠して後宮の官正を務めているのだ」


「……え? ええぇぇぇぇぇっ!?」


 珖璉の言葉を理解した途端、すっとんきょうな悲鳴がほとばしる。同時に、鈴花は身を二つに折りたたむように頭を下げた。


「お、お許しくださいませ……っ! ま、まさか珖璉様がそれほどまでに高貴な御方だとは存じ上げず……っ! ふ、不敬罪で罰するのでしたら、なにとぞ私だけで……っ! 姉さんはどうか……っ!」


 身体の震えが止まらない。と、珖璉が優しく鈴花の肩にふれ、身を起こさせる。


「落ち着け。お前も姉も、罰したりするわけがなかろう。……まあ、わたしの身分を明らかにされるのは困るが……」


「も、もちろん言いません! 絶対に何があっても口にしませんっ! 故郷に戻っても誰にも言いませんから……っ!」


 両手で口を押え、ぷるぷると首を横に振ると、珖璉の眉がいぶかしげに寄った。


「故郷? お前を故郷に帰したりするわけがなかろう?」


「えぇっ!? だって、姉さんは故郷に帰りますし、私も……っ」


「ああ。菖花は故郷へ帰してやる。が……。ごく限られた者しか知らぬ秘密を知ったお前を、手元から離すわけがないだろう?」


「えぇぇ――っ!?」


 思いがけない言葉に、混乱の渦に叩き込まれる。

 まさか、まだ珖璉に仕えられるとは思わなかった。


「そ、そのっ、ご迷惑ばかりおかけしている私を、まだお仕えさせていただけるなんて、ありがたいことこの上ないです! で、でも……っ」


 舞い上がりそうなほど嬉しい。けれど同時に、暗雲のように立ち昇る不安に襲われる。


 このまま珖璉のそばにいたら、いつか恋心があふれて気づかれてしまう。


 呆れられ、嫌われるくらいなら、やっぱり故郷に帰ったほうがいいのではないだろうか。ぐるぐると思い悩んでいると。


「まあ、お前がなんと言おうと、手放す気は欠片もないのだがな」


「……はぇ?」


 決然と告げられ、呆気に取られて珖璉を見上げる。


 黒曜石の瞳が、真っ直ぐに鈴花を見つめていた。


「言った通りだ。わたしはもう、お前を手放すことなど考えられぬ」


 珖璉のまなざしに宿る熱にあぶられたかのように、頭がくらくらしてくる。心臓がぱくぱくと高鳴って、鏡を見ずとも顔が真っ赤になっているのがわかる。


 いったい、どんな幻の中に落ち込んでしまったのだろう。珖璉から仕えていいと言ってくれるなんて。


 と、落ち着けと、なけなしの理性が警告する。


 こんな都合のいい夢など、あるはずがない。ぬか喜びしてはだめだ。


 きっと、また後宮で何か事件が起こっているのだ。そのために《見気の瞳》の力が必要に違いない。


 勘違いなどしてはいけない。珖璉が必要としているのは、鈴花ではなく、《見気の瞳》なのだから。


「な、何かまた、後宮で困ったことが起こってらっしゃるんですか……?」


 おずおずと問うと、今度は珖璉が目を丸くした。


「《見気の瞳》が、ご入用なんですよね……?」


 虚を突かれたような顔をしている珖璉におずおずと問うと、「なるほど。そういう誤解か」と何やら得心したように珖璉が呟いた。かと思うと。


「違う。そうではない」


 不意に、珖璉が甘やかに微笑んだ。


 珖璉を包む銀の光よりも、さらにまばゆい、あでやかな笑み。


「《見気の瞳》が得難いものであるのは承知しておるが、わたしが欲しているのはそれではない」


 不意に珖璉が鈴花の手を取り、ぐいと引く。

 よろめいた身体を、とすりと珖璉に抱きとめられた。


 珖璉の腕がぎゅっと鈴花を抱き寄せ。


「《見気の瞳》など、どうでもよい。わたしが欲しいのはお前自身だ、鈴花。――お前が好きだ」


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